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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第五十九話 五つの空席



 セーレ岬を奪ってから四時間、帝国軍は何もしてこなかった。


 砲撃なし。


 航空攻撃なし。


 偵察無人機が二度、遠くを通っただけ。


「諦めたか」


 若い海兵が言った。


 壕の向かいで、第八十八群の兵士が缶詰を食べていた。


「敵が諦めたと思う瞬間は二つある」


「いつだ」


「本当に諦めたときと、こっちを安心させたいとき」


「見分け方は」


「撃たれれば分かる」


「役に立たないな」


「戦場の知恵は、だいたい結果論だ」


 海兵は笑い、煙草を一本差し出した。


「吸わない」


「じゃあ、なぜ受け取った」


「次に欲しがる奴へ高く売る」


 四時間で、即席の友情は十分育った。


 砲弾一発で刈り取れる程度には。


     *


 午後二時十三分。


 最初の一五二ミリ砲弾が、監視塔の南百メートルへ落ちた。


 着弾音より先に、空気が腹を殴る。土と石が壕へ降り、食べかけの缶詰が泥に埋まった。


「砲撃!」


 二発目は北。


 三発目は海岸。


 観測射だった。


 帝国の2S19M2《ムスタ-S》自走榴弾砲中隊が、内陸十八キロから射撃している。


 四発目から、弾着が監視塔周辺へ集まった。


 コンクリート壁が一枚ずつ剥がれる。窓に残っていたガラスが粉になり、階段室へ白煙が流れ込む。


「全員、掩体! 車両は分散!」


 CV9035が建物の陰から後退する。


 その一両の右履帯前方へ砲弾が落ちた。爆圧で履帯が外れ、車体底部へ破片が入り、操縦手の脚を貫く。車内が血と油の匂いで満ちた。


「動けない!」


「乗員退避!」


 砲塔員が負傷者を後部ランプへ引く。


 五発目が近くへ着弾し、開いたランプが歪んだ。半分しか下がらない。


 外から海兵二人が駆けつけ、隙間へ肩を入れる。


「押せ!」


 金属が軋む。


 砲弾が次に来るまでの時間は、二十秒前後。


 十九。


 十八。


 ランプが開いた。


 負傷した操縦手を引きずり出した瞬間、次弾が車体左側の地面へ突き刺さり、ほとんど同時に炸裂した。


 爆圧でCV9035の側面増加装甲が剥ぎ取られ、三十五トンの車体が右へ浮いた。車内に残った燃料と油圧液へ火が走り、開いた後部ランプから黒煙が噴き出す。二人の海兵は爆風で地面へ投げられた。


 一人は起きた。


 一人は動かなかった。


     *


 砲撃の陰で、帝国地上部隊が来た。


 T-90M四両。


 BMP-3八両。


 歩兵約百二十。


 指揮官はヴェリチコ大佐だった。防空連隊のレーダーを失い、残存兵をまとめて反撃部隊へ加わっている。


 専門は防空だったが、地図と無線と退路は読めた。


「海岸へ押し戻すな」


 彼は命じた。


「南の道路だけを切る。連中は船へ戻ろうとして、渋滞する」


 副官が聞く。


「捕虜は」


「武器を捨てれば取る。負傷者を撃つな。こちらの兵も、明日は向こうへ倒れる」


 ヴェリチコは車内の小さな再生機を見た。ジャズは流していない。


 砲声で聞こえないからではない。


 今日、部下の名前を聞き逃したくなかった。


     *


 帝国軍は正面から来なかった。


 林道を南へ回り、上陸地点と内陸進出班の間へ入った。


 先頭のT-90Mが2A46M-5滑腔砲を撃つ。砲弾は土塁を抜き、公国通信車の後部を吹き飛ばした。衛星通信アンテナが空へ飛び、回転しながら落ちる。


「主回線断!」


 曙光線通信網が自動で予備へ切り替わる。


 光回線はない。


 戦術データはリンク一六から音声中継へ落ち、帯域が十分の一になる。


 ペトレンコの作戦室で、部隊記号が三つ消えた。


「見えません」


 参謀が言う。


「消えたのは部隊ではなく回線です。最後の位置を保持。勝手に死亡扱いしない」


 損失を数えるのが彼女の仕事だった。


 見えないものを、都合よくゼロにも全滅にもしてはいけない。


「CV9035隊へ、音声で南道路を警告。海上砲撃は」


「敵味方が近すぎます」


「では撃たない。アパッチは」


「燃料残り十八分」


「一往復だけ」


 南道路では、ヘーチマン社の二個戦車班が帝国軍の横腹を止めていた。


 止める、と言っても撃破ではない。


 T-72M1二両が一二五ミリ榴弾を林縁へ撃ち、BMP-3の歩兵を車外へ下ろさせる。M60A3二両は一〇五ミリ発煙弾を道路へ落とし、T-90Mから海岸を見えなくした。


 正面から撃ち合えば、古い車両から死ぬ。


 マゼパはそれを知っていた。


『敵T-90、前進』


「決闘するな。三十秒ごとに位置を変えろ。会社は騎士団ではない」


 一両のM60A3が後退に遅れた。


 T-90Mの一二五ミリ砲弾が砲塔基部へ命中する。防盾下で火花と金属片が車内へ吹き込み、装填手の肩を裂いた。消火装置が作動し、白い薬剤が戦闘室を満たす。


 車長は砲塔上面ハッチを蹴り開けた。


「全員退車!」


 四人が道路脇の排水溝へ転がり込む。直後、砲塔後部から炎が上がった。


 Bergepanzer 2が、履帯を外したCV9035へ後退で近づいた。回収整備士オレク・ダニルチュクが車外へ降り、砲撃の合間に牽引索を掛ける。


 一五二ミリ砲弾が道路の反対側へ落ちた。


 破片がオレクの脇腹へ入った。


「戻れ!」


「あと一本です!」


 彼は二本目の索を繋いだ。近くで倒れた海兵の脚から血が噴いているのを見て、自分の止血帯を衛生兵へ投げた。


「そっちへ使え!」


 Bergepanzer 2がCV9035を道路から引きずり出し、回廊を一本開けた。


 オレクは乗車口まで戻れなかった。


 会社が買ったのは勝利ではない。


 アパッチが一往復するための道路と、負傷者を海岸へ返すための数分だった。


     *


 AH-64E二機が林の上へ出た。


 T-90Mは赤外線煙幕を展開する。白ではなく、熱像装置へ黒い壁を作る煙。


 アパッチ一番機はロングボウ・レーダーで砲塔だけを拾った。


『四目標。友軍百五十メートル』


『ヘルファイア不可』


『三十ミリで履帯を狙う』


 機体がポップアップする。


 その瞬間、林縁から9K332《トール-M2》が発射した。


 防空車両は戦車隊の後ろでレーダーを切り、光学追尾していた。


『ミサイル!』


 一番機が急降下し、フレアを撒く。トールのミサイルは電波指令誘導で、フレアへは行かない。


 二番機が地形の陰へ入る。


 一番機は間に合わなかった。


 ミサイルが左エンジン後方で爆発した。破片がテールブームを裂き、尾部ローターの駆動軸が切れる。


 アパッチが反時計回りに回り始めた。


『メーデー、メーデー!』


 操縦士は速度を落とさず、林の切れ目へ機首を押した。回転する機体のまま、主脚が地面へ触れる。左脚が折れ、胴体が横倒しになった。ローターが土を叩き、四枚とも砕ける。


 爆発はしない。


 機体から煙が出る。


「救出班、出る!」


 先ほど煙草を売ろうとした海兵と、第八十八群の兵士が同時に壕を出た。


 敵戦車まで六百メートル。


 砲撃は続いている。


「高く売る相手がいなくなるぞ!」


 海兵が叫ぶ。


「だから回収する!」


 二人は墜落機へ走った。


     *


 アパッチの操縦士は意識があった。射撃手は脚を挟まれている。


 キャノピーを爆破索で外す。


 海兵が操縦士を引く。


 第八十八群兵士は射撃手の座席周りへ手を入れ、潰れたペダルを切ろうとした。


 T-90Mの同軸機銃が土を跳ね上げる。


「早く!」


「切れない!」


 海兵がNLAWを取り、立ち上がった。


 距離五百五十。


 照準三秒。


 ミサイルが発射され、最も近いT-90Mの砲塔上面へ命中した。爆発で車長用照準器が飛び、戦車が停止する。


 その代わり、海兵は次の機銃射を受けた。


 身体が後ろへ倒れる。


 第八十八群兵士は振り返らなかった。振り返れば手が止まる。


 ペダルが外れた。


 射撃手を引き出す。


「二人とも出した! 下がる!」


 CV9035二両が煙幕を張り、救出班との間へ入る。ブッシュマスターIII 35ミリ機関砲がトール-M2の前方へ射撃。防空車は後退した。


     *


 戦闘は一時間九分続いた。


 帝国軍は南道路の切断に失敗し、日没前に後退した。


 ヴェリチコは最後のBMP-3へ乗らず、道路脇を歩いた。


 負傷兵を載せた車両を先に出す。弾薬箱を捨て、空いた場所へ二人ずつ押し込む。


「大佐、最後尾は危険です」


 副官が言う。


「先頭も危険だ」


「指揮官が死ねば」


「次席が指揮する。そのために高い給料を払ってる」


「高くありません」


「では、死ぬな」


 林の手前で、ヴェリチコは一両のT-90Mへ寄った。砲塔上面が破れ、車長用照準器が失われている。操縦手は生きていた。砲手は死んだ。


「置いていきます」


 戦車長が言う。


「爆破を」


「弾薬は?」


「搬出できません」


 ヴェリチコは公国陣地の方向を見た。


 追撃はない。


「砲尾を壊せ。車体は残せ」


「鹵獲されます」


「火をつければ、負傷者を運ぶ時間が減る」


「敵に情けを?」


「味方の時間を買う」


 倫理と実利が同じ方向を向くとき、説明は短くて済む。


 砲尾へ爆薬を一つ仕掛ける。小さな爆発で閉鎖器が歪み、主砲は使えなくなった。


 戦車兵たちは死んだ砲手の認識票を取り、車体を離れた。


 ヴェリチコは最後に、車内の再生機から音楽媒体だけを抜いた。


 ジャズは持って帰った。


 公国側は追撃しなかった。


 弾薬残量、負傷者、通信状態。どれも追える数字ではない。


 味方死亡五名。


 重傷十二名。


 CV9035一両全損、一両走行不能。


 AH-64E一機全損。


 帝国側はT-90M一両大破、二両損傷。BMP-3二両放棄。確認死亡十三、捕虜九。残りは撤退。


 勝利と呼ぶには空席が多い。


 敗北と呼べば、彼らが守った岬と救出した乗員を消すことになる。


 ホロボロドコは報告書へ《陣地保持、作戦継続可能》と書いた。


 英雄という語は使わなかった。


     *


 夜、食堂の長机に五つの空席ができた。


 その前に、五人の身元確認が行われた。


 認識票。


 歯科記録。


 指紋。


 装備番号。


 顔を見れば分かる者も、記録で確かめる。戦友の確信は、遺族へ渡す文書にはならない。


 ホロボロドコは死亡通知の草案を一通ずつ読んだ。


 《勇敢に戦い》


 最初の文から、その言葉を消した。


「事実では」


 副官が言う。


「全員勇敢だった、と書けば何も書いていないのと同じだ」


 一人目は、CV9035から操縦手を引き出した。


 二人目は、アパッチ射撃手の拘束具を切った。


 三人目は、通信車が撃たれた後も予備回線を繋いだ。


 四人目は衛生兵へ止血帯を渡し、自分の傷を後回しにした。


 ヘーチマン社の回収整備士、オレク・ダニルチュクだった。軍籍はない。それでも死亡通知は、公国軍の四人と同じ机で作られた。


 五人目は、海兵がNLAWを撃つ間、煙幕を張った。


 固有の行為を一文ずつ書いた。


「これで遺族は救われますか」


「救われん」


「では、なぜ」


「最後に何をしたか、国家が忘れていないと伝える」


 ホロボロドコは五通へ署名した。


 砲撃命令より時間がかかった。


 誰かが、一つへ未開封の煙草を置いた。


 別の席には、曲がった缶切り。


 兵士たちは豆を食べた。


 冗談は出なかった。


 食事が終わるころ、第八十八群の兵士が煙草を一本取り、火をつけずに唇へ挟んだ。


「吸わないんじゃなかったのか」


 隣の工兵が聞く。


「高く売る相手が死んだ」


 それだけ言った。


 五つの空席の分だけ、無線は静かになった。


 翌朝には、また誰かがその周波数を使う。


 敬意とは、黙り続けることではない。


 死んだ者が守った回線を、生きた者が次の命令へ使うことだった。


 深夜、五通の通知は暗号回線でキミロフへ送られた。


 翌朝、制服を着た者が五つの家の扉を叩く。


 戦場から見れば、同じ時刻の同じ任務だった。


 扉の向こうでは、五つの別々の世界が終わる。


 公国はその重さを、損害五という一行だけにはしなかった。

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