第四十七話 空母の戸籍
アドミラル・クズネツォフ級重航空巡洋艦には、三つの名前と四つの所有者がいた。
起工時の帝国名。
建造中断後に付けられた輸出名。
第八十八特務支援群が拿捕してから使っている《ヴォルナ》。
所有者欄には、消滅した造船公社、差押えを主張する銀行、帝国海軍、そして「現に占有する者」として第八十八群が並ぶ。
船体は一つしかない。
書類の上では四隻あった。
「沈めば整理が楽になります」
公国海事局の若い法務官が言った。
ヴァイパーは顔を上げた。
「冗談です」
「面白くなかった」
「法務官の冗談は、訴訟を避けるために面白くなく作られています」
《ヴォルナ》の士官食堂で、二人の間には登録原簿が積まれていた。天井の配管から、三十秒に一滴ずつ水が落ちる。受け皿代わりのマグカップには《世界最高の艦》と印刷されていた。
「雨漏りする世界最高の艦か」
「海水ではありません」
「慰めになってない」
法務官は書類をめくった。
「問題は国籍です。第八十八群は国家ではない。民間軍事組織が空母を運用すれば、交戦資格、捕虜資格、港湾責任、原子炉ではなくボイラー事故の賠償まで全部が宙に浮きます」
「それでも浮いている」
「船は浮いています。法的地位が沈んでいます」
ヴァイパーは受け皿の水を捨てた。
銃なら、持っている者が所有者に見える。三百メートルを超える艦はそうはいかない。燃料を買う。港へ入る。航空機を飛ばす。死者を埋葬する。どの行為にも旗と署名が要る。
第八十八群は、命令の外側で生き延びることには慣れていた。
だが、艦隊の一部として生きるには戸籍が必要だった。
*
飛行甲板では、Su-33が四機だけ並んでいた。
定数はもっと多い。飛べる機体が四機。予備エンジン二基。射出機はなく、艦首スキージャンプから自力で上がる。最大離陸重量は風と艦速に縛られ、対空ミサイルを積めば燃料を減らし、燃料を積めば兵装を減らす。
甲板員が一番機の前脚を点検する。横ではKa-27PL《ヘリックスA》の整備員が、塩害を受けた電子機器箱を開いていた。
「空母、と呼ぶと海軍が怒る」
マクレガーが言った。
「重航空巡洋艦です」
ペトレンコは左腕を吊ったまま、飛行甲板の黄色線内を歩く。
「巡洋艦、と呼ぶと航空隊が怒ります」
「面倒な船だ」
「面倒でない船は、たいてい小さいです」
艦橋下の外板には、古い帝国標章を削った跡が残る。その上へ新しい艦名だけが白く塗られていた。旗はまだない。
「公国海軍へ編入する案は」
「ザハルチェンコ元帥が反対しました」
「なぜ」
「整備費が海軍予算へ入るからです」
「正直な提督だ」
「財務卿は賛成しました」
「なぜ」
「第八十八群から係留料を取れるからです」
「正直な国だな」
ペトレンコの口元が少し緩む。
笑うとまだ肋骨が痛んだ。だが、痛みの位置が分かる日は悪くない。分からない痛みより扱いやすい。
*
共同評議会が採用したのは、所有権の移転ではなかった。
《ヴォルナ》を公国登録の「期限付き共同作戦補助艦」とし、第八十八群の乗員を公国軍法と共同交戦規則の適用下へ置く。
艦長は第八十八群から出す。
航空運用は海上任務群司令部の許可を受ける。
拿捕者と負傷者はジュネーヴ諸条約に準じて扱う。
作戦終了後の所有権は、別途仲裁。
七十六ページ。
艦を一隻浮かせるのに、七十六ページの仮設国家が必要だった。
「署名を」
法務官が言う。
ヴァイパーは最終ページを見た。
「これは俺たちを公国軍へ入れる書類か」
「違います。公国軍と一緒に戦ったとき、海賊として吊るされないための書類です」
「夢があるな」
「法には、最悪を具体的にする機能があります」
「最高は?」
「管轄外です」
ヴァイパーは署名した。
ペン先が紙を擦る音は、発砲より小さかった。
それでも、第八十八群にとっては長い一発だった。
署名後、法務官は乗員名簿を求めた。
第八十八群の名簿は、符号名と血液型だけで作られている者が多い。本名を出せない。国籍を失った者、複数国で逮捕状のある者、公式には死亡している者もいる。
「符号名だけでは、戦死証明を出せません」
「死ぬ前から死亡扱いの奴もいる」
「だからです。二度目は正しく死なせてください」
ヴァイパーは法務官を見た。
「縁起の悪い女だな」
「法は最悪を具体的にします」
「それ、気に入ってるだろ」
「便利なので」
一人ずつ、封印室へ入った。
本名。出生地。家族。遺体の返還先。連絡してほしくない相手。
最後の項目だけ埋める者もいた。
若い隊員は、母親の住所を書いてから紙を二度折ろうとした。
「折らないでください。読み取れなくなります」
「十年、連絡してない」
「それでも書くのですか」
「俺が死んだときだけ、息子だったことにしてやる」
法務官は返事をせず、住所の綴りを確認した。
国籍を得ることは旗を掲げることではない。
死んだとき、誰に知らせるかを国家へ預けることでもあった。
*
夜の《ヴォルナ》は、油と塗料と煮込み料理の匂いがした。
作戦参加者が増えたため、士官食堂は三交代。寝台が足りず、航空整備員の一部は旧弾薬準備室へ簡易ベッドを入れている。蒸気管の近くは暑く、隔壁側は冷える。
ティンバーウルフのバジルは、窓のない艦内へ持ち込めなかった。代わりにヴァイパーが食堂の棚へ小さなタマネギを置いた。
「何だ、それは」
マクレガーが聞く。
「植物です」
「食料だろう」
「植えれば植物です」
「食えば食料だ」
二人が見ている前で、調理員がタマネギを持っていった。
「食料だったな」
「国家に徴発されました」
食堂の隅で、若い第八十八群隊員が眠れずに座っていた。《ストリボグ》で初めて人を撃った男だった。トレーのスープは冷め、匙を持ったまま動かない。
ヴァイパーは向かいへ座った。
「眠れないか」
「寝ると、あの甲板が出ます」
「出る」
「いつまで」
「知らん。俺は医者じゃない」
ヴァイパーはスープを一口飲んだ。
「冷たい」
「はい」
「温めてこい。戻るまで席を取っておく」
説教もしなかった。人を撃つ意味も語らない。
戻る席があると示しただけだった。
隊員はトレーを持って立ち、数分後に湯気の立つスープと一緒に戻ってきた。
*
午前零時。
公国旗が《ヴォルナ》の後部旗竿へ上がった。
掲げたのは、共同作戦期間だけ有効な登録旗だ。恒久所属は、戦争が生き残った者へ残す宿題になった。
艦内放送で法的地位が読み上げられる。甲板員は作業を止めず、機関員はボイラー圧を見ていた。誰も整列しなかった。
国籍を得た瞬間にも、ポンプは回し続けなければならない。
ヴァイパーは飛行甲板から旗を見上げた。
「似合わないな」
ペトレンコが隣へ来た。
「嫌ですか」
「いや。似合わない服は、着ているうちに身体が合う」
「逆では」
「俺たちはだいたい逆だ」
汽笛が一度鳴った。
《ヴォルナ》のボイラー出力が上がる。曳船が離れ、黒い船体が岸壁からゆっくり動いた。
離岸から七分、第二ボイラー室で給水圧が低下した。
警報が機関制御室へ鳴る。
「右舷缶、給水ポンプ二号停止!」
「出力を六割へ。左舷缶で推進保持」
艦尾から出る黒煙が一度濃くなった。速力三ノット。狭い港内で機関を止めれば、横風が三百メートルの船体を岸壁へ押す。
曳船はすでに離れている。
「再接続させろ」
「間に合いません。防波堤まで九百メートル」
機関員が熱い配管の間へ入った。給水ポンプの軸封から蒸気が漏れ、視界を白くする。工具を落とせば床格子の下へ消える。二人が手探りで非常給水弁を回した。
弁は固着している。
「整備記録では先週交換だぞ!」
「書類だけ新品だ!」
「戸籍より先に直せ!」
三人目が一メートルの延長棒を持ってくる。全員で押した。
弁が動く。
給水圧が戻り、第二ボイラーの炎が安定した。
《ヴォルナ》は防波堤手前で舵効きを取り戻した。
艦橋では、誰も歓声を上げない。
「修理記録へ」
艦長が言う。
「交換済み弁、実際には未交換。担当者は?」
「退職しています」
「生きていれば訴えろ。死んでいれば地獄へ請求書を送れ」
ペトレンコは損傷管理表へ新しい赤字を加えた。
旗を得ても、機関は誇りでは回らない。
国家になった最初の仕事は、嘘の整備記録を見つけることだった。
書類の上で四隻あった船が、初めて一隻として北へ向かった。
後部旗竿の下で、若い隊員が公国旗の結び方を甲板員へ聞いた。
「海軍式は知らん」
「ほどけなければいい」
「国家の旗だぞ」
「国家も最初は、ほどけなければ十分だ」
二人は結び目を二重にした。




