第五十八話 海岸まで四十ノット
CB90高速戦闘艇は、平水面なら四十ノットを超える。
今朝のアンバー海は平らではなかった。
波高一・八メートル。
北東風。
兵員十八名、弾薬、携帯対戦車ミサイル、衛生装備を満載。
艇首が波へ入るたび、船体が一度持ち上がり、次の瞬間に海面へ落ちた。アルミ合金の底が水を叩き、衝撃が兵士の歯を鳴らす。
「四十ノット出てないぞ!」
公国海兵が操舵室へ叫んだ。
「出したらお前の背骨が先に上陸する!」
艇長が返す。
実速三十二ノット。
海岸まで十一分。
上陸目標は、ラトヴァ西岸のセーレ岬。
岬には帝国の低空監視レーダー、沿岸監視所、短距離防空小隊がある。そこを奪えば、ヴァイガ駅へ続く海上回廊を開ける。作戦範囲は岬と回廊に限られた。
二百人を乗せた移送列車が出る前に、救出部隊を入れるための扉を作る作戦だった。
*
第一波はCB90六隻。
先頭艇の兵員室では、十八人が膝を噛み合わせるように座っていた。
装具が触れるたび、金属音がする。波を越える衝撃でヘルメットが天井へ当たり、誰かが悪態をつく。
「上陸したら最初に何を食う」
第八十八群の兵士が聞いた。
「砂」
海兵が答える。
「その次だ」
「豆」
「夢がない」
「お前は」
「卵。黄身が二つのやつ」
「選べるのか」
「夢の中ではな」
隣の衛生兵は会話へ入らず、止血帯の本数を数えていた。十八人に対して二十四本。胸腔穿刺針。輸液。鎮痛薬。
食べ物を考える者。
弾薬を考える者。
帰った後の休暇を考える者。
誰も死後の名誉を考えていない。
艇内放送が残り七分を告げる。
兵士たちは会話を止め、互いの装具を確認した。顎紐。弾倉。無線。背中側の救出取手。
愛情を口にする時間はない。
代わりに、隣の人間が倒れたとき掴む取手を、手袋で一度引いた。
第二波はエアクッション揚陸艇LCAC三隻。第一艇と第二艇は、ブッシュマスターIII 35ミリ機関砲を備えるCV9035歩兵戦闘車を各二両。第三艇は工兵支援車両と地雷処理器材を載せていた。
海上援護は《ネポコルヌイ》とFREMM級。上空にはAH-64E二機、F-2A二機。Su-35BMは陸上基地から東側の防空を担当する。
上陸指揮はホロボロドコ。
彼自身は《アルバトロス》の統合作戦室にいた。
「元帥は先頭艇へ乗らないのですか」
若い海兵将校が出撃前に聞いた。
「俺が乗ると艇が一隻、司令部になる」
「士気は上がります」
「通信が切れたら全体が下がる。士気で帯域は増えん」
ホロボロドコは前へ出たい人間だった。
だから、前へ出ない理由を毎回言葉にする必要がある。
*
海岸まで七分。
帝国の低空監視レーダーは沈黙している。
Su-24MPとグラウラーが作った十五分の穴へ、艇隊が入る。
五分。
岬の監視塔が見えた。
灰色のコンクリート。右に小さな漁港。砂浜には対上陸障害物が二列。地雷原標識はない。
「熱源!」
先頭艇の電子光学装置が、防波堤裏の車両を捉えた。
パンツィリ-S1。
SEADを避けてレーダーを切り、光学照準で待っていた。
十二連装ミサイル筒が海へ向く。
『パンツィリ、射撃準備!』
AH-64Eはまだ岬の西。建物が射線を遮る。
「艇隊、煙幕!」
CB90が発煙弾を撃つ。白煙が海面へ落ち、風に伸びる。
パンツィリが二発発射した。
最初のミサイルは先頭艇の上を通り、後方の二番艇へ向かう。艇長が左へ急転舵。船体が横波を受け、右舷が海面へ深く沈む。
ミサイルは操舵室上空で近接起爆した。
破片が窓を白く曇らせ、レーダーマストを切る。艇長の左腕へ破片が入った。副艇長が操舵を取る。
「二番艇、航行可能!」
二発目は煙幕へ入った。
パンツィリの光学追尾が一瞬、目標を失う。
その一瞬で、アパッチ一番機が岬を回り込んだ。
『ガン、ガン、ガン』
三十ミリ機関砲がパンツィリ前方を叩く。最初の弾着は短い。修正射が光学照準器と右前輪を破壊する。
車両はミサイルを撃てる。
乗員は撃たなかった。
運転席扉が開き、三人が防波堤へ逃げる。
アパッチは追わない。
任務は艇を浜へ届けることだった。逃げる人間を追う時間はない。
*
先頭艇が砂浜へ乗り上げた。
艇首ランプが落ちる。
海兵が二列で走り出す。砂は足首を取り、背負った弾薬箱が肩を後ろへ引く。銃声は監視塔から来た。
七・六二ミリ弾がランプへ当たり、火花を散らす。
先頭の海兵が砂へ倒れた。胸の防弾板へ一発。息が止まり、身体が動かない。
後ろの兵士が襟を掴んで艇の陰へ引く。
「呼吸は!」
「ある!」
「なら後で文句を聞く!」
別班が障害物の間へ発煙手榴弾を投げる。
監視塔の射手は煙へ撃ち続けた。
公国海兵の狙撃手が、塔の窓枠へ一発。射手が頭を下げる。二発目は窓上のコンクリートを砕き、破片を室内へ降らせた。
射撃が止まる。
「工兵、地雷確認!」
携帯地雷探知機が砂を走査する。
金属反応。
対人地雷ではなく、遠隔起爆式の対舟艇爆薬が三列。海岸へ埋めた導爆線が監視塔へ伸びている。
工兵が線を切った。
十秒後、監視塔から起爆信号が送られた。
砂浜の一部が爆発する。切断できなかった北側の二基が、三番艇の前で砂柱を上げた。船体下面が衝撃で凹み、機関一基が止まる。
艇は着岸できない。
兵士が胸まで海へ入り、負傷者と弾薬を抱えて浜へ向かった。
*
第二波のLCACが地平線から現れた。
四基のガスタービンが轟き、ゴム製スカートの下から海水を霧に変える。艇上のCV9035が塩水を浴び、砲塔だけを海岸へ向けている。
海岸北側から、帝国T-72B3二両が出た。
土塁の陰に隠れていた。
「敵戦車!」
先頭T-72が一二五ミリ砲を撃つ。
砲弾はLCAC一番艇の前方へ落ち、海面を黒く抉った。飛沫が操舵室を覆う。
CV9035は揚陸前で主砲を安定して撃てない。
海兵班がNLAWを構えた。距離八百。正面装甲へは不利。
「待て。横を見せる」
ホロボロドコが回線へ入る。
《アルバトロス》の七六ミリ砲が、戦車ではなくその東側の土塁を撃った。
砲弾が土を吹き飛ばし、T-72の退路を塞ぐ。二両は浜へ出て南へ回ろうとし、側面を海兵へ見せた。
「今だ」
NLAWが一発。
ミサイルは照準線の上を飛び、先頭戦車の砲塔上面で下向きに起爆した。車内から白煙が噴き、戦車が止まる。乗員二名が脱出し、三人目を引き出そうとする。
二両目は後退した。
アパッチがAGM-114Rを発射する。ミサイルは砲塔ではなく履帯前部へ命中し、起動輪を吹き飛ばした。戦車はその場で旋回し、砂へ腹をつける。
『敵戦車二、走行不能。乗員脱出』
戦車は走れなくなっただけで、砲も乗員も残っている。
その違いが、捕虜を三人増やした。
*
上陸開始から二十七分。
監視塔を制圧。
低空レーダー停止。
パンツィリ一両鹵獲。
海岸障害物の通路二本を確保。
CV9035四両が上陸した。
味方重傷三、軽傷十一。
死亡確認なし。
ホロボロドコは戦果報告を聞き、安堵を表へ出さなかった。
死亡なしは、作戦終了を意味しない。
敵増援は内陸から来る。
「ヴァイガ駅までの回廊を開け。追うな。岬を固めろ」
『敵は退いています』
「退ける敵を追えば、待っている敵に会う」
海兵隊は監視塔の屋上へ橙色の識別布を掲げた。公国旗を立てて占領を宣言するより先に、味方航空機へ、ここを撃つなと知らせる必要があった。
監視塔の一階は臨時救護所になった。
胸部へ被弾した海兵は、防弾板が弾を止めていた。肋骨二本骨折。呼吸のたび、顔をしかめる。
「文句を聞くと言ったな」
彼を引いた兵士が言う。
「艇長の操船が下手だ」
「それだけか」
「食堂の豆もまずい」
「正常だ」
隣では、鹵獲したT-72B3の乗員が治療を受けていた。戦車長は額を切り、装填手は肩を脱臼している。
「我々を撮影するのか」
戦車長が聞いた。
「必要なら記録用だけ」
衛生兵が答えた。
「宣伝に使わない?」
「パンツを履いてる映像は需要がない」
戦車長は自分の下着姿を見て、初めて少し笑った。
「うちの宣伝部なら使う」
「趣味が悪いな」
「知っている」
笑いの後、彼は真顔になった。
「三人目が車内にいる」
「生きている?」
「分からない。火が出た」
公国工兵が消火器と切断具を持って走った。
敵の三人目を救うために、上陸予定は七分遅れた。
助け出された操縦手は重度熱傷だったが、呼吸があった。
衛生兵が挿管する。
戦車長は横たわったまま、その手を一度握った。
制服が違っても、乗員同士の手の形は同じだった。
上陸開始から四十九分後、第三波が漁港へ入った。
LCU Mk10型揚陸艇二隻。
一隻目にはヘーチマン社のT-72M1二両とM60A3二両。二隻目にはBREM-1、Bergepanzer 2、弾薬車、燃料車、野戦整備車が載っていた。
年代も砲弾も部品も揃っていない。
揃えていたのは、上陸時刻と無線呼称と、どの車両がどれを引けるかを書いた回収順序だけだった。
マゼパはLCUのランプから降り、鹵獲したT-72B3と履帯を損傷したCB90を交互に見た。
「歓迎の花束は」
海兵将校が聞いた。
「回収車の後ろです。泥と油に埋まって見えません」
「戦車隊は岬へ」
「いいえ。南の補給路へ置きます」
マゼパは地図の細い道路を指で叩いた。
「先頭で勝つのは軍の仕事です。会社は、勝った軍が燃料切れで歩いて帰らないようにする」
T-72M1とM60A3は混成小隊を作らなかった。車種別の二個班として南へ動き、同じ道路を別々の手順で守った。
BREM-1は鹵獲戦車へ。
Bergepanzer 2は走行不能車両へ。
野戦整備車は漁港へ残り、弾薬車と燃料車の間へ土嚢を積む。
公国軍は、ヘーチマン社を一つの軍隊へ作り替えなかった。
不揃いなまま、同じ回廊を閉じないために使った。
海岸まで四十ノット。
そこから先は、歩兵の速度になった。
さらに負傷者を運ぶときは、担架の速度になった。




