第四十四話 目を開ける日
アレクセイ・ヴォルコフが目を開けたのは、礼拝堂襲撃から十日目の朝だった。
眠っている間、彼は何度も同じ空を飛んでいた。
機体の名前は分からない。
翼は銀色で、操縦席は一つ。計器には数字がなく、雲の向こうから誰かが呼んでいる。
父の声。母の声。紫色の髪の人の声。
近づこうとすると、空が礼拝堂の天井へ変わる。白い石が落ちてきて、操縦桿が瓦礫になる。
夢の中で、アレクセイは何度も引いた。
機首は上がらない。
それでも手を離さなかった。
最後の夢で、紫色の髪の人が言った。
「飛ぶ前に、起きろ」
それで目を開けた。
白い天井より先に、光の輪郭が見えた。
紫色の髪だった。
「……夢と同じだ」
ベッド脇の椅子で眠っていたルツェンコが顔を上げる。右頬に軍用気象概報の紙が貼りついていた。
「何がだ」
「髪」
「起きて最初に言うことがそれか」
彼女は紙を剥がし、ナースコールを押した。
「名前を言えるか」
「アレクセイ」
「年齢」
「八歳」
「ここは」
「病院」
「私が美人か」
「はい」
「認知機能は正常だな」
医官が入ってきたとき、ルツェンコは真顔だった。
診察は二十分続いた。瞳孔反応、握力、記憶、頭痛、吐き気。脳震盪と爆圧による聴覚障害は回復傾向。左脚の骨折は固定されたまま。飛べる状態ではない。
八歳の子供へ使うべき基準としては、そもそも最後の一項が間違っていた。
「父さんと母さんは」
「生きている」
ルツェンコは即答した。
「父親は隣棟。母親は三階。二人とも面会できる」
「大公と、ペトレンコさんは」
「生きている」
「司祭さまは」
そこで一拍遅れた。
子供は、その一拍を見逃さない。
「死んだんだ」
「ああ」
ルツェンコは、眠っている間に六十二人が死んだことを隠さなかった。数だけを伝え、傷の形は伝えない。必要な真実と、背負わせる必要のない映像は違う。
アレクセイは泣かなかった。
「僕がもっと早く――」
「違う」
ルツェンコの声が鋭くなった。
「お前が早く起きても、ミサイルは戻らない。八歳の子供が礼拝堂の防空責任を負う国なら、その国は先に滅びた方がいい」
「でも、守りたい」
「守るのと、責任を盗むのは別だ」
アレクセイは彼女を見た。
「盗む?」
「死んだ者の責任。指揮官の責任。敵の責任。全部、自分のせいにすれば分かりやすい。だが、それは他人の荷物を勝手に背負うのと同じだ」
「少将も背負ってる顔をしてる」
ルツェンコは言葉を失った。
八歳は、時々、防空レーダーより嫌なものを拾う。
「私は指揮官だ」
「ずるい」
「階級とは、ずるさを合法化する制度だ」
医官が咳払いした。
「患者を政治教育するのは後にしてください」
「防空教育だ」
「もっと悪い」
*
午後、ヴォルコフとシーリンが車椅子で病室へ来た。
父は胸部を固定され、母は額に包帯を巻いている。三人が無事に同じ部屋へ揃うまで、看護師二人と軍医一人と、階段を嫌う古いエレベーターが必要だった。
「遅かったね」
アレクセイが言った。
「国家元首の見舞いより早い」
ヴォルコフは答えた。
「比較対象が間違っているわ」
シーリンが息子の髪を撫でる。
「痛いところは」
「脚。頭は少し」
「女を見る目は?」
「正常だそうです」
ルツェンコが窓際で書類を読んだまま答えた。
ヴォルコフは彼女を見て、息子を見て、何かを察した顔をした。
「何を話した」
「防空責任について」
「八歳に?」
「お前の息子が始めた」
「それは済まない」
「謝る方向が違う」
久しぶりに、家族の会話らしい混乱が病室へ戻った。
アレクセイは枕元から小さな紙を取り出した。眠っている間に見た夢を、目覚めてから描いたものだ。二機の飛行機。雲。紫色の髪の人。空の下に、小さな家。
「僕、パイロットになる」
ヴォルコフはすぐ答えなかった。
父親としては、やめろと言いたい。
飛行士としては、空を禁じる言葉の残酷さを知っている。
「大人になって、訓練を受けて、それでもなりたければなれ」
「今は?」
「治療を受けろ。算数をやれ。機体より先に自分の靴紐を結べ」
「結べるよ」
「左脚を使わずに?」
アレクセイは黙った。
ルツェンコがポケットから古い部隊章を出した。翼の中央に、小さな防空ミサイルが描かれている。
「預ける」
「くれるの?」
「預けるだけだ。成人して、正規課程へ入れたら返しに来い」
「そのとき、結婚してくれる?」
病室が静かになった。
ヴォルコフが目を閉じる。シーリンは口元を手で隠した。医官は記録板へ視線を落とし、聞こえなかったふりをした。
ルツェンコは逃げなかった。
「大人になって、それでも同じことを言えたら聞いてやる」
「約束?」
「返事はしない、という約束だ。それまでは子供。私の部下ですらない」
「じゃあ、候補生」
「患者だ」
「候補生患者」
「寝ろ」
アレクセイは満足そうに部隊章を握った。
成人は線を引く。
子供はその線の手前へ椅子を置き、勝手に待つ。
それでいい。未来とは、本来そのくらい遠い場所にある。
ヴォルコフは病室を出た後、廊下の壁へ背を預けた。
胸部固定帯のせいで、深く息を吸えない。
シーリンが隣へ車椅子を止める。
「怒ってる?」
「誰に」
「私。あなた。帝国。あの子。好きな順で」
「全部だ」
ヴォルコフは目を閉じた。
「あいつが飛びたいと言ったとき、嬉しかった」
「私も」
「それが一番嫌だ」
子供の才能を喜ぶ気持ちと、戦争がその才能を使いたがることへの恐怖は、同じ場所から生まれている。
「私たちは、空を愛しすぎたわ」
「だから、あいつから奪うのか」
「違う。渡す時刻を選ぶの」
シーリンは包帯の下の額へ触れた。
「あなたは、父親になると操縦が下手ね」
「教官になった覚えはない」
「親は全員、免許なしの教官よ」
二人はしばらく、閉じた病室扉を見た。
中からアレクセイとルツェンコの声がする。
『患者じゃなくて候補生患者』
『黙らないと、候補生便所掃除にするぞ』
ヴォルコフは笑い、胸を押さえた。
「痛い」
「生きてる証拠」
「便利な言葉だな」
「嫌い?」
「今は好きだ」
*
その日の夕方、アレクセイは六十二人の追悼放送を見た。
途中で消してくれとは言わなかった。
司祭ミハイルの名が読まれたとき、部隊章を握る指が強くなった。
「僕、葬式へ行ける?」
医官が首を振る。
「脚がまだ駄目です」
「映像で見るだけ?」
「それでも見送れる」
ルツェンコが端末をベッド卓へ置いた。
アレクセイは画面へ敬礼した。途中で腕が疲れ、下がりかける。
ルツェンコは支えなかった。
自分で最後まで上げ、名が読み終わると腕を下ろした。
「少将は泣かないの」
「泣いた」
「いつ」
「お前が寝ている間」
「見てない」
「見せるために泣くんじゃない」
アレクセイは画面を見たまま言った。
「僕も、あとで泣く」
「予約するな。来たら泣け」
子供は、その夜になってから泣いた。
声を殺す方法をまだ知らず、枕へ顔を押しつけた。
ルツェンコは慰める言葉を探さず、ベッド脇へ座った。小さな背中へ手を置き、泣き終わるまで動かなかった。
銃の扱いも、防空計算も教えない。
今夜教えられるのは、悲しいときに一人でなくてもよいということだけだった。
*
夜、ルツェンコは病室の灯りを落とした。
アレクセイは眠っている。窓の外を、輸送機の航行灯がゆっくり横切った。
彼女の端末には《曙光線》北方地上群への配属命令が届いている。第一防空旅団。Buk-M3、S-400、パンツィリ-S1。鉄道輸送開始は四十八時間後。
病室に残る理由はいくらでもあった。
前線へ行く理由は一つで足りた。
次に病院へ運ばれる子供を減らす。
感情を命令文へ変えると、わずか五行になった。
ルツェンコは配属受領へ署名し、部隊章を握った小さな手へ毛布を掛け直した。
「返すのは、ずっと先でいい」
眠っている子供へだけ、そう言った。




