第四十六話 降伏の値段
午後二時七分。
シェフチェンコ外務卿は、公国代表団の回答を読み上げた。
「第一。ルーデニア帝国軍は、エスティア、ラトヴァ、リトネアの国際承認された国境線外へ、二十一日以内に撤退すること」
「第二。撤退経路と一時集積地へ国際監視団を受け入れること」
「第三。拘束者および強制移送者の完全な名簿を七十二時間以内に開示し、本人の意思に基づく帰還を認めること」
「第四。礼拝堂襲撃と占領地における重大犯罪について、独立調査へ協力すること」
「以上を停戦協議開始の前提とします」
イーゴリ・ラドヴィン帝国外相は、通訳が最後まで訳すのを待った。
「要求ですな」
「条件です」
「勝者の条件に聞こえる」
「人を連れ去った側が、帰すために必要な条件です」
「あなた方は一隻の貨物船を奪った。それで帝国へ命令できると?」
「いいえ。人間を人間として扱うのに、戦果は必要ありません」
ラドヴィンは冷めかけたコーヒーを飲んだ。
午前中より温度がちょうどよくなっていた。
「公国は理想主義的だ」
「請求書も添えましょうか」
ボンダレンコが言う。
「理想だけで来たと思われるのは心外だ」
彼は厚い綴りを机へ置いた。
礼拝堂の再建費。
病院の治療費。
迎撃弾。
拿捕作戦で失ったMH-60S。
遺族年金。
避難民の食料。
占領地から切断された港湾収入。
「戦争は高い。降伏はもっと高い。降伏した後は、相手が値札を書くからな」
「金額で国家の名誉を測るのですか」
「名誉でパンを買えるなら、財務省を教会へ移す」
ラドヴィンは綴りを開かなかった。
「帝国案が最終提案です」
「では、公国の回答も最終回答です」
シェフチェンコは紙を一枚めくった。
「公国は降伏しない」
その言葉は叫ばれなかった。
叫ぶ必要のない文だけが、長机を越えた。
*
休憩を求めたのは帝国側だった。
十分後、ラドヴィンの次席補佐官がボンダレンコへ近づいた。
「非公式に話せますか」
「ここでなら」
「二人で」
「二人きりで聞いた話は、あとで存在しなかったことになる。俺は商売人だ。領収書の出ない話は嫌いでね」
補佐官は周囲を見た。
「帝国は、公国の独立そのものを否定しているわけではありません」
「午前の文書には、大公退位と監督選挙があった」
「文言は調整できる。大公が象徴的地位に退き、国防と外交を帝国との共同管理へ移すなら――」
「植民地には国旗を残してやる、という話か」
「現実的な妥協です」
「いくらだ」
補佐官の目が動いた。
「何のことです」
「俺にその話を持ってきた値段だ。帝国債か。港の権益か。家族の安全か」
「あなたほどの人物なら、戦後の経済運営で相応の地位を――」
ボンダレンコは笑った。
いつもの豪快さは消え、乾いた短い音だけが残った。
「安く見られたもんだ」
「金額は相談できます」
「値段の話じゃない。俺が買えると思ったことだ」
補佐官の襟を掴まなかった。殴りもしない。ボンダレンコは自分の端末を取り出し、録音表示を見せた。
「お前の外相へ伝えろ。賄賂は経費計上できん。次は請求書を持ってこい」
補佐官の顔から血の気が引いた。
「外交上の非礼だ」
「今のは財務監査だ」
*
午後四時二十一分。
調停国は折衷案を示した。
帝国軍は主要都市から後退する。ただし国境線外への撤退期限は定めない。
監視団は非武装。
強制移送者名簿は「治安上可能な範囲」で開示。
礼拝堂襲撃の調査は帝国内部委員会が行う。
机上では、双方が半歩ずつ下がった案に見えた。
地図へ置けば違った。
帝国軍は三国の港、飛行場、鉄道結節点を保持する。監視団には移動権がない。移送者は名前を消され、礼拝堂を撃った者が自分を調べる。
「受け入れられません」
シェフチェンコは言った。
調停国外相が疲れた顔をした。
「一度の会議で全てを得ることはできません」
「全てを求めてはいません。占領を終わらせろと言っています」
「拒否すれば戦争です」
「すでに戦争です。違うのは、占領地の人間だけが戦争だと知っていたことです」
ラトヴァ代表が机へ写真を置いた。
無人の駅。
線路脇に積まれた旅行鞄。
持ち主の名前が白墨で書かれている。
「弟の鞄です」
代表は言った。
「本人は見つかっていない。あなた方が『治安上可能な範囲』と言っている間に、二百十九日が過ぎました」
ラドヴィンは写真を見た。
ほんの一秒だけだった。
それから視線を戻す。
「個別事例は専門委員会で扱うべきです」
その一文で、会議は終わった。
ラトヴァ代表が立ち上がろうとした。シェフチェンコが腕を押さえる。怒鳴れば、帝国は感情的な亡命者として映像を使う。
殴らせるための顔を、ラドヴィンはしていた。
殴らないことが、この場でできる反撃だった。
「議事録へ記録してください」
シェフチェンコが言う。
「帝国代表団は、強制移送者の所在確認、期限付き撤兵、独立調査を全て拒否した」
「我々は対話を拒否していない」
「では、いつ撤退しますか」
ラドヴィンは答えなかった。
*
午後五時三分、ヴァルネ会議は休会となった。
再開日は決まらない。
帝国代表団の車列が地下駐車場を出る。抗議する市民が道路脇へ集まり、六十二本の白い花を掲げていた。
ラドヴィンの車は止まらない。
後部座席で彼は、朝から三杯目のコーヒーを飲んだ。今度は保温瓶から注いだ熱いものだった。
向かいに座る補佐官が、小声で言う。
「ボンダレンコは拒否しました」
「分かっている」
「録音されています」
「それも分かっている」
「では、なぜ」
「人は買えなくても、値札を見せれば怒る。怒れば、何を大切にしているか分かる」
ラドヴィンは窓の外の花を見た。
「公国は金で割れない。なら、時間で割る」
補佐官は窓の外を見た。
「本当に、撤兵の余地はないのですか」
ラドヴィンは返事を急がなかった。
「君の質問か。皇帝府の質問か」
「私のです」
「なら、聞かなかったことにする」
「外相」
「撤兵を提案した将軍が二人いる。一人は交通事故で死んだ。もう一人は汚職で拘束された」
「本当に汚職を?」
「帝国で汚職をしていない高官を見つける方が難しい。違いは、いつ起訴されるかだ」
ラドヴィンは保温瓶の蓋を閉じた。
「和平を欲しがるだけでは和平は作れない。帰国して提案を説明し、生き残る者が必要だ」
「あなたなら」
「私は、まだコーヒーの温度しか変えられん」
車列が曲がる。
白い花を持つ群衆が後方へ消えた。
ラドヴィンの鞄には、リトネア語の詩集が入っている。捨てる場所は、空港までに見つからなかった。
*
同じ時刻、共同評議会は第二決議の採決に入った。
占領地への無制限攻撃ではない。
帝国本土への報復爆撃でもない。
北方三国に展開する帝国軍の防空、指揮、補給、長距離打撃能力を対象とする限定武力行使。民間施設を利用している場合は、攻撃延期または別手段を検討する。捕虜と避難民の受入責任を参加国で分担する。
賛成十一。
反対二。
棄権三。
全会一致ではなかった。
それでよかった。異論を消した決議より、異論を記録した決議の方が長く耐える。
ヴォロディミルは最後に署名した。
署名欄の横に、作戦開始条件が並んでいる。
気象。
機雷掃討。
医療収容。
避難回廊。
弾薬備蓄。
人間が激情で始める戦争を、書類が少しだけ遅らせる。
「これで始まるのですね」
ペトレンコが聞いた。
「違う」
ヴォロディミルはペンを置いた。
「これで、始めてもいい条件が揃った」
会議が終わると、ペトレンコは署名済み文書を耐火鞄へ入れた。
「怒っていますか」
「誰に」
「帝国。調停国。全会一致にならなかった二か国」
「自分にだ」
ヴォロディミルは窓へ歩いた。
「決議が通って安心した」
「安心してはいけませんか」
「一人死んだ翌日に攻撃案へ署名して、肩の荷が下りた」
「肩から荷を下ろさなければ、次を持てません」
「君は何でも手順にする」
「そうしなければ、怖いので」
ペトレンコは吊り帯の中で左手を少し動かした。
「私も、決議が通って安心しました。これで死者を出しても、私一人の判断ではないと思える」
「それは逃げか」
「分担です」
「言葉が便利だな」
「国家は便利な言葉を、責任が消えないように定義する仕組みです」
ヴォロディミルは彼女の右手を取った。
「では、夫婦は」
「責任を定義せず分担する仕組みです」
「もっと危険だ」
「今さらです」
二人は笑わなかった。
手だけを離さなかった。
感情的な報復を退けたから、感情が消えたわけではない。怒りを使う場所を、書類と互いの手で狭くしただけだった。
降伏の値段は提示された。
公国は払わなかった。
代わりに、これから払う損害の見積書へ署名した。




