第六十二話 二百人目の席
CV9035の車幅は三・二メートル。
旧製材所の切通しは、狭いところで三・五メートルだった。
左右の岩壁へ、拳一つ分の余裕しかない。
操縦手は速度を時速八キロまで落とした。右の履帯が枕木を砕き、車体側面の増加装甲が岩を擦る。火花が後方へ流れた。
「もう少し右」
車長が指示する。
「右は岩です」
「左も岩だ」
「選択肢が豊富ですね」
砲手は照準器から顔を離さなかった。
その上を、Mi-24Pのローター音が横切る。
地形に反響し、方向が分からない。
ロマネンコは兵員室で、ヴァイガ駅の古い平面図を膝へ置いた。
駅舎。信号塔。貨物ヤード。地下の暖房配管。
二十年前、密輸品を構内へ入れた経路は二つあった。税関職員を買うか、配管点検口を使うか。前者は高く、後者は臭かった。
今日は金を払う相手がいない。
「南端の信号扱所まで行け。そこからは歩く」
「列車はあと二十七分です」
「だから急げと言ってる」
「時速八キロで?」
「人生には努力でどうにもならん幅がある」
*
ヴァイガ駅の客車には、百九十八人しかいなかった。
帝国軍の輸送名簿には二百人。
車掌が数えたのは百九十八。
列車警備隊長は、差を問題にしなかった。
一人は前日、移送用のバスごと駅へ来なかった。
もう一人は朝、整列に遅れた。地下倉庫へ連れていかれ、まだ戻っていない。
書類上は乗せたことにすればよい。
行方不明者は、輸送中の逃亡者へ変わる。
逃亡者は、射殺許可の番号へ変わる。
それで報告書は閉じる。
客車の三両目で、少女の母親は空いた席を二つ見ていた。
一つは、バスで連れ出された娘の席。
もう一つは、地下へ連れていかれた息子の席。
両方とも、荷物を置かせなかった。
戻ってくる場所を他人に使わせたくなかった。
*
九時四十分。
CV9035が信号扱所の外壁を押し破った。
煉瓦が砲塔へ降り、窓枠が車体の下で潰れる。三十五ミリ砲は撃たない。駅構内へ向ければ、反対側に客車がある。
後部扉が開いた。
第八十八群の六名とロマネンコが飛び出す。
扱所の帝国兵二名は、机の下からAK-74Mを取ろうとした。
「手を離せ」
一人は従った。
もう一人が銃床を上げる。
二発。
胸部へ命中し、身体が配電盤へぶつかった。スイッチが落ち、構内信号が一斉に赤へ変わる。
「信号は止めた」
兵士が言う。
「機関車は信号を無視できる」
ロマネンコは制御卓の下へ潜った。
旧式の継電器。更新された遠隔制御器。配線図と実物が十三年分ずれている。
「何が必要です」
「転轍機を南へ振る。機関車だけ貨物側線へ入れる」
「客車も入ります」
「連結を切る」
「走行中に?」
ロマネンコは顔を上げた。
「止まってくれるなら、駅へ来る必要はなかった」
*
貨物ヤードのBTR-82Aが動いた。
三〇ミリ機関砲が信号扱所へ向く。
最初の連射が煉瓦壁を貫いた。
机が裂け、紙が白い鳥のように舞う。砲弾は室内を抜け、背後の岩壁へ食い込んだ。ロマネンコの耳から音が消えた。
床へ伏せる。
口の中に石灰と血の味がした。
第八十八群の兵士が窓下からCarl Gustaf M4を出す。
「待て。客車が後ろだ」
BTRは駅舎の陰を使い、射線を切った。
二両目が北側へ回る。
そのとき、線路の東からCV9035の三十五ミリ砲が撃った。
徹甲弾四発。
一発目がBTRの左前輪を破裂させる。二発目は車体前部を貫通し、操向装置を破壊。三発目と四発目が砲塔基部へ入り、砲塔が斜めで止まった。
乗員が後部扉から出る。
CVは撃ち続けない。
もう一両は客車を盾にした。
「嫌な奴だ」
砲手が呟く。
『撃つな』
車長が言う。
『嫌な奴に、正しい照準を褒めてやれ』
*
Mi-24Pが駅上空へ入った。
低い。
機首右側のGSh-30-2K機関砲が、線路沿いのCV9035を捉える。
曳光弾が地面を走った。
最初の列が車体後方を外れ、枕木を粉にする。次の列が上面装甲へ当たり、外部カメラと無線アンテナを吹き飛ばした。車内で警報が鳴る。
「上が見えない!」
砲手が叫ぶ。
Mi-24Pは通過し、駅西側で機首を振った。
二度目が来る。
その前に、セーレ岬から飛んだAH-64Eが森の上へ現れた。
『駅上空のハインドへ。南西から接近中。離脱せよ』
Mi-24Pは答えず、高度を下げた。
建物の間へ入り、アパッチのレーダー視線を切る。
両機は駅を挟んで互いを探した。
ローターウォッシュが屋根瓦を剥がし、ホームの時刻表を折る。
アパッチのM230が短く撃つ。
三十ミリ弾がMi-24Pの尾部手前を通過し、倉庫の屋根へ穴を開けた。
Mi-24Pが上昇する。
右翼端へ一発が当たり、外板が裂けた。致命傷ではない。
帝国機は東へ逃げた。
アパッチは追わない。
『地上班、上空は二分だけ空ける。仕事を終えろ』
「二分で二百人か」
ロマネンコは耳鳴りの中で立ち上がった。
「ずいぶん親切な締切だ」
*
列車が動き出した。
ディーゼル機関車の回転数が上がり、連結器が一両ずつ衝撃を伝える。客車の窓で百九十八の身体が揺れた。
警備兵はホーム側へ集中している。
第八十八群は暖房配管の点検口から二両目の床下へ入った。
先頭の兵士が床板を押し上げる。
便所だった。
中に帝国兵が一人いた。
互いに一秒、黙った。
「最悪の入室だな」
帝国兵が銃へ手を伸ばす前に、拳銃の銃床が顎へ入った。
ロマネンコは後から上がり、鼻を押さえた。
「秘密の通路ってのは、たいてい臭い」
各車両の警備兵を、前後から分断する。
一両目で三発。
二両目で一発。
三両目の帝国兵は、乗客の少女を腕へ抱え、銃口をこめかみへ当てた。
「来るな」
第八十八群の兵士は銃を下げた。
ロマネンコには、少女の顔より男の足が見えた。
踵が浮いている。
床は動き、車体は揺れる。男は人質を保持するため、右足へ重心を寄せていた。
「分かった」
ロマネンコは両手を上げる。
「俺たちは降りる。だが、その子は運賃を払ってない」
「何を言っている」
「無賃乗車だ。帝国の威信に関わる」
男の視線が一瞬だけ下がった。
少女が男の足を踏んだ。
重心が崩れる。
第八十八群の兵士が一発撃つ。
弾丸は男の右肩へ入り、銃口が天井を向いた。発射音。窓が割れた。
少女を引く。
男は床へ倒れ、傷口を押さえて呻いた。
「殺さないのか」
ロマネンコが聞く。
「訊くことがあります」
「仕事熱心で結構」
少女は母親の胸へ飛び込んだ。
その母親は、もう一つの空席から目を離さなかった。
「息子が地下に」
列車は速度を上げている。
駅北端まで八百メートル。
「名簿は百九十八だ」
第八十八群の隊長が言った。
「命令は列車の乗客救出です」
正しい。
正しい命令は、二人を地下へ残せる。
ロマネンコは車外の信号柱を見た。
「俺は命令を受けてない」
「あなたは作戦協力者です」
「便利な肩書だ。クビにしろ」
彼は無線を取った。
「扱所。転轍を今だ」
*
機関車が貨物側線へ入った。
客車との連結器には、第八十八群の兵士が切離し梃子へ結束紐を掛けている。
分岐通過の衝撃に合わせて引いた。
空気管が裂ける。
圧縮空気が白く噴き、客車の非常ブレーキが作動した。車輪が甲高い音を上げ、火花を散らす。
機関車だけが側線を進み、車止めへ突っ込んだ。
緩衝器を押し潰し、前部台枠が持ち上がる。運転士と警備隊長は制御台へ叩きつけられた。
客車六両は本線上で停止した。
公国部隊がホームへ入る。
帝国兵の抵抗は七分で終わった。
死亡六、負傷九、投降二十一。残りは東へ逃走。
公国側は重傷二、軽傷五。CV9035一両が航法・観測装置を損傷。
救出百九十八。
ロマネンコと第八十八群二名が地下倉庫へ向かった。
扉には外から南京錠。
中で、水道管を叩く音がした。
鍵を撃つ。
扉を開ける。
十四歳の少年と、彼を庇っていた駅員がいた。少年の左目は腫れ、駅員は肋骨を折られていた。
「列車は」
少年が聞いた。
「止めた」
「姉は」
「乗ってる」
少年は膝から崩れた。
ロマネンコは抱き起こさなかった。代わりに、歩けるかと聞いた。
少年は頷いた。
歩ける人間には、歩けるという尊厳を残す。
歩けなくなったら運べばいい。
*
救出者は二百人になった。
母親と弟は、客車の三両目へ戻った。
母親は娘の席へ荷物を置かず、セーレ岬まで空けておくと言った。
駅員には、空いていた二百人目の席が与えられた。
名簿にない一人だった。
「数が合いません」
輸送担当が言った。
「二百人の救出命令です。二百一人います」
ロマネンコは鹵獲した帝国軍名簿を破った。
「なら、こっちの数え方を変えろ」
「報告書は?」
「二百人と、報告書より運の悪かった一人」
列車は損傷した機関車を切り離し、ヘーチマン社の装甲回収車二両に牽かれて南へ動き始めた。
速さは時速十二キロ。
海岸まで三十八キロ。
帝国軍が来る前に走り切れる速度ではない。
だから、公国軍は線路の両側へ残った。
*
駅を離れて二十六分後、東の県道に帝国軍の車列が現れた。
BTR-82A三両、軍用トラック四両。
ヴァイガから逃げた兵が呼んだ増援だった。
列車は切通しの中にいる。前へも後ろへも速度を変えられない。
ヘーチマン社のM60A3二両が、線路と県道の間にある耕作地へ出た。雨を吸った土が履帯へまとわりつく。
帝国側の先頭BTRが三〇ミリ機関砲を撃つ。
弾着がM60A3の前を横切り、線路脇の電柱を折った。電線が客車の屋根へ落ちる。停電した区間で電気は来ていないが、乗客は悲鳴を上げた。
M60A3一番車が発砲。
一〇五ミリ榴弾はBTRの手前へ着弾し、道路舗装を剥がした。先頭車が穴を避けようとして横を向く。
二番車の砲弾が、その機関室へ入った。
車体後部から炎。乗員が脱出する。
残る二両は散開した。
片方が列車へ射線を取ろうとする。
T-72M1が林の陰から一発撃った。砲弾は砲塔を外し、前輪二本と操向装置を破壊する。BTRは畑へ落ちた。
三両目は煙幕を張り、トラックとともに東へ退く。
公国側は追わなかった。
列車の速さへ戻る。
戦車が勝てる速度ではなく、二百一人が帰れる速度だった。
*
午後二時十四分。
列車はセーレ岬の臨時停車場へ着いた。
客車の扉が開く前に、九歳の少女が松葉杖を放り出しそうになった。衛生兵が襟を掴んで止める。
「走るな。骨がずれる」
「家族が」
「家族は逃げない。骨は逃げる」
母親と弟が三両目から降りた。
少女は今度こそ松葉杖で進んだ。
最後の三歩だけ、弟が支えた。
三人が抱き合う。
ロマネンコは少し離れて見ていた。
母親が彼へ気づき、礼を言おうとする。
「俺じゃない」
彼は列車を牽いた回収車と、泥だらけの兵士たちを指した。
「礼は人数分に割ると安くなる。代わりに、忘れないでくれ」
「何を」
「二百じゃない。二百一人だ」
数字は、人を消すためにも使える。
正しく数えれば、人を戻すためにも使えた。
助けるとは、扉を開けることではない。
開けた扉から、最後の一人が出るまで撃たれ続けることだった。




