第六十一話 ヴァイガへの道
セーレ岬からヴァイガ駅までは、地図の上で三十八キロだった。
道路の上では、もっと長い。
帝国軍が橋を一つ落とし、排水溝へ対戦車地雷を埋め、路肩へ故障車を捨てるたび、距離は伸びた。地図には載らない時間が、車列の前へ積み上がる。
午前六時十二分。
先頭のCV9035が、松林を抜ける県道で止まった。
『前方、路面陥没。車両一。生存者らしき熱源』
後続のT-72M1とM60A3が、車種ごとに間隔を空けて停車する。最後尾ではヘーチマン社のBergepanzer 2が砲塔のない頭を揺らし、牽引索を路面へ落とした。
「らしき、という言葉は便利だな」
ヴィクトル・ロマネンコは装甲車の後部扉を開けた。
左頬の古い傷が、朝の冷気で白くなる。
「生きていたら人間。死んでいたら障害物。参謀が両方を一語で扱える」
第八十八特務支援群の兵士が安全装置を外した。
「港の親分は、森でも口が悪いんですね」
「森には税関がない。機嫌がよくなる理由しかないだろ」
ロマネンコは降りた。
予定では、彼はセーレ岬の補給調整を担当するはずだった。
予定表というものは、港では潮に負け、戦場では最初の死体に負ける。
ヴァイガ駅の裏手には、帝国軍が把握していない旧製材所の引込線がある。その引込線へ続く林道を知る人間は、地元の密輸業者と、密輸業者から通行料を取っていた男だけだった。
後者がロマネンコだった。
*
陥没した路面の中央に、青い小型バスが横倒しになっていた。
前輪は吹き飛び、車体の下へアスファルト片が食い込んでいる。窓はなく、側面に五つの弾痕。車内から弱い熱が二つ。
「触るな」
工兵が言った。
バスの右側、排水溝から細い被覆線が伸びている。
車体の下へ入っていた。
「死体を餌にしたか」
「まだ死体とは限りません」
「だから質が悪い」
ロマネンコは双眼鏡を上げた。
運転席の後ろで、小さな手が一度だけ動いた。
子供だ。
見えた瞬間、彼の頭は距離と値段を数え始めた。
排水溝まで十四メートル。松林の縁まで四十。起爆手がいるなら北側斜面。救助を始めれば撃つ。撃たなくても、バスの下に二次装置がある。
感情を挟むと手順が遅れる。
ロマネンコは昔から、心配を勘定へ変えるのがうまかった。
「CV、一番砲。北斜面の倒木、左三メートル。撃つな。見せろ」
CV9035の砲塔が回る。
三十五ミリ砲の黒い銃口が、松林を向いた。
倒木の陰から鳥が二羽飛び立った。
人影は動かない。
「熱画像」
『二。倒木の裏。一人は伏せ、一人は送信機らしきものを保持』
「お客だ」
第八十八群の二名が路肩へ這う。
同時に、工兵が小型UGVを排水溝へ入れた。六輪の車体が泥を噛み、被覆線をカメラで追う。
線はバスの下で二股に分かれていた。
一方は一五二ミリ砲弾二発を束ねた主装置。
もう一方は、救助者が側面扉を開けたとき作動する圧力解除式の罠。
「料理が二皿」
工兵が呟いた。
「店主に返せ」
北斜面で送信機が持ち上がった。
乾いた銃声。
第八十八群の狙撃手が、送信機を持つ手ではなく、隣の地面を撃った。土が顔へ跳ね、起爆手が反射的に伏せる。
二人目がPKMを起こした。
CV9035が先に撃つ。
三十五ミリ弾三発が倒木を割った。一本目は幹を砕き、二本目は機関銃の二脚を飛ばし、三本目が斜面の土を噴き上げる。
射手は銃を捨てた。
第八十八群が左右から入り、二人を地面へ押さえつける。
送信機は生きていた。
起爆信号だけが届かなかった。
公国の電子戦車両が、周辺の民生帯域ごと狭い範囲で潰していた。
「文明は便利だな」
ロマネンコは言った。
「人殺しまで無線になった」
「昔は違ったんですか」
「昔は請求書を手渡しした」
*
処理に十九分かかった。
バスから救出されたのは、運転手と九歳の少女だった。
少女は右脚を骨折し、脱水していた。母親と弟は三日前、ヴァイガ駅へ連行されたという。
「列車は今日、十時に出る」
少女は酸素マスクの下で言った。
「兵隊が、北へ行くって」
現在時刻、六時四十八分。
ヴァイガまで残り二十九キロ。
車列は三十一分を失った。
ホロボロドコの声が無線へ入る。
『回廊班、進捗を報告』
「罠一、捕虜二、民間人二を回収。遅延三十一分」
『取り戻せるか』
「速度を上げれば車列がばらける」
『なら上げるな』
命令は短かった。
『列車へ間に合わなければ、次は線路を止める。死ぬ速度で救助へ行くな』
ロマネンコは無線を切った。
「軍人らしくない」
第八十八群の兵士が言う。
「あの元帥は、死ぬ順番を部下へ選ばせない。だから軍人なんだろ」
少女を乗せた救急車がセーレ岬へ戻る。
車列は前進を再開した。
*
七時二十六分。
車列は人口百二十人のルーガ村へ入った。
衛星画像では無人だった。
実際には、三十七人が教会跡の地下へ隠れていた。
砲塔の音を聞いて、最初に出てきたのは猟銃を持つ老女だった。公国軍の橙色識別布を見ても銃口を下げない。
「帝国軍は」
ロマネンコが聞く。
「昨夜、駅へ戻った」
「道路の地雷は」
「教えたら、あなたたちは村を守る?」
「守るとは約束できない」
後ろの若い兵士が顔を向けた。
もっと気の利いた言葉があるだろう、という目だった。
ロマネンコは嘘を足さなかった。
「列車を取り戻して、南へ帰る。ここへ残せるのは無線機一台、止血具、対戦車兵器二本。帝国軍が中隊で来たら足りない」
老女は彼の傷を見た。
「正直な軍人ね」
「軍人じゃない」
「だから正直なのか」
彼女は猟銃を下げ、納屋から学校用の古い黒板を持ってこさせた。
白墨で、県道の地雷位置を描く。
帝国軍工兵が埋めたTM-62M、七枚。
偽装した道路標識の裏に遠隔カメラ二台。
森へ入った車両を狙う迫撃砲の基準点三か所。
「なぜ知っている」
「埋めたのが、うちの孫だから」
村の青年が地下から出てきた。
帝国軍に徴用され、工兵作業をさせられた。制服はなく、手の爪に土が残っている。
「逮捕する?」
老女が聞いた。
「地雷を掘り返せるか」
「できる」
「なら先頭車へ乗れ。逮捕するかは、七枚の後で考える」
青年はCV9035へ乗った。
工兵班は地雷を四枚解除し、三枚は路肩で爆破した。
遠隔カメラを回収する。
記憶装置には、過去二日間に県道を通った帝国車両の映像があった。
BTR-82A二両。
Mi-24P用の弾薬トラック一両。
ヴァイガ駅の警備交代バス。
時刻まで写っている。
地図になかった村が、衛星より細かな作戦情報を持っていた。
出発前、ロマネンコは無線機と止血具とNLAW二本を降ろした。
「中隊が来たら逃げろ」
老女はNLAWの説明書を見た。
「読めない」
「孫に読ませろ。地雷より安全だ」
「戦車を撃つ道具が?」
「埋めた場所を忘れない」
老女は初めて笑った。
村へ兵を残す余裕はない。
代わりに、逃げる時刻を知らせる暗号と、逃げるまでの時間を買う道具を置いた。
それは防衛ではなかった。
見捨てるまでの手順を、少しだけ人間的にしたにすぎない。
*
八時十三分。
旧製材所の煙突が見えた。
道路橋は落とされていたが、ロマネンコの地図には、川床を通る木材搬出路が残っている。二十年前に廃止され、行政上は存在しない道だった。
行政上存在しない道は、砲撃計画にも載りにくい。
先頭のT-72M1が川床へ降りた。
泥が履帯の上まで上がる。車体が右へ傾き、エンジンが黒煙を吐いた。後方からBREM-1が牽引索を張る。
「あと二メートル!」
整備員が泥の中で叫ぶ。
対岸の葦が光った。
RPG-29。
弾頭がT-72の正面を外れ、右側の護岸へ命中した。コンクリート片が砲塔を叩き、車長用潜望鏡が砕ける。
M60A3が川岸で停止し、一〇五ミリ砲を発射した。
発射炎が朝霧を押し広げる。
榴弾は射手のいた葦原の手前へ落ち、泥と水を十メートル上げた。第八十八群が左岸から回り込む。
短い自動射撃。
帝国兵三名が両手を上げ、四人目は林へ逃げた。
ロマネンコは追わせなかった。
「一人逃げた」
「いい。駅へ電話してもらう」
「待ち伏せが来ます」
「来る場所が分かる。営業は、客に店を知らせるところからだ」
T-72M1は自力で対岸へ上がれなかった。
BREM-1とBergepanzer 2が前後から引く。違う国で作られ、違う規格の牽引具を持つ二両の間を、ヘーチマン社製の継ぎ金具が繋いだ。
鋼索が鳴る。
泥が履帯から剥がれる。
戦車が一メートルずつ坂を上がった。
マゼパは無線で聞いていた。
『継ぎ金具、変形あり』
「戻ったら交換しろ」
『在庫は一個です』
「なら戻るまでもたせろ。会社の標語だ」
『初めて聞きました』
「今できた」
*
九時二十二分。
ヴァイガ駅の信号塔が、林の向こうに現れた。
RQ-4Dの画像では、駅構内に客車六両、ディーゼル機関車一両、警備兵およそ四十。北側の貨物ヤードにBTR-82A二両。
西からMi-24P一機が接近している。
列車の発車予定まで三十八分。
ロマネンコは携帯端末に残る古い配線図を開いた。
「正面を撃てば、客車ごと蜂の巣だ」
「裏から入る道は」
「道はない」
彼は製材所の引込線を指した。
「線路ならある」
貨車用の狭い切通しが、駅の南側へ続いていた。
幅はCV9035がぎりぎり通れる。
崩れれば、後退できない。
「装甲車一両、第八十八群二班。俺も行く」
「港長が?」
「昔、この駅で税関に三回捕まった。四回目は勝ちたい」
遠くで汽笛が鳴った。
機関車の排気が濃くなる。
帝国兵が客車の扉を閉め始めた。
ロマネンコは左頬の傷を親指でなぞり、ヘルメットを被った。
「行くぞ。二百人分の運賃を取り返す」
CV9035が引込線へ降りた。
頭上では、Mi-24Pのローター音が近づいていた。




