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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第五十三話 宣言の前夜



 三日前、オスタヴァ旧市街。


 ヴァローニュ料理店ラ・ヴィーニュは、帝国占領中に正面の半分を焼かれていた。


 解放後、店主は黒焦げになった窓枠を削り、割れたガラスへ合板を打ち、無事だった炭火台を最初に据え直した。壁の弾痕は漆喰で埋めていない。


「隠すと、また撃っていい壁だと思われますから」


 店主のアンドレ・セヴランはそう言った。オスタヴァ生まれ。リュノワの厨房で十二年働き、老いた母親のために帰国して、そのまま二度の革命と一度の占領を料理人として生き延びた男だった。


 炭火の向こうで、鴨の胸肉から脂が落ちる。


 ヴォロディミルとペトレンコは、奥の小さなブースへ向かい合っていた。


 大公夫妻として最初の外食だった。


 新婚旅行はまだない。ペトレンコの左腕には吊り帯があり、ヴォロディミルの額には礼拝堂で縫った傷が残っている。護衛は店内と店外に四人。公式日程には《港湾復旧状況の非公開視察》とだけ書かれていた。


「これは視察ですか」


 ペトレンコが聞いた。


「法務上は」


「法務には聞きません」


「では、デートだ」


「定義が雑です」


「結婚した後なら、同意を取り直さなくていいと思っていた」


「危険な制度ですね」


 ペトレンコは右手だけでナイフを使った。切り分けに時間がかかる。


 ヴォロディミルが皿へ手を伸ばす。


「自分でできます」


「知っている。見ている方が遅い」


「それは介助ではなく、せっかちです」


 夫婦らしい会話が三往復続いたところで、白い外套の女が隣の椅子を引いた。


「あら。お邪魔だったかしら」


 アナスタシア・オルロヴァは、返事を待たずに座った。手袋を外さず、ワインリストも見ず、アンドレへ指を二本立てる。


「非常に」


 ペトレンコが答えた。


「安心したわ。お邪魔する価値があるもの」


「情報がなければ追い出す」


 ヴォロディミルが言う。


「帝国特殊作戦総局の小隊が一つ、名簿から消えたわ。隊長は近接警護と市街潜入の専門家。輸送記録では北部へ移動したことになっている。でも、彼の副官が昨日、ヴェルナ海沿岸用の暗号表を請求した」


 アナスタシアは注がれた赤ワインを一口飲んだ。


「偶然にしては、趣味が悪いでしょう」


 ペトレンコは窓の外を見た。


 配給所から戻る市民。


 港湾作業員。


 二度目に通る灰色の保冷車。


 車体側面にはパン屋の名前がある。だが、左後輪だけが軍用のランフラットタイヤだった。


 確信はない。


 確信がないから、確認する。


 ペトレンコが卓上の無線機へ右手を伸ばした。


「護衛班、北側の保冷車を照会してください。刺激は――」


 店外で、短い銃声が二つ鳴った。


 抑制器を通した音だった。


 返答がない。


「――しないで、は遅いですね」


 正面窓が内側へ割れた。


     *


 最初のPP-19-01《ヴィーチャシ》の短連射は、護衛が座っていた窓際席を横に薙いだ。


 ヴォロディミルは卓を蹴り倒した。厚い天板が盾になる。鴨の皿とワイングラスが床へ滑り、赤い酒が白いクロスを染めた。


「厨房へ!」


 客たちが立とうとして重なる。


「立たないで! 床を、奥の酒蔵へ!」


 ペトレンコの声が店内を切った。


 逃げ道が一つなら、人間は入口で詰まる。彼女は店内図を一度見ただけで、客を二列に分けた。左腕は使えない。右手で上着の右裾からMP-443《グラッチ》を抜く。


 帝国コマンド二人が正面から入った。


 濃灰色の私服。プレートキャリア。顔を覆う布。肩章はない。


 先頭が倒れた卓へ二発撃つ。


 ヴォロディミルは横倒しになった椅子の脚の間からGSh-18を撃った。最初の一発が相手の大腿部へ入り、二発目が短機関銃の前部を弾く。


 二人目が照準を移す。


 ペトレンコが右から一発。


 肩口へ当たり、銃口が跳ねた。返射が天井の照明を砕き、店内が炭火の赤だけになる。


 帝国兵は閃光手榴弾を投げた。


「伏せろ!」


 白い光が弾けた。


 音が耳の中を平らにし、食器と悲鳴が遠くなる。


 ヴォロディミルは見えないまま三歩下がった。靴底が割れた皿を踏む。ペトレンコの吊り帯を掴みかけ、負傷した左腕だと気づいて肩へ持ち替えた。


 彼女は生きている。


 確認は一秒で十分だった。


 バーカウンター側から、別の帝国兵が回り込んだ。


 アナスタシアは左手のワイングラスを置かなかった。右手だけを白い外套の内側へ入れ、SIG Sauer P229を抜く。


 三発。


 一発目が帝国兵のプレートへ当たり、二発目が肩を回した。三発目で男が倒れる。


 グラスの赤い液面が揺れた。


 一滴だけ、白い手袋へこぼれた。


     *


 同じ頃、三人目のコマンドが裏路地から厨房へ入った。


 アンドレは銅鍋の湾曲した側面へ、背後の影が映るのを見た。


 身を沈めた直後、弾丸が白いタイルを割った。陶片がまな板へ降る。


「私の厨房で」


 アンドレは仕込み台を蹴った。


 車輪付きの台が帝国兵の膝へ当たり、PP-19-01の銃口が上を向く。弾丸が排気フードへ穴を開けた。


「その撃ち方は」


 炭火台の上では、鴨から落ちた脂を受ける厚い銅鍋が燃えていた。


 アンドレは柄を布で掴み、鍋ごと振った。


 熱した脂と炎が、帝国兵の覆面から頬、首、右手へまとわりつく。男は銃を落とし、両手で顔を押さえた。皮膚と布が焼ける臭いが、焦がしバターの香りを一瞬で殺した。


「料理に失礼だ!」


 アンドレは男の装具を掴んだ。


 厨房で豚の半身を運ぶのに、相手の同意を取る料理人はいない。彼は腰を落とし、前へ出てきた勢いをそのまま返した。


 帝国兵の身体が仕込み台を越え、開いた勝手口から石畳へ投げ出された。背中から生ごみ容器へ突っ込み、蓋ごと路地へ転がる。


「店の外で冷ませ!」


 アンドレは落ちた短機関銃を足で排水溝の下へ蹴り、消火布を持って外へ出た。


 火傷を負わせたのは自分だ。


 死なせない責任も、自分のものだった。


     *


 帝国コマンドの本隊は九人いた。


 灰色の保冷車から四人。


 路地の配送口から三人。


 配給所の群衆へ紛れて二人。


 外周警護を切り、店内へ入った班が大公夫妻を射殺する。その後は港側へ抜け、用意した高速艇で離脱する計画だった。


 最初の四十秒までは、計画どおりだった。


 四十一秒目に、ロマネンコの部下が保冷車の運転手を知っていると言い出した。


 その男はパン屋ではなく、三年前まで車両窃盗でスカーフェイスへ上納金を払っていた。


 オスタヴァでは、優秀な防諜記録より、悪党の顔を覚えている悪党の方が速いことがある。


『旧市街、武装したよそ者九!』


 自警団回線へ報告が飛んだ。


 ロマネンコの返答は、質問ではなかった。


『誰の許可で数えてやがる。路地を塞げ』


 黒い乗用車二台と港湾作業車が、海側の通りへ斜めに止まった。


 高級スーツ、港湾作業服、ジャージに金鎖。統一されているのはAK-104とGlock 17、それから街の抜け道を知っていることだけだった。


 逃げる帝国兵へ、三方向から短い射撃が入る。


「俺の街で何してやがる!」


 ロマネンコは葉巻を噛んだまま、車のエンジンブロックを盾にAK-104を撃った。


 帝国兵が市場のアーケードへ手榴弾を投げる。


 爆風で日除け布が持ち上がり、金属骨組みが通りへ落ちた。停車中の路面電車の窓が一列に割れる。


 自警団員一人が肩を撃たれた。


 仲間は止血帯を締め、本人のGlockを抜き取った。


「盗むな」


「治療代だ」


「帝国から取れ」


「請求書の住所を聞いとけ」


 冗談はそこまでだった。


 帝国兵二人がワイン倉庫の屋根へ上がり、店の裏口を射線へ入れる。


 ペトレンコは酒蔵へ客を入れ終え、店内へ戻った。


 左腕の痛みが脈に合わせて増している。鎮痛剤は切れかけていた。


 痛みは命令にならない。


 情報になる。


「屋根に二人。正面の交差点からは見えません」


「どこから見える」


 ヴォロディミルが聞く。


「厨房の天窓」


「料理人に怒られる」


「もう怒っています」


 アンドレが消火布を投げ捨てた。


「壊すなら、後で直してください!」


 ヴォロディミルは厨房台へ上がり、天窓を銃床で割った。


 屋根の帝国兵が振り向く。


 外からロマネンコのAK-104が先に鳴った。屋根瓦が跳ね、帝国兵が伏せる。


 その一秒で、ヴォロディミルとペトレンコが別々の角度から撃った。


 一人が武器を落とす。


 もう一人は煙突の陰へ退き、隣家の屋根へ移った。自警団が路地から追う。


 市街戦は三街区へ広がり、十一分で終わった。


 帝国コマンド死亡五。


 拘束四。


 大公護衛一名死亡、自警団重傷一、軽傷三。民間人二名が破片で負傷。


 厨房から投げ出された男は、顔と頸部、右腕に重度熱傷を負っていたが生きていた。アンドレ自身が冷却処置を続け、救急隊へ引き渡した。


「助けるのか」


 ロマネンコが聞く。


「死なせたら、私の料理について悪評を訂正できません」


「大した店だ」


「予約は必要です」


     *


 店内では、アナスタシアが倒れた帝国兵の一人から覆面を外していた。


 右手のSIG Sauer P229から、まだ硝煙が細く上がっている。


「この人、知っているわ」


 彼女は言った。


「帝都に住んでいた頃、うちの門に立っていた衛兵よ」


 アナスタシアは死者の顔を見た。


 驚きも涙もない。確認した者の目だった。


「そっかぁ」


 手袋の指で、開いた瞼を閉じる。


「あなたのことは忘れないわ。地獄までね」


 ペトレンコは何も言わなかった。


 理解したふりをすれば、彼女の損失を自分の言葉へ奪うことになる。


 ヴォロディミルも慰めなかった。


「アンドレ」


 ロマネンコが割れた窓から店内を見回した。


「店、どうすんだ」


 アンドレは転がった銅鍋を拾った。底は歪んでいる。


「焼けてなきゃ、やります」


「窓が全部ないぞ」


「炭は生きています」


 彼は火床を掻き、灰の下の赤を出した。


 床では血とワインが混じっている。救急隊が護衛の遺体へ白布を掛けた。さっきまで熱かった料理は、倒れた卓の下で冷えていた。


「……飯が冷えちまったな」


 アンドレは言った。


「次を焼きます。今度は撃たずに食べてください」


 ペトレンコがヴォロディミルを見た。


「次もあるのですか」


「銃を置いて来られる店を探す」


「条件が厳しいですね」


 二人は笑わなかった。


 それでも、離した手をもう一度繋いだ。


     *


 拘束した四人の装備は、帝国軍制式と一致した。


 だが、製造番号は削られ、弾薬ロットは意図的に混ぜられ、命令書も所属章もなかった。生存者は何も話さない。


 帝国の関与は濃い。


 皇帝の命令は証明できない。


 だから三日後の声明文には、《帝国皇帝による大公夫妻暗殺未遂》とは書かなかった。


 怒りで埋めれば強く見える空白を、空白のまま残した。


 宣言文は、最初の草案で二千八百字あった。


 ソフィアが千九百字にした。


 シェフチェンコ外務卿が法的留保を戻し、二千二百字になった。


 ボンダレンコが賠償の一節を足し、二千四百字。


 ヴォロディミルが半分を消した。


「短すぎます」


 広報官が言う。


「戦争を始める言葉が長いと、途中から広告に聞こえる」


「宣戦布告ではありません」


「だからこそだ」


 明朝、公国と参加国は共同声明を出す。


 対象は帝国全体ではなく、キミロフ攻撃と後続作戦を担う能力に限られる。


 北方三国の占領を終わらせ、強制移送を止め、長距離打撃能力を後退させるための限定作戦。その目的、対象、終了条件を先に公開する。


 敵へ手の内を見せる、と軍人の一部は反対した。


 ヴォロディミルは、終わり方を隠して始める戦争の方を恐れた。


「勝利条件が曖昧なら、勝ったと言い続けるために戦争を続けることになる」


 彼は言った。


「帝国が撤退し、名簿を出し、監視を受け入れれば止める。そこまで書く」


「皇帝の退位は求めないのですか」


「公国が帝国の王を選べば、帝国が公国の王を選ぶ論理を認める」


 怒りはあった。


 礼拝堂の天井が落ちる音は、眠るたびに戻る。司祭の血。ペトレンコの冷たい手。石灰の粉。


 皇帝一人へ全てを集めれば、引き金を引く理由は簡単になる。


 国家の目的は、簡単であることを許されない。


     *


 夜十時、撮影室で照明試験が始まった。


 その前に、声明文は共同評議会の反対派へも読まれた。


 武力行使に反対した二か国は、共同声明へ署名しない。ただし、医療支援と避難民受入れは続ける。


「裏切りだと言う者が出ます」


 評議会書記が言った。


 ヴォロディミルは首を振る。


「反対票を入れた国へ、賛成国と同じ戦争をさせる方が裏切りだ」


「声明では結束を強調した方が」


「結束していない部分を隠すな。参加範囲が違うと書け」


 連合内部の亀裂は、すでに机の上へ出ていた。


 医療だけ出す国。


 掃海艇だけ出す国。


 航空攻撃へ参加する国。


 情報は出すが、兵士を出さない国。


 ばらばらだから弱いのではない。


 ばらばらな意思を、同意した範囲だけ接続できるかが問われている。


 反対国代表が席を立つ前に、ヴォロディミルへ言った。


「あなた方の目的には同情する。しかし、この作戦が拡大しないと信じられない」


「私も信じていません」


 代表が足を止める。


「だから、拡大には再決議が必要な規則を入れた」


「自分を信用しないのですか」


「権力者が自分を信用する必要はない。信用されなくても暴走できない仕組みが要る」


 代表は握手をしなかった。


 ただ、避難民受入れ枠を五千人増やす書類へ、その場で署名した。


 ヴォロディミルの左頬だけが明るすぎる。


「王冠を少し右へ」


 撮影技師が言う。


「王冠は被らない」


「画面で誰か分かりにくくなります」


「名前を表示しろ」


 技師は困った顔をした。


 ペトレンコは椅子へ座り、左腕の吊り帯を外してみた。傷が引きつり、すぐ戻す。


「私も立つべきでしょうか」


「医官は座れと言った」


「国民は知りません」


「明日、全員知る。倒れるから」


「倒れません」


「結婚式でもそう言った」


 彼女が黙る。


 言い過ぎた、とヴォロディミルは思った。


 謝ろうとした瞬間、ペトレンコが言う。


「あの日、最初に従った命令が『黙れ』でした」


「結婚して最初だ」


「次が『伏せろ』」


「夫として改善の余地がある」


「三つ目は?」


「生きろ」


 照明技師が視線を逸らした。


 ペトレンコは笑いかけ、途中でやめた。目に水が浮いたからだ。


「それは、命令として不完全です」


「なぜ」


「手順がありません」


「では、君が作ってくれ」


「共同作業ですね」


「結婚という制度は、責任の所在が曖昧だ」


「統合作戦より?」


「同じくらい」


 彼女は右手を伸ばした。


 ヴォロディミルが握る。


 撮影技師は、照明値の確認に忙しいふりを続けた。


     *


 情報公開班では、何を見せないかが議論されていた。


 ヴァイガ駅の写真。


 移送帳簿。


 ニェドフの証言。


 礼拝堂攻撃の弾頭破片。


 《ストリボグ》の積荷。


 帝国暗号通信の一部。


「皇帝府の承認符号を公開すれば決定的です」


 分析官が言った。


 ソフィアは首を振った。


「符号を公開すれば、暗号体系を解読していると相手へ知らせます」


「世論効果は大きい」


「一日分の世論と、三週間分の傍受能力を交換しますか」


「では、皇帝の直接関与を証明できない」


「証明できないことは言わない」


 広報官がため息をつく。


「弱く見えます」


「精度が低い強い言葉は、敵の反論へ弾薬を渡します」


 ソフィアは公開資料を三層に分けた。


 原本を公開できるもの。


 第三者機関だけへ提示するもの。


 作戦上、保留するもの。


 感情は全部を見せろと言う。


 手順は、明日も証拠を取るために一部を隠す。


 彼女は《皇帝直接命令》という見出しを削除し、《帝国軍兵站系統との一致》へ変えた。


     *


 午前一時。


 撮影室に残ったのは、ヴォロディミルとペトレンコだけだった。


 台本は演台に置かれている。


「眠れない?」


 ペトレンコが聞く。


「眠ると、明日になる」


「起きていてもなります」


「君は時々、残酷なくらい正しい」


「時々?」


 ヴォロディミルは答えず、空の観客席を見た。


「署名すれば、人が死ぬ」


「署名しなくても死にます」


「それを慰めにしたくない」


「慰めではありません。責任の範囲です」


 ペトレンコは自分の吊り帯を少し直した。


「あなたが全員を救えないことと、誰も救わなくていいことは同じではない」


 ヴォロディミルは彼女の手を取った。


 指先は温かかった。


 礼拝堂では冷たかった。


 それだけで、明日へ進む理由には十分だった。


「終わったら、休暇を取ろう」


「いつ終わりますか」


「先に日付を決めると、戦争が合わせてくれるかもしれない」


「新婚旅行先へ砲兵観測所は含みません」


「条件が厳しい」


「海軍基地も不可です」


「選択肢がなくなった」


「普通の街があります」


 二人は、その普通がどれほど遠いか知っていた。


 午前二時、声明文の最終稿が確定した。


 千三百八十六字。


 末尾は、勝利を約束する言葉ではなかった。


 ――帝国軍が撤退し、連れ去られた人々が帰る日、公国は武器を置く。


 宣言の前夜、彼らが決めたのは戦争の始め方より、武器を置く条件だった。


     *


 午前四時、ヴォロディミルは一時間だけ眠った。


 夢の中で礼拝堂へ戻る。


 今度はミサイルが来ない。


 司祭ミハイルが戴冠の準備をし、ペトレンコが祭壇前に立っている。


 ヴォロディミルだけが、何度歩いても入口から進めない。


 床が長く伸びる。


 司祭が何か言う。


 聞こえない。


 目を覚ますと、ペトレンコが隣の簡易寝台で眠っていた。右手が毛布の外へ出ている。


 彼はその手を握らず、毛布だけを掛け直した。


 起こせば、彼女は一緒に起きる。


 愛情には、そばにいることと、眠らせておくことがある。


 午前五時、ソフィアが最終声明文を持ってきた。


「眠れましたか」


「一時間」


「不十分です」


「君は」


「二時間」


「自分へ甘いな」


「あなたの二倍です」


 ソフィアは卓上へ温かい飲み物を二つ置いた。


「コーヒー?」


「薄い紅茶です。手が震えにくい」


 声明を読み上げる声より、紙を持つ手の震えの方が画面には出る。


 技術者の気遣いは、いつも仕様の形をしていた。


 午前六時、ペトレンコが起きた。


「なぜ起こさなかったのです」


「手順に従った」


「その手順書を見せてください」


「夫の裁量だ」


「危険な制度ですね」


「今さらだ」


 二人は声明室へ向かった。


 廊下の向こうで、赤い録画灯が点いた。

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