第四十五話 ヴァルネの長机
ヴァルネ国際会議場の第三会議室には、長すぎる机があった。
二十六人が向かい合って座っても、中央に誰の領土でもない空白が残る。
帝国代表団は東側。
公国と北方三国、西方参加国は西側。
調停国は中央。
水差しは同じ形だった。国旗の大きさも同じ。通訳の声量も同じ。平等とは、家具で実現するのが一番簡単だった。
公国代表のシェフチェンコ外務卿は、帝国外相イーゴリ・ラドヴィンのネクタイを見ていた。
濃紺。結び目は小さい。喪章なし。
礼拝堂で六十二人が死んだことを、帝国は自国の死者として扱っていない。
その非礼自体が、立場の表明だった。
「始める前に一つ」
ラドヴィンが言った。
「この会議で出されるコーヒーは、どうして毎回ぬるいのです」
調停国外相が眉を動かした。
「申し訳ありません。交換させます」
「必要ありません。ぬるいコーヒーにも利点はある。長い会議で舌を火傷せずに済む」
ラドヴィンは一口飲み、カップを戻した。
「今日も長くなるでしょう」
どうでもいい話ではなかった。
この場の時間を所有する、と彼は最初に宣言したのだ。
ラドヴィンには、会議前に必ずコーヒーの温度を確かめる癖があった。
若いころ、停戦監視団の随員として三日間眠らず交渉した。熱いコーヒーで舌を火傷し、その後の会見で発音を笑われた。帝国では、失敗は教訓ではなく弱点として保存される。
以来、彼は飲み物の温度を自分で支配する。
会議室には敵も味方もいる。まだ色の決まらない者が一番多い。
だが、味方もいない。
皇帝府から渡された許容範囲は狭かった。撤兵の語を使うな。強制移送を認めるな。礼拝堂攻撃の命令系統を議題にするな。合意できなければ、公国側が戦争を望んだ形で退出せよ。
外相の仕事は平和を作ることではない。
今朝の彼に命じられたのは、破綻の責任を相手の椅子へ置くことだった。
シェフチェンコの返答を聞きながら、ラドヴィンは思った。
この男も同じだろう。
違うのは、持ち帰って叱られる相手が皇帝か、死者かだけだ。
シェフチェンコは自分のカップへ触れなかった。
「短くできます。帝国軍がエスティア、ラトヴァ、リトネアから撤退すると答えれば」
「朝食前に結論を要求するのは、健康に良くない」
「では昼食を抜きましょう。午後には健康になります」
ラドヴィンの口元がわずかに動いた。
交渉は、笑った側が負けるゲームではない。ただ、誰が先に相手を人間として面白がるかで、距離が決まる。
*
調停国から提示された議題は四項目だった。
一、占領地からの段階的撤兵。
二、国際監視団の受け入れ。
三、強制移送者の名簿開示と帰還。
四、礼拝堂襲撃および占領地での重大犯罪の独立調査。
帝国は、議題の名称から反対した。
「占領地ではない」
ラドヴィンが言う。
「三国政府の要請に基づく安定化区域である」
エスティア亡命政府代表が身を乗り出した。
「我々は要請していない」
「あなた方は、すでに有効な政府ではない」
「戦車で議会を囲んだからだ」
「秩序回復のためです」
「議員十二人を連行することが?」
「過激派との関係が疑われた」
「うち三人は八十歳を超えていた」
「年齢は無実の証明にならない」
言葉が一段ずつ上がる。
机の下で、シェフチェンコは指を開いた。怒るな、と自分に言う必要はなかった。怒りはもうある。問題は、どの文へ入れるかだった。
「ラドヴィン外相」
「何でしょう」
「あなたの政府が承認する三国政府の代表者名を、ここで読み上げてください」
ラドヴィンは答えない。
「要請文の署名者でも結構です」
「機密に関わる」
「政府の名前が機密ですか」
「現地関係者の安全を守るためだ」
「では、存在しない政府の安全に配慮していると議事録へ残します」
通訳が一瞬止まった。
正確に訳した。
調停国の記録官がタイプする音だけが響いた。
リトネア代表が、別の綴りを開いた。
「昨夜、占領当局はリトネア語学校三校を閉鎖しました」
ラドヴィンは肩をすくめる。
「教育課程の統一です」
「教員二十一人を連行した」
「違法教材の調査です」
「教材は詩集です」
「詩が政治的でないと?」
代表は一冊の薄い本を机へ置いた。
「八歳向けです」
「子供向けの言葉ほど、長く残る」
ラドヴィンは本へ触れなかった。
シェフチェンコが聞く。
「あなたは、読んだのですか」
「何を」
「その詩集を」
「必要がない」
リトネア代表は本を開き、母語で四行だけ読んだ。通訳は訳さない。会議室の半分には意味が分からない。
それでも、ラドヴィンは二行目で目を伏せた。
子供のころ、母親が読んだ詩だった。
彼は顔を上げる。
「個別の教育行政を、この会議で扱うつもりはない」
会話の主導権を取り戻す声は、先ほどより少し硬かった。
*
昼前、帝国側は逆提案を出した。
公国軍の非武装化。
西方共同防衛機構との軍事協力停止。
第八十八特務支援群の解散。
ルーデニア語の公用語指定。
ヴォロディミルの退位と、帝国監督下での選挙。
「和平条件です」
ラドヴィンは言った。
ボンダレンコは書類を最後まで読んだ。
笑わなかった。
「質問がある」
「どうぞ」
「非武装化後、公国の国境は誰が守る」
「帝国が安全を保証する」
「礼拝堂を守ったのと同じ方式で?」
ラドヴィンの指が、ぬるいコーヒーの取っ手で止まった。
「不幸な事故を、国家間の恒久的関係と混同すべきではない」
「六十二人死ぬと事故か。便利な単位だな」
「感情的な言葉は交渉を損なう」
「損なう交渉が残っているように見えるか?」
ボンダレンコの声は低かった。普段の豪快な笑いがない方が、会議室の温度は下がった。
シェフチェンコが手を上げる。
「公国代表団からの回答は、午後の全体会合で示します」
「今、答えられないのですか」
「答えは決まっています。記録へ残す文章を整える時間が必要です」
「ずいぶん官僚的だ」
「あなた方が後で誤訳だと言い出せないようにするためです」
会議室の外では、記者が廊下を埋めていた。
帝国代表団の報道官は午前会合の途中で速報を出す。
《公国側、帝国の和平提案を検討》
記載内容は事実だった。
拒否するために検討していても、検討は検討だった。
公国広報官が訂正を求めた。
シェフチェンコは止める。
「午後まで待て」
「既成事実になります」
「一時間で崩れる既成事実なら、自分で崩させろ」
帝国側は短期の見出しを取る。
公国側は議事録を取る。
どちらが勝つかは、今夜の放送では決まらない。ただ、兵士が明朝どちらの話を信じて引き金へ指を置くかには影響する。
*
休憩室で、ボンダレンコはサンドイッチのパンを剥がした。
「肉が薄い」
「外交問題にしないでください」
シェフチェンコは帝国案の余白へ修正文を書いている。
「帝国へ賠償請求できんか」
「昼食代ですか」
「人間は腹が減ると戦争を始める」
「今は満腹でも始めそうです」
外務卿の端末へ、キミロフから暗号通信が入った。
ヴォロディミルの顔が表示される。画面の端にはソフィアがいて、署名書類を次々差し出していた。
『状況は』
「帝国は、公国の非武装化と陛下の退位を要求しています」
『私の再就職先は?』
「記載がありません」
『不親切だな』
ソフィアが画面外から言った。
『履歴書には、戦闘機課程修了と書けます』
『王位より求人が少ない』
短い笑いが起きた。
その後、ヴォロディミルは椅子へ深く座った。
『笑えるうちに笑っておこう。午後は笑えない』
「陛下の意向を確認します。撤兵、監視、帰還、独立調査。四条件を維持しますか」
『維持する』
「拒否された場合は」
『共同評議会へ第二決議を求める。軍事目標は占領軍の指揮、補給、防空に限定。都市への威圧攻撃は認めない』
「帝国は、それを弱さと見ます」
『見せておけ。弱い相手に負ける方が傷は深い』
回線が切れた。
シェフチェンコは午後の回答文末へ一行加えた。
――公国は降伏しない。
大文字にも、太字にもしなかった。
午後二時、長机の両側へ代表団が戻る。
ぬるいコーヒーは新しいものへ交換されていた。
ラドヴィンは一口飲んだ。
「今度は熱すぎる」
「長い会議の必要がなくなりましたから」
シェフチェンコは回答文を机の中央へ置いた。
まだ誰も撃っていない。
だが、言葉が尽きる音は、砲声より先に聞こえた。
会合終了後、ラドヴィンは机の中央に残されたリトネア語の詩集を見つけた。
代表は意図して置いていった。
彼は周囲を確かめ、本を閉じたまま鞄へ入れた。
持ち帰って読むつもりはない。
捨てる場所を、まだ決められなかっただけだった。




