第五十六話 帝国の返事
公国の共同声明が終わってから、帝国皇帝アレクサンドルが画面へ現れるまで十一分かかった。
早すぎた。
帝国は声明が読み上げられる前から、答えを発射台へ載せていた。
帝国の返事は、最初から用意されていた。
『キミロフの僭称政権と、その背後にいる西方諸国は、帝国の平和を破壊しようとしている』
皇帝は金色の双頭章を背に立っていた。
机はない。
原稿も見えない。
映像は胸から上だけを切り取り、部屋の場所を特定できる窓や調度品を避けている。
『北方三地域は歴史的に帝国の安全保障圏であり、我が軍は住民を過激主義者から保護している』
エスティア、ラトヴァ、リトネアを国と呼ばない。
占領を保護と呼ぶ。
強制移送を一時避難と呼ぶ。
礼拝堂襲撃は、公国軍指揮官を狙った合法的攻撃とした。
『貨物船に武器があったとの映像は捏造である』
帝国は、公開映像の時刻情報が改変されていると主張した。根拠として、画面の一部に一フレームだけ発生した圧縮ノイズを示す。
ソフィアは再生を止めた。
「反論資料を」
広報官が聞く。
「もう公開しています」
「ですが、帝国は捏造だと」
「同じ資料を大声で出し直しても、真実は増えません」
「黙っていれば認めたと思われます」
「第三者検証の手順だけ示してください。原本のハッシュ値、保全者、閲覧申請先。帝国の形容詞へは返答しない」
相手は事実を争っていない。
事実を確認する行為そのものを疲れさせようとしている。
嘘を百個作るのは簡単だ。百個を一つずつ否定する間に、次の百個が来る。
ソフィアは追いかけなかった。
代わりに、検証可能な扉を開けたままにした。
*
皇帝の演説が七分を過ぎたとき、アーレン島の長距離レーダーが三つの弾道目標を捉えた。
同時に、公国の通信網へ偽の警報が流れ込んだ。
《キミロフへ十発》
《化学弾頭を確認》
《西方艦隊旗艦撃沈》
どれも、正規警報文とよく似た書式だった。送信元は民間の災害通知サービス。乗っ取られた端末が二千台、同じ文を一斉に拡散している。
「全部止めますか」
通信班が聞く。
ソフィアは首を振った。
「止めれば本物の民間警報も消えます。偽警報へ赤い訂正署名を付け、正規軍回線とは分離」
「市民は混乱します」
「もう混乱しています。混乱していないふりをさせないでください」
公国は《現在確認された弾道目標は三。化学弾頭情報なし。キミロフへの飛翔なし》と出した。
三発に減ったことを、安全とは書かない。
三発で死ぬ人間には、十との差がない。
帝国の返事は、ミサイルだけではなかった。
どの警報を信じればいいか分からなくすることも、攻撃の一部だった。
方位東。
上昇角七十八度。
推定9M723《イスカンデル-M》三発。
「弾道警報!」
第一防空旅団の指揮車内で、ルツェンコは画面へ身を寄せた。
発射地点はカレングラード東部。飛翔時間は六分に満たない。
「予測着弾」
「一、滑走路北端。二、TPS-77レーダー。三、港湾燃料区画」
「民間回線へ警報。全員、掩体へ。迎撃班、順番を崩すな」
PAC-3 MSE中隊とS-400大隊が同じ空を見ていた。
どちらも撃てる。
同じ目標へ全弾を使えば、次が来たとき空になる。
「目標一、PAC-3。目標二、S-400。目標三は予備判定まで保持」
若い管制官が振り返る。
「三を待つのですか」
「終末軌道が出ていない。燃料区画とは限らん」
決断できる瞬間まで、迎撃弾を残す。
ルツェンコは指揮卓の縁を握った。
怖くない者は、迎撃弾の数を雑に使う。怖いから数える。
*
アーレン島の警報サイレンが鳴った。
滑走路ではC-130Jが荷下ろし中だった。後部ランプからフォークリフトが後退し、兵士が血液製剤の箱を抱えて防壁へ走る。
港では給油ホースが緊急遮断された。
《ヤリナ》が機関を始動する時間はない。乗員は防火服を着け、空の燃料区画へ海水を満たし始めた。
島の診療所で、看護師が手術台を壁から離した。麻酔中の患者を動かせない。窓へマットレスを立て、照明を落とす。
皇帝の演説は続いている。
『帝国は脅迫に屈しない。侵略者が一歩でも進めば、相応の代価を支払わせる』
画面の中では、まだ何も起きていない。
画面の外では、三発が大気圏上層から落ちてくる。
*
PAC-3 MSEが二発、連続して発射された。
キャニスターの蓋が飛び、白いミサイルが垂直に上がる。空中で東へ折れ、音を置き去りにした。
S-400の48N6DMも二発。
アーレン島の空へ、四本の白煙が交差する。
「目標一、迎撃まで八秒」
PAC-3は直撃した。
高度二万四千メートルで、9M723の弾頭部が砕ける。雲の上で光が瞬き、数秒遅れて破片が燃えながら落ちてきた。
「目標二、迎撃」
S-400の一発目は外れた。
二発目が近接起爆し、弾道弾の姿勢を崩す。破壊しきれない。弾頭は回転しながら落下を続け、TPS-77レーダーから八百メートル離れた林へ着弾した。
地面が持ち上がった。
土と樹木が黒い柱になり、爆圧がレーダーアンテナを横から叩く。展開脚の一基が浮き、車体が半メートルずれた。導波管が外れ、画面が消える。
「レーダー一、沈黙!」
「予備TPS-75へ切替。移動開始」
ルツェンコは第三目標を見る。
終末軌道が出た。
第三目標は、島中央の通信中継所だった。
民間避難所と二百メートルしか離れていない。
「目標三、PAC-3、二発!」
残り時間二十一秒。
迎撃弾が上がる。
一発目は弾道弾の機動で外された。9M723が小さく横へ滑る。二発目が追う。
上空六千メートルで直撃。
弾頭は空中で破壊された。
だが、エンジン部と破片は慣性で島へ降る。
燃える残骸が通信中継所の屋根を突き破り、非常発電機室で火災が起きた。避難所の窓が割れる。子供一人がガラス片で負傷した。
迎撃成功。
被害あり。
その二つは矛盾しない。
通信中継所の消火班は、屋根へ食い込んだエンジン残骸へ泡消火剤を浴びせた。
マグネシウム合金の一部が白く燃え、水を弾く。工兵が乾燥砂を運び、残骸を覆う。
「触るな! 推進薬が残ってる!」
屋根の梁が熱で曲がる。
内部では通信員が可搬端末を抱え、別棟へ移動した。光回線は切れている。衛星回線は生きているが、帯域は十分の一。
「優先順位を」
「防空、救急、港湾。広報動画は切れ」
「皇帝の演説中です」
「録画を見ろ」
国家宣伝より、救急車の行先が先だった。
避難所で負傷した子供は、頬に三針の傷を負った。母親は血を見て泣き、本人は割れた眼鏡の方を気にしていた。
「明日、学校で笑われる」
看護師が傷を洗う。
「学校は休みです」
「いつまで」
「レーダーが直るまで」
「じゃあ、長い?」
看護師は答えられなかった。
迎撃に成功した日、島の学校は閉じた。
それが戦果表の外側にある被害だった。
滑走路南側では、ヘーチマン社の車列が警報解除を待たずに動いていた。
M88A1戦車回収車が、展開脚を損傷したTPS-77のアンテナ車へ牽引索を掛ける。ZIL-131三台は荷台に広帯域送信機を積み、予備陣地へ散った。防空旅団の管制員が出力と送信時刻を決め、会社の運転手は指定された座標まで機材を運ぶ。
本物のTPS-75が再配置を終えるまで、三台のうち二台がレーダーらしい短い放射を繰り返す。敵の偵察装置に、まだ生きている目がどこにあるのか迷わせるための囮だった。
マゼパは防弾帽の下へ受話器を挟み、肋骨を固定したまま配置図を睨んでいた。
「二号車、北へ四百。三号車は送信してから移れ。止まったまま喋るな」
『帝国がまた撃ってきた場合は』
「会社の資産番号を読んで避けてはくれない。だから先に動かす」
損傷したレーダーを直すのは軍の技術隊だった。
直せる場所まで運び、代わりの目が立つまで空白を埋める。それがヘーチマン社の仕事だった。
予備TPS-75が回転を始めるまで、十九分。
公国防空網は、その十九分を三台の古いトラックで買った。
*
帝国皇帝の演説は、最後まで予定どおり放送された。
攻撃については一言も触れなかった。
公国側も、皇帝の演説を嘲笑する編集動画を出さなかった。
代わりに、弾道警報の時刻、発射地点、迎撃映像、民間避難所の損傷を公開した。
「帝国は、軍事通信施設を狙ったと言うでしょう」
広報官が言う。
「実際、その一つです」
ソフィアは答えた。
「では、こちらが不利に」
「軍事目標だったことと、避難所の隣へ弾道弾を撃ったことを両方出します。都合の悪い半分を消せば、帝国と同じになる」
夜、ルツェンコはアレクセイとの定時連絡に三分遅れた。
『通信できない日かと思った』
「三分だ」
『悪態は?』
「帝国の弾道計算屋は、地図の縮尺を読めない糞野郎だ」
『それ、言っていいの?』
「契約だ」
画面の向こうで少年が笑った。
ルツェンコも一度だけ笑い、消えたTPS-77の表示へ目を戻した。
帝国の返事は、言葉と三発のミサイルだった。
公国の返事は翌朝になる。
今度は、撃たれる場所を帝国に選ばせない。
ルツェンコは定時連絡を切った後、迎撃弾の残数を数えた。
PAC-3 MSE、即応十六。
S-400、即応二十二。
再装填車は到着まで三時間。
帝国が同数をもう一度撃てば防げる。
十発なら、一部が抜ける。
防空指揮官は、守った数より次に守れない数を見る。
「少将、休まれますか」
「再装填が終わったら」
「三時間です」
「知っている」
通信兵が黙って、甘すぎる紅茶を置いた。
「砂糖が多い」
「手が震えていました」
ルツェンコはカップを持つ手を見た。
「見なかったことにしろ」
「記録はしません」
彼女は紅茶を飲んだ。
甘さは嫌いだった。
今夜は、ありがたかった。




