第六十四話 閉じた空域
高度九千四百メートル。
政府専用A310の機長、ヤン・ベルスクは、三つの命令を同時に受けていた。
大統領府は東へ飛べと言う。
ベラヴァ議会は直ちに着陸せよと言う。
航空管制は、飛行許可が存在しないと言う。
副操縦士がFMSの経路を見た。
「国境まで十九分」
「その先は」
「帝国管制へ引き継ぎ。受け入れ許可はまだ」
「燃料は」
「カストルへ降りるなら十分。帝国領内で待機させられたら、予備を食います」
操縦室の扉が開いた。
大統領警護隊長が入る。
「針路を維持しろ」
ベルスクは前を見たまま答えた。
「飛行許可が取り消されました」
「議会の違法決議だ」
「航空機は憲法を読めません。管制指示へ従います」
「最高司令官命令へ従え」
警護隊長の手は腰の拳銃へ近い。
ベルスクは五十二歳だった。軍歴はなく、革命家でもない。三十四人を乗せた旅客機を、残燃料と滑走路長の範囲で地面へ戻す。それだけを二十七年やってきた。
政治家は国家を背負うと言う。
操縦士は、実際に三十四人の重さを離陸重量へ入れる。
「機長は私です」
ベルスクは言った。
「撃つなら、着陸してからにしてください」
*
F-2A二機はA310の左後方、十六海里へ入った。
近衛一番機のレーダーが、Su-30SM二機を分離して捉える。
護衛一番機は高度を上げ、二番機は専用機の右へ寄った。
典型的な挟撃準備。
『ベラヴァ政府専用機へ。こちらキミロフ公国大公直属近衛飛行隊。貴国議会決議および航空管制指示に基づき、カストル空軍基地へ誘導する。応答せよ』
返答はない。
Su-30SMからだけ応答が来た。
『公国機へ。政府専用機から離れろ。これはベラヴァ共和国の国内問題だ』
『その共和国の航空管制から要請を受けている』
『偽の政府だ』
『空で選挙はできない。管制へ従え』
近衛一番機の搭乗員は、声を荒らげなかった。
AAM-4Bのシーカーへ、護衛一番機の情報を渡す。
まだ発射しない。
E-7Aから更新される位置情報が、ヘルメット表示へ重なる。
護衛一番機が加速した。
『敵性機、射撃位置へ移動』
『近衛一、武器使用条件を確認』
ペトレンコの声が戦術管制回線へ入った。
『相手が発砲するまで撃つな。専用機から射線を外せ』
『了解』
簡単な命令だった。
相手に最初の一発を譲る、という意味を除けば。
*
Su-30SM一番機は上昇し、専用機から六海里離れた。
F-2A一番機が追う。
二番機はA310の左側へ出て、翼を振った。国際的な要撃合図。追随せよ。
A310は反応しない。
その機内で、議会決議を読んだ客室乗務員が乗客用端末を切り替えた。
機内放送へ、コルサク議長の音声が流れる。
『本機の飛行許可は撤回された。乗員は共和国航空法に従い、カストル基地へ着陸せよ。従った乗員の法的責任は議会が負う』
警護隊員が客室端末を引き抜く。
放送は止まらない。
別系統だった。
大統領が席を立った。
「操縦室を開けろ」
客室責任者が通路を塞ぐ。
「飛行中です」
「国家元首命令だ」
「安全規程は国家元首より先に印刷されています」
警護員が彼女の肩を掴む。
その瞬間、機体が右へ大きく傾いた。
全員が座席へ投げ戻される。
*
Su-30SM一番機がR-77-1を発射した。
白煙が雲上へ一本伸びる。
F-2A一番機の警報音が変わった。
『発射を確認。自衛交戦を許可』
ペトレンコの声。
近衛一番機がAAM-4Bを放す。
同時に急降下。
R-77-1へ正対する時間を短くし、チャフを散布。機体を右へ九十度近くバンクさせ、ミサイルの進行方向へ横腹を見せる。
誘導レーダーの視線速度が跳ね上がる。
R-77-1は追従し、雲へ入った。
F-2Aがさらに高度を捨てる。
ミサイルは後方百二十メートルで近接信管を作動させた。
破片が垂直尾翼と左水平尾翼へ当たる。操縦桿が震え、油圧系統Bの圧力が低下した。
『近衛一、被弾。操縦可能』
AAM-4BはSu-30SMの回避へ追従した。
帝国製護衛機がチャフを撒き、左へ急旋回する。
ミサイルは後方で炸裂。
破片が右エンジンの吸気口と右主翼付け根へ入り、燃料が白い霧になった。
火がつく。
『ベラヴァ一、被弾! 右発停止!』
Su-30SMは専用機から離れ、西へ降下した。
射出座席は作動しない。
操縦士は片発でカストル基地を目指した。
F-2A一番機も損傷している。
双方とも飛べる。
双方とも、二発目を撃てる。
空の中で、最も危険なのはその時間だった。
*
Su-30SM二番機がF-2A二番機を照準した。
射撃管制レーダーの警報が鳴る。
『二番機、ロックオンされた』
『回避許可』
『専用機の横を離れれば、こいつが東へ行く』
F-2A二番機は離れなかった。
A310の左翼端から三百メートル。近すぎて、Su-30SMは中距離ミサイルを撃てない。短距離へ入れば、専用機を巻き込む。
護衛機の操縦士は悪態を吐いた。
『民間機を盾にするのか』
『こちらが外側だ。盾になっているのは俺だ』
F-2Aがもう一度翼を振る。
A310の操縦室で、ベルスク機長はそれを見た。
青灰色の戦闘機。翼下のミサイル。損傷した一番機から流れる油圧液。
公国機は撃てる。
撃たずに横へいる。
後方の警護隊長が拳銃を抜いた。
副操縦士が肩の消火器を取る。
振り向かずに噴射した。
白い粉が操縦室へ広がり、警護隊長が咳き込む。ベルスクはオートパイロットの旋回ノブを左へ回した。
針路二八〇。
カストル基地。
「何をしている!」
「着陸します」
「命令違反だ!」
「どちらの命令かは、地上で裁判所に決めてもらいます」
ベルスクは無線送信を押した。
『カストル管制、ベラヴァ政府一。緊急着陸を要求。機内に武装者。護衛を要請する』
*
Su-30SM二番機は東へ離脱した。
それが帝国命令だったのか、操縦士自身の選択だったのか、記録には残らなかった。
A310はカストル基地へ降下した。
滑走路両側には、議会命令を受けた基地警備隊と、大統領警護隊が対峙している。装甲車の銃口が互いを向く。
管制塔はA310を第三誘導路へ入れた。
停止位置は、両部隊のちょうど中間。
ベルスクは逆噴射を使わなかった。ゆっくり減速し、最後にパーキングブレーキを引く。
「エンジン停止」
「右停止。左停止」
回転音が落ちる。
急に静かになった操縦室で、警護隊長の荒い息だけが聞こえた。
機外では、基地司令が一人で歩いてきた。
拳銃を外し、地面へ置く。
旅客機のドア下で止まる。
「大統領へ伝えろ」
拡声器で言った。
「共和国議会の職務停止決議に基づき、保護下へ置く。抵抗しなければ、誰も撃たない」
三分後、ドアが開いた。
最初に客室乗務員。
次に操縦士。
最後にマルケヴィチ大統領が降りた。
手錠はなかった。
カメラも入れなかった。
政治的な敗北を、公開処刑の映像へ変えないためだった。
*
作戦《空冠》の結果。
政府専用機、カストル基地へ着陸。
搭乗者三十四名、生存。
ベラヴァSu-30SM一機損傷、カストル基地へ片発着陸。操縦士生存。
公国F-2A一機損傷、前進基地へ着陸。乗員生存。
ベラヴァ共和国議会は、帝国軍の領内通過と飛行場使用を四十八時間停止した。
軍部の一部は大統領支持を継続。地方二都市で衝突。死者七、負傷二十六。
戦争は止まらなかった。
四万二千人が一夜で味方になったわけでもない。
ただ、帝国へ向かう列車が止まり、六つの飛行場が閉じ、二日分の空が公国側へ開いた。
「撃ち落とすより高くつきましたね」
シェフチェンコが言った。
「F-2A一機、基地警備、議会支援、外交保証」
ペトレンコは損害表を見た。
「三十四人の葬儀より安いです」
「外務省の葬儀予算を知っている?」
「あなたが先月増額しました」
「嫌な数字だけ覚えてるわね」
「仕事です」
画面では、カストル基地のA310が朝日を受けていた。
翼に穴はない。
王は生きている。
王冠は、共和国の議場へ戻された。
そして四十八時間という短い空白が、北方三国へ向かう作戦地図の上に生まれていた。




