第五十五話 家族の契約
ヴォルコフ一家の参戦申請は、三枚では済まなかった。
ヴォルコフ本人の現役復帰。
シーリンの予備役招集。
アレクセイの非戦闘員指定。
治療継続。
保護者不在時の後見。
報道機関による撮影制限。
帝国が一家を宣伝材料や暗殺対象として利用する危険への対策。
家族で戦争へ行くには、家族であることを一度書類へ分解しなければならなかった。
「非戦闘員指定に異議がある」
アレクセイが言った。
会議室の椅子では足が床へ届かない。
「却下」
ヴォロディミルが答えた。
「まだ理由を言ってない」
「理由によって八歳が変わるなら聞く」
「僕は訓練した」
「シミュレーターで滑走した」
「二回成功した」
「三回失敗した」
「母さんが言ったの?」
シーリンが窓の外を見た。
「訓練記録は機密じゃないわ」
アレクセイは腕を組んだ。
「ずるい」
「国家元首とは、ずるさを合法化する制度だ」
部屋の端にいたルツェンコが咳き込んだ。
「私の台詞を盗むな」
「良い制度設計だった」
笑いが一往復した。
書類の非戦闘員欄は消えない。
*
ヴォルコフはSu-35BM部隊の飛行指揮官として復帰する。
シーリンは同部隊の訓練・評価担当。二人とも実戦飛行には航空医官の再審査が必要で、当面は地上待機と訓練飛行のみ。
ルツェンコは第一防空旅団を率い、北方地上群へ入る。Buk-M3中隊二個、S-400大隊一個、パンツィリ-S1小隊。戦闘機には乗らない。
アレクセイはキミロフに残る。
条件は明確だった。
「父さんも母さんも行くのに」
「だから残す」
ヴォルコフが言った。
「二人とも帰らなかったら?」
部屋が静かになる。
子供は、大人が避けた文章を平気で読む。
「その可能性はある」
ヴォルコフは嘘をつかなかった。
「だから、後見人を決める」
「誰」
書類上の第一後見人は、ヴォロディミルとペトレンコだった。
国家元首夫妻を後見人にする案へ、警備部は三度反対した。二人とも同時に狙われる危険が高い。
第二後見人はルツェンコ。
彼女も前線へ行く。
第三後見人に、退役した航空学校長とその妻。
家族は愛情だけで作れる。
戦時の家族には、愛情が途切れた後も子供を迎えに来る順番が要る。
「嫌だ」
アレクセイが言う。
「誰も死なないって書いて」
ヴォロディミルは書類を見た。
その一文だけは、王にも書けない。
「書けない」
「大公なのに?」
「大公だからだ。守れない約束へ国の印を押せない」
アレクセイの目に涙が溜まった。
泣かないように顎を上げる。
ルツェンコが椅子から立ち、少年の前へしゃがんだ。
「代わりに、帰るための命令を出す」
「命令なら帰れる?」
「命令違反をしたら、私が殴る」
「父さんも?」
「特に父親を」
ヴォルコフが眉を上げた。
「階級は俺の方が――」
「防空範囲では私が神だ」
「神は拳で命令するのか」
「予算がない」
アレクセイが涙のまま笑った。
笑わせた後も、死ぬ可能性は消えない。
それでも、恐怖が部屋の全てを占めるのを一度だけ止められた。
*
ペトレンコは後見契約へ署名した。
「私たちに子供ができたら、兄になりますね」
アレクセイが顔を上げる。
「いつ?」
「未定です」
「予定表は?」
ヴォロディミルが水を飲みかけて咳き込んだ。
ソフィアは無表情で書類を閉じる。
「その質問は共同評議会の管轄外です」
「法務官と同じこと言ってる」
「法は、答えたくない質問にも便利です」
ペトレンコの耳がわずかに赤くなる。
ヴォロディミルは戦争計画より難しい顔をした。
「次の議題へ行こう」
「逃げた」
八歳の声が、会議室で一番よく通った。
*
出発前夜、四人は病院の家族室で夕食を取った。
献立は鶏の煮込み、黒パン、じゃがいも。
「豆じゃない」
アレクセイが言った。
「最後の晩餐みたいに言うな」
ヴォルコフが答える。
「父さんが言った」
「言ってない」
「顔で」
シーリンが夫の皿へじゃがいもを一つ追加した。
「あなた、分かりやすいのよ」
「飛行中は無表情だ」
「家庭では計器が全部外に出てる」
ルツェンコは病院食の塩気を疑いながら食べた。
「この鶏は何日前に死んだ」
「食卓で検死するな」
「防空指揮官は脅威を評価する」
アレクセイが笑う。
四人で食卓を囲むのは初めてだった。
明日には三人が別々の基地へ行く。
だからといって、今夜を別れの儀式へはしなかった。儀式にすると、戻れなかったとき最後の食事になる。
「戻ったら何をする」
シーリンが聞く。
「シミュレーター」
「それ以外」
「飛行機の本を読む」
「それ以外」
アレクセイは考えた。
「泳ぐ」
「脚が治ってから」
「じゃあ、犬を飼う」
ヴォルコフが水を飲む手を止めた。
「誰が世話をする」
「大公」
「後見人の職務に犬は入っていない」
「契約へ足す」
ルツェンコが真顔で言った。
「犬種、給餌、散歩担当、戦時疎開先。別紙が要る」
「少将、賛成?」
「私は猫派だ」
国家の前途より、犬と猫で意見が割れた。
その十五分間だけ、戦争は家族室の外にいた。
*
翌朝、出発する三人をアレクセイが見送った。
ヴォルコフとシーリンは飛行服。
ルツェンコは防空旅団の野戦服。紫色の髪を短くまとめ、胸に部隊章を付けている。
少年は松葉杖で立っていた。
「敬礼しなくていい」
父が言う。
「家族だから?」
「腕が疲れるからだ」
アレクセイは敬礼した。
三人も返す。
ルツェンコは最後に近づき、彼の胸へ訓練生用の青い布章を留めた。実戦部隊章ではない。航空学校の見学者へ渡すものだ。
「任務を与える」
「何?」
「治せ。学べ。毎晩二十時に連絡へ出ろ」
「少将も?」
「通信できる日は」
「できない日は?」
「次の日に悪態を聞かせる」
「約束?」
「契約だ」
ルツェンコは額へ触れず、肩を一度叩いた。
成人と子供の距離。
指揮官と守る相手の距離。
そこを曖昧にしないことも、親愛の形だった。
三台の車両が基地を出る。
アレクセイは見えなくなるまで立っていた。
家族の契約は、全員が帰る保証ではない。
帰れなかったときにも、残された者を一人にしないための手順だった。
*
車列が去った後、アレクセイは病室へ戻らなかった。
理学療法室へ行き、松葉杖の訓練を始めた。
「今日は休んでもいい」
療法士が言う。
「任務だから」
「誰の命令?」
「少将」
「正式な文書は」
アレクセイは端末を見せた。
《治せ。学べ。毎晩二十時に連絡へ出ろ》
療法士は読んだ。
「歩けとは書いてない」
「治すに入る」
「都合のいい解釈ね」
「候補生だから」
最初の十メートルで腕が震えた。
二十メートルで左脚が痛む。
三十メートルで止められた。
少年は不満そうだった。
「命令違反だ」
「過負荷で悪化させる方が違反」
「大人はすぐ手順って言う」
「手順がないと、子供はすぐ無茶をする」
療法士は記録へ三十メートルと書いた。
アレクセイはその下へ、自分で《明日も》と書いた。
前線へ行かない者にも、続けるべき戦いがあった。




