第四十三話 六十二の椅子
礼拝堂襲撃から九日後、公国議会の傍聴席には六十二脚の椅子が置かれた。
誰も座らない椅子だった。
背もたれには氏名と年齢だけが貼られている。司祭ミハイル・シェフチェンコ。厨房係。随行員。兵士。外交官。花を運んだ庭師。第八十八特務支援群の二名。
職位順の並びはやめた。
死亡確認の順でもない。
遺族が希望した順に並べたため、王族の警護員と皿洗いの少年が隣同士になっていた。
ヴォロディミルは演壇の後ろで原稿を閉じた。
「読まないのですか」
ソフィアが聞いた。
「昨夜、三時間かけた」
「四時間二十二分です」
「見ていたのか」
「同じ段落を十一回消していました」
原稿には、決意、結束、犠牲を無駄にしない、という言葉が並んでいた。どれも間違っていない。間違っていない言葉ほど、空席の前では薄くなる。
「役に立たないな」
「演説としては整っています」
「それを役に立たないと言う」
ソフィアは原稿を受け取り、折らずに脇へ置いた。
「では、名前を読んでください」
ヴォロディミルは六十二人の名前を読んだ。
名前の後には、短い生涯があった。
司祭ミハイルは、礼拝堂の暖房が壊れるたび自分で配管へ潜った。
厨房係のオレナは、式典用の菓子を二十個多く焼き、警備兵へ隠して渡した。
庭師のペトロは、戦争が始まってからも白い薔薇だけは農薬を減らして育てた。
礼拝堂の音響係イェンスは、式のたび余った花を病院へ運び、三度感謝状を断った。
それらは死亡者名簿に書かれない。
だから遺族へ、一人につき一文だけ尋ねた。
《何を覚えていてほしいですか》
返事がなかった家族もいる。怒って紙を破った者もいる。「何も知らないくせに」と書き返した者もいる。
その言葉も、ヴォロディミルは読んだ。
「随行員イワン・クルチク。姉上より――あなた方は弟を知らない。知ったように語るな」
議場が一度、動揺した。
広報官は事前に削除を勧めた。
ヴォロディミルは残した。
国家元首が遺族の怒りまで整形すれば、六十二の椅子は舞台装置になる。
途中で声を詰まらせなかった。立派だからではない。詰まるたびに、遺族がこちらを気遣う顔をするのが耐えられなかったからだ。
最後の名を読み終え、議場は一分間黙った。
換気装置の音。
誰かの衣擦れ。
後方で、小さな子供が「お父さんの椅子はどれ」と聞いた。
母親が答えられず、抱き上げた。
その一分間だけで、礼拝堂の爆発音より多くのものが聞こえた。
式の後、子供が一人、演壇へ来た。
先ほど父親の椅子を尋ねた少年だった。六歳。黒い上着の袖が長く、指先まで隠れている。
「大公さま」
「ヴォロディミルでいい」
「お父さんは、強かった?」
父親は厨房の搬入口で死亡した。武器を持っていた記録はない。爆発後、扉を開けようとした姿が監視映像へ残っている。
「扉を開けようとしていた」
「開いた?」
「少しだけ」
「じゃあ、弱かった?」
ヴォロディミルは膝をついた。
「扉は重かった。お父さん一人では開かなかった。でも、一人で押すのをやめなかった」
「強い?」
「私は、そう思う」
少年は納得したようにも、していないようにも見えた。
「椅子、持って帰っていい?」
議会事務局は記念展示に使う予定だった。
「いい」
ヴォロディミルは即答した。
事務官が口を開き、閉じた。
少年は父の名が貼られた椅子を両手で引いた。重くて動かない。ヴォロディミルが反対側を持つ。
国家の象徴を運ぶより、空席を一脚運ぶ方が腕に重かった。
*
同じ時刻、帝国国営放送は《ストリボグ》拿捕を「公国海賊による民間医療船襲撃」と報じた。
画面には、白い冷蔵コンテナと炎上する《ヤーストレブ》が映っている。偽装AK-630は、巧妙に画角の外へ切られていた。
『病院へ向かう船を、多国籍艦隊が包囲しました』
アナウンサーの声は悲痛だった。
船倉から押収された弾道ミサイル四発については、模造品だと説明した。死亡したMH-60S操縦士については触れなかった。
公国側は映像を編集せず公開した。
停船命令。
積荷目録。
偽装砲の発砲。
墜落。
反撃。
敵兵の救難。
映像は二十七分あった。短く切れば英雄譚にできた。全部見れば、誰も完全には格好よくない。
公開から一時間で、映像は三つに切り刻まれた。
帝国系アカウントは、臨検前の軽口だけを抜き出して《民間船を嘲笑する公国》と題した。
公国支持者は、《ヤーストレブ》爆発場面へ音楽をつけた。
別の匿名アカウントは、海へ落ちる操縦士の映像を繰り返し再生した。
広報官が削除要請を提案する。
ソフィアは、遺族へ先に確認した。
操縦士の妻は、長い沈黙の後で言った。
「消せるなら消して。消せないなら、名前を隠さないで」
公国は原映像に氏名と撮影状況、死亡確認時刻を付けた。娯楽化された転載への抗議を出し、同時に原本を残した。
完全に消すことも、完全に制御することもできない。
戦争が映像になる時代には、死者は一度死んだ後、誰かの主張の中で何度も殺される。
国家にできるのは、少なくとも名前を取り戻すことだけだった。
西方共同防衛機構の参加国では、軍事行動への支持が十一ポイント上がった。別の二か国では、逆に三ポイント下がった。貨物船を止めた事実そのものを侵略と見る者もいた。
「全員を納得させる映像は作れません」
広報官が言った。
「そんなもの作るな」
ヴォロディミルは答えた。
「見せるべきものを見せろ。納得は向こうの仕事だ」
国家は自分の正しさを保証してくれない。証拠を並べ、反論を受け、次の命令にも署名する。それだけだった。
*
キミロフ中央軍病院の第三病棟では、ティンバーウルフが豆のスープを睨んでいた。
「また豆か」
「消化にいいそうです」
ヴァイパーが紙袋をベッド脇へ置く。中身は黒パン、燻製肉、酸味の強いピクルス。
「医官に見つかったら没収だ」
「だから紙袋です」
「迷彩柄にしろ」
「病院で迷彩柄は目立ちます」
ティンバーウルフは片腕で袋を開けた。右肩は固定され、肋骨にひび。肺へ入った海水は抜けたが、深呼吸すると胸が鳴る。
「操縦士は」
「今朝、見つかった」
袋を開ける手が止まった。
「生きては」
「いない」
ヴァイパーは姓を告げた。妻と、五歳の娘がいる。遺体は昼までに搬送される。
ティンバーウルフはピクルスを一本取り、噛んだ。
「ひどい味だ」
「嫌いでしたか」
「いや。うまい」
二人はそれ以上、操縦士の話をしなかった。
窓辺には、小さな鉢植えが置かれていた。墜落したMH-60Sの副操縦士が機内へ持ち込んでいたバジルだ。規則違反だった。救難時に誰かが回収し、泥水を洗ってここへ置いた。
「水をやったか」
「昨日」
「多い。根が腐る」
「植物に詳しいんですか」
「詳しくない。だが、お前よりは長く生かせそうだ」
ヴァイパーは窓の外を見た。
「次の任務は延期です」
「俺がいないからか」
「ヘリが一機減ったからです」
「傷ついた」
「肩より深く?」
ティンバーウルフは初めて笑った。すぐ胸を押さえ、顔をしかめた。
笑いの後には、空席が戻ってくる。
それでも誰かが水をやらなければ、残ったものまで枯れる。
*
午後、共同評議会は《ストリボグ》から押収した証拠を公開した。
短距離弾道ミサイル四発。
誘導装置八基。
燃料温度管理器。
ロドネフからプレスコヴを経由し、カレングラードへ運ぶ計画書。
そして、礼拝堂攻撃で使われた弾頭と同じ製造ロットの起爆回路。
直接の命令書はない。
だが、兵站記録は嘘をつきにくい。政治家は言葉を選べるが、弾薬はどこかの倉庫を出て、誰かの署名で運ばれる。
ヴァルネでの緊急会議が招集された。
議題は共同交戦決議だった。
占領されたエスティア、ラトヴァ、リトネアから帝国軍をどう退かせるか。その法的条件と、退かなかった場合の共同措置だった。
議場の六十二脚は、夜になっても片づけられなかった。
清掃員が椅子の間を通り、床だけを拭いた。
一番端の席には、誰かが小さな紙袋を置いていた。
中にはバジルの種と、短い手紙が入っていた。
――父は料理が下手でした。でも、これだけは育てられました。
国家の反撃は、弾道ミサイルを押収した日ではなく、空席の名前を順番に読んだ日から始まった。
その夜、議会事務局は椅子を六十一脚だけ保管庫へ運んだ。
一脚は少年の家へ行った。
小さな台所で、母親がその椅子を食卓へ置く。座る者はいない。それでも壁際へ飾らず、家族と同じ卓へ入れた。
空席は、忘れないために空けておくものではない。
残った者が食事を続ける場所に置いてこそ、その人の席だった。




