第五十四話 空を知る年齢
L-39Cの射出座席には、最低体重と座高の制限がある。
アレクセイ・ヴォルコフは、どちらも満たしていなかった。
「クッションを入れれば」
「射出時に背骨が折れる」
「射出しなければ」
「事故は、予定表を読みません」
航空医官は容赦がなかった。
格納庫の中で、アレクセイは飛行服の袖を余らせたままL-39を見上げていた。細い機首。翼端の増槽。前後に並ぶ二つの操縦席。訓練機は戦闘機より小さい。それでも八歳の目には、建物のように大きい。
「初飛行は延期だ」
ヴォルコフが言った。
「いつまで」
「身体が座席へ合うまで」
「何日?」
「年だ」
アレクセイは父を睨んだ。
「僕は飛べる」
「操縦桿を動かすことと、飛行することは違う」
「父さんは子供のころ飛んだって」
「だから、やらせない」
ヴォルコフの声が硬くなる。
自分が生き延びたことを、正しい訓練だった証拠にしてはいけない。生存者は、時々、危険を美談に変える。
アレクセイは納得していない。
納得させるために危険を小さく言う気もなかった。
*
「代わりに、これだ」
格納庫隣の訓練棟へ入る。
L-39Cの実機操縦席を使った固定式シミュレーター。計器は実物。前方スクリーンに滑走路が映る。教官席と訓練席は電子的に接続され、教官がいつでも入力を奪える。
「ゲームじゃない」
アレクセイが言う。
「ゲームより意地が悪い」
シーリンが教官席へ座った。
「失敗しても派手に爆発しない。その代わり、なぜ失敗したか全部記録される」
「母さんが教えるの?」
「不満?」
「怖い」
「認知機能は正常ね」
シーリンは始動前点検表を渡した。
アレクセイは早くエンジンをかけたがった。
点検項目は百を超える。
座席。
拘束具。
酸素。
計器電源。
燃料。
油圧。
火災警報。
「長い」
「空は、面倒を嫌う人から殺す」
「敵より先に?」
「敵がいなくても」
アレクセイは一項目ずつ声に出した。
途中で三度間違えた。シーリンは答えを教えず、該当箇所へ戻した。
二十八分後、ようやく仮想エンジンが回った。
*
最初の課目は離陸ではなかった。
直進滑走。
風速六ノット。乾いた滑走路。視界良好。
アレクセイはスロットルを急に進めた。機首が左へ振れる。慌てて右ペダルを踏みすぎ、今度は右へ。
「遠くを見なさい」
シーリンが言う。
「計器は?」
「見る。でも、計器の中に滑走路はない」
機体は蛇行し、仮想タイヤが滑走路灯を踏んだ。
画面が停止する。
《課目失敗》
「もう一回」
「休憩」
「まだできる」
「できるときに休むのが訓練」
「戦闘なら休めない」
「だから、戦闘へ行かせない」
シーリンはヘッドセットを外した。
「あなたは、守りたいと言ったわね」
「うん」
「守る人は、自分を壊してはいけない。壊れた自分を助けるために、別の誰かが危険へ入るから」
アレクセイは画面の赤い失敗表示を見た。
「僕、弱い?」
「八歳」
「同じ?」
「今は同じ。大人になるのは、弱さを隠すことじゃない。扱い方を覚えること」
彼女は紙コップの水を渡した。
アレクセイは半分飲んだ。
「母さんも怖い?」
「毎回」
「嘘」
「飛ぶ前に便所へ二回行く」
「本当に?」
「父さんには言わないで」
格納庫側の扉の向こうで、ヴォルコフが聞こえないふりをした。
*
二回目の直進滑走は、成功した。
三回目に時速百六十キロまで加速し、前脚を少し浮かせる。離陸はしない。出力を戻し、制動する。
四回目、横風十二ノット。
五回目、右タイヤ空気圧低下。
六回目、速度計故障。
アレクセイは三回失敗し、二回自分で中止し、一回だけ最後まで終えた。
「中止したのも成功に入るの?」
「正しい中止は、着陸と同じくらい重要」
「格好よくない」
「生きて帰る操縦士は、だいたい格好よくない判断を何度もしている」
訓練記録には、《単独操作不可。教官監督下。次回は地上滑走のみ》と書かれた。
その後は整備教育だった。
L-39Cの左胴体にある点検口を開き、整備員が油圧配管を見せる。
「どれが大事だと思う」
アレクセイは太い配管を指した。
「これ」
「全部だ」
「ずるい質問」
「飛行機は、ずるい質問の塊だ。大きい部品が壊れるとは限らない」
整備員は細い排水管の留め具を見せた。指先ほどの金具に亀裂がある。
「これが外れると」
「墜ちる?」
「すぐには。液が漏れる。警報が出る。戻らないと、その後に墜ちる」
「撃たれなくても?」
「飛行機は敵がいなくても壊れる。だから整備員は毎日、敵より先に機体を疑う」
アレクセイは亀裂へ顔を近づけた。
映像で見る戦闘機は、一つの強い機械に見える。
近くで見れば、何千もの小さな「まだ壊れていない」で飛んでいる。
「パイロットが偉いの?」
「着陸したら整備員の方が偉い」
「飛んでる間は?」
「整備員が正しかったか確認する係だ」
シーリンが後ろで笑った。
「その説明、操縦士には言わないで」
「お母さんも整備記録を三回読んでから署名してください」
「はい、班長」
少年は、翼へ触る前に手袋を渡された。汗と皮脂が検査面へ残るためだ。
空へ近づくほど、好き勝手に触れられる場所は減っていった。
撃墜数も、天才の文字もない。
アレクセイは最後に、駐機中のL-39Cへ乗せてもらった。
エンジンは始動しない。射出座席の安全ピンも抜かない。整備員が脚立を支え、ヴォルコフが後ろにいる。
少年は前席から格納庫の外を見た。
滑走路の向こうで、Su-35BM二機が離陸する。アフターバーナーの光が陽炎を切り、轟音が胸へ届いた。
「いつか、あれに乗る」
「いつか、だ」
ヴォルコフは答えた。
「今日じゃない」
空を知る最初の日に、アレクセイが覚えたのは飛び方ではなかった。
まだ飛ばないと決めることも、空へ近づく手順の一つだということだった。
*
夜二十時、ルツェンコから定時連絡が入った。
画面の向こうは防空旅団の指揮車内。彼女の後ろで、地図記号と周波数表が更新されている。
『今日は何を壊した』
「滑走路灯を三本」
『戦果としては地味だな』
「二回は成功した」
『失敗は』
「三回」
『なら三回分賢くなった』
「父さんは、成功した方を褒めなかった」
『親は失敗で死なないようにする係だ。褒めるのは他人へ任せる』
「少将は他人?」
ルツェンコが一瞬黙る。
『上官候補だ』
「まだ部下じゃないって言った」
『だから候補だ。言葉を勉強しろ』
「言葉は得意だよ」
『口答えもな』
指揮車内の通信兵が吹き出した。
ルツェンコは振り返る。
『今のは記録から消せ』
「命令違反です。自動保存されています」
『通信兵、お前は明日便所掃除だ』
アレクセイが笑った。
笑いが収まると、ルツェンコは真顔に戻る。
『飛べなかったことを、恥じるな』
「でも、飛びたかった」
『知ってる。だから待てる人間になれ。飛びたくない奴は、待つ必要がない』
少年は部隊章を握った。
「返すの、まだ先?」
『ずっと先だ。急ぐな』
通信が切れた後、アレクセイは訓練記録の失敗欄を消さなかった。
成功だけを残すと、次にどこで滑走路灯を踏むか分からなくなるからだ。




