第六十三話 王殺しの採決
ヴァイガの二百一人がセーレ岬へ着くより先に、キミロフの統合作戦室へ殺人計画が届いた。
表紙には、作戦案《王殺し》。特別取扱い。
対象はベラヴァ共和国大統領、イリヤ・マルケヴィチ。
帝国と公国の間にあるベラヴァは、これまで中立を名乗っていた。帝国軍へ鉄道を貸し、燃料を売り、公国の外交官へは中立だから何もできないと言ってきた。
明日の午前、マルケヴィチは帝国との共同防衛議定書へ署名する。
署名されれば、ベラヴァ軍四万二千人と飛行場六か所が帝国の戦争へ組み込まれる。
大統領は午前七時十分、政府専用A310で首都を離れる。
護衛はSu-30SM二機。
第八十八特務支援群の原案は簡潔だった。
公海上空で迎撃。
護衛機を排除。
A310を撃墜。
搭乗予定者三十四名。
「三十四人を殺せば、四万二千人が止まる」
第八十八群の連絡将校が言った。
「算数としては悪くない」
シェフチェンコ外務卿は、搭乗者名簿を指で弾いた。
「政治としては落第です」
「大統領を失えば、署名はできません」
「葬儀にはできます。三十四人分の棺と、撃墜される政府専用機の映像つきで」
「後継者は親西方派です」
「親西方派の大統領が、前任者を殺した国へ最初に感謝すると?」
連絡将校は答えなかった。
正面のスクリーンには、A310の予想経路が赤く伸びている。
赤い線は人間を乗せない。
だから撃つ案は、いつも地図の上で美しい。
*
ペトレンコは左腕の吊り帯を机の縁へ載せた。
痛み止めが切れる時刻を、身体が時計より正確に教えてくる。
「この名簿は確定ですか」
「大統領府の配車記録、空港警備計画、厨房の朝食数が一致しています」
「厨房?」
「機内食三十四。うち一つは減塩」
ロマネンコが口を挟む。
「独裁者も塩には勝てない」
誰も笑わなかった。
彼は肩をすくめた。
「会議が健康的すぎる」
ペトレンコは搭乗者の職名を追った。
大統領。国防相。帝国大使。側近。警護員。
操縦士二名。客室乗務員六名。整備士二名。軍医一名。
殺す価値を説明しにくい人間ほど、名簿の下へ置かれている。
だが、ミサイルは上から順に死なせない。
「撃墜案を却下します」
「参謀長に決定権はない」
第八十八群の連絡将校が言った。
「承知しています。だから、却下するよう大公へ進言します」
「代案は」
「あります」
ペトレンコは別の資料を表示した。
ベラヴァ議会の非公開議事録。
共同防衛議定書は、外国軍へ基地使用権を与える。共和国憲法では議会の事前承認が必要だが、大統領府は《緊急通過協定》と題名を変え、行政権限だけで署名しようとしていた。
さらに、帝国国家保安総局が用意した国内反対派拘束者名簿がある。
百八十七名。
署名の二時間後に拘束開始。
「王を殺す必要はありません」
ペトレンコは言った。
「王が王として振る舞える根拠を、先に殺します」
*
ソフィアが手順へ変えた。
一、議定書原文と拘束者名簿を、ベラヴァ議会議長と最高裁判所へ同時送信。
二、原本性を示す大統領府電子署名、帝国側暗号ヘッダ、作成端末の記録を添付。
三、議会が緊急差止めを決議した場合、その決議に基づきベラヴァ航空管制が政府専用機の飛行許可を撤回。
四、政府専用機が命令へ従わない場合、公国F-2A二機が要撃。ただし武器使用は護衛機からの発砲、または民間航空路への重大な危険に限る。
五、専用機をベラヴァ国内のカストル空軍基地へ誘導。大統領の身柄は共和国憲法機関へ引き渡す。
「共和国側が動かなければ?」
「作戦中止です」
「四万二千人が敵に回る」
「その場合は、四万二千人へ対する作戦を別に立てます」
ソフィアは淡々と言った。
「外国の憲法を守るという名目で、外国の大統領を私たちが撃ち落とす手順は作れません」
連絡将校は資料を閉じた。
「綺麗事だ」
「いいえ」
ソフィアが彼を見る。
「綺麗なら、もっと簡単です。これは手間がかかる」
*
議会側の窓口は、エレナ・コルサク議長だった。
暗号回線が開く。
画面に現れた女性は、化粧を落としたまま議長室へ座っていた。背後の窓には、首都の夜景と、議会を囲む治安部隊の青色灯が見える。
『資料を受け取った』
コルサクは言った。
『本物なら国家反逆。本物でなくても、あなた方が我が国へ介入した証拠になる』
「その通りです」
シェフチェンコは認めた。
『ずいぶん正直ね』
「嘘をつく時間は、あなたの議会前にいる装甲車が使い切りました」
『何を求める』
「議会を開くこと。自国の手続で決めること。それだけです」
『大統領を引き渡せと?』
「いいえ。生かして裁いてください」
コルサクは長く黙った。
画面の外で、扉を叩く音がする。
『治安省が議場を封鎖した』
「裏口は?」
『国家議会に裏口などない』
ロマネンコが身を乗り出した。
「あります。北側地下駐車場、廃ボイラー室の石炭搬入口。鍵は古い管理会社が持ってる」
コルサクの目が細くなる。
『なぜ知っている』
「昔、議員へ高い酒を届けた」
『密輸ね』
「外交です」
初めて、コルサクが笑った。
『その外交経路を送って』
*
採決まで、三時間四十一分。
第八十八群は動けない。
外国議会へ武装要員を入れれば、全てが公国のクーデターになる。
代わりにロマネンコの旧知が、地下搬入口の鍵を議員たちへ届けた。
鍵を運んだのは、首都で暖房設備会社を営む六十七歳の男だった。
工具箱の底へ鍵を入れ、配管修理の伝票を胸ポケットへ差す。治安省の検問は三つ。
最初の検問は、伝票だけを見た。
二つ目は工具箱を開けた。レンチ、テスター、パッキン。鍵は錆びた管継手の中へ隠してある。
三つ目の検問で、若い治安兵が聞いた。
「議会は閉鎖中だ」
「だから暖房が壊れる」
「関係あるのか」
「政治家が集まると、室温を二度上げろと言う。閉じ込めるなら三度だ」
治安兵は伝票を睨み、通した。
男は地下駐車場へ降り、監視カメラの死角で管継手を割った。
錆びた鍵が二本出る。
「外交荷物だ」
待っていた議員が聞く。
「料金は」
「次の予算で暖房管を替えろ。それで帳消しだ」
鍵は錆び、二本のうち一本は錠の中で折れた。
残る一本を回す。
廃ボイラー室の扉が、石炭粉を落としながら開いた。
議員四十七人が黒くなりながら議場へ入る。
定足数には六人足りない。
コルサクは遠隔参加規則を発動した。
治安省が通信を遮断する。
公国の《スティナ》移動端末が、隣国の放送中継車を経由して回線を繋ぐ。
午前四時五十八分。
賛成五十三。反対十一。棄権四。
共同防衛議定書の署名権限停止。
大統領に対する職務停止審理を開始。
航空当局へ、政府専用機の飛行許可撤回を命令。
議会前で治安部隊の一部が銃口を下げた。
残る部隊は大統領府の命令を待った。
国は二つに割れた。
ただし、まだ一発も撃たれていない。
*
ヴォロディミルは最終命令書を読んだ。
作戦名は《王殺し》から、《空冠》へ変更されている。
撃墜案は附属資料として封印。
武器使用条件は三行。
専用機の生存を優先。
民間航空路から隔離。
護衛機が発砲した場合のみ、自衛権の範囲で反撃。
「成功率は」
「専用機が従う確率、五十五パーセント」
ペトレンコが答えた。
「護衛機が発砲する確率、四十。議会決議が空港警備隊へ届かない可能性、二十五」
「数字を足すと絶望的だな」
「足す種類の数字ではありません」
「知ってる。夫として慰めてほしかった」
「大公として質問してください」
「では、大公として。君はどう思う」
ペトレンコは一瞬だけ目を伏せた。
決断の前で、ヴォロディミルは時々、自分を大公と夫へ分ける。彼女はその両方へ答えなければならない。
「撃ち落とす方が簡単です」
「うん」
「簡単な方を選んだら、次も簡単になります」
ヴォロディミルは署名した。
「では面倒な国でいよう」
彼はペンを置き、吊り帯の下にある彼女の指へ触れた。
「帰ってきたら、腕を治せ」
「私が飛ぶわけではありません」
「君はいつも作戦室から一番遠くまで行く」
ペトレンコは少しだけ笑った。
「それは褒め言葉として記録します」
*
午前七時十一分。
ベラヴァ共和国政府専用A310は、撤回された飛行許可を使って離陸した。
左右にSu-30SM二機。
機首は東。
機内ではマルケヴィチ大統領が、議会決議を無効と宣言する文書へ署名していた。
西の雲上で、公国F-2A二機が針路を変える。
『近衛一、要撃を開始』
王はまだ生きていた。
王冠だけが、先に空へ置き去りにされようとしていた。




