第四十二話 百九秒
海水は、音を奪う。
MH-60Sの機内でティンバーウルフが最初に失ったのは、方角ではなく砲声だった。
水が腰を越え、胸へ上がる。非常灯が一度だけ赤く点き、消えた。横倒しになった機体の床が壁になり、壁が天井になっている。
「人数!」
返事は泡と咳になった。
暗視装置は水中で役に立たない。彼は左手で座席列をたどった。ハーネス。肩。ヘルメット。空席。もう一人。
操縦席側から金属を蹴る音がする。機首が潰れ、非常脱出口が開かない。
水面までは二メートルもない。
上下が分かれば、の話だった。
ティンバーウルフは腰のレスキューナイフを抜き、絡んだ通信索を切った。隣の隊員のハーネスを外す。浮力胴衣は機内で膨らませれば身体を出口へ押しつける。訓練では誰もが知っている。暗闇と冷水は、知識を一つずつ剥がしていく。
「まだ膨らますな。出口まで引く」
自分の声が骨を通して聞こえた。
そのとき、機体が動いた。
《ストリボグ》の船尾が作る流れが、沈みかけたヘリを引いている。折れたローター軸が船底へ当たり、低い振動が胴体を走った。
次に当たれば、機体ごと船底へ巻き込まれる。
*
Ka-27PS《ヘリックスD》は、高度十二メートルで横風を受けていた。
二重反転ローターが互いに逆方向へ回り、海面を円形に押し潰す。救難員が開いた側扉から身を乗り出し、投光器の円を泳ぐ兵士へ合わせた。
『生存者六名を水面で確認。機内残留、不明』
「吊り上げを開始」
ペトレンコは答えた。
戦術表示には、貨物船、護衛艦、救難機、墜落機が近すぎる間隔で並んでいた。射撃管制画面なら、一つの記号へ潰れてしまう距離だ。
《ネポコルヌイ》は貨物船の舵機区画を狙っていた。
艦首から撃てば貨物区画へ抜ける。横からなら居住区画が重なる。残るのは船尾斜め後方、海面すれすれの射線だけだった。
『射線を取る。救難機、三十メートル上げろ』
「Ka-27、上昇」
『水面に一名いる!』
「十秒だけです。上げてください」
ヘリックスが上昇する。吊下索の先で救難員と負傷者が振り子になり、船腹へ近づいた。救難員は脚を伸ばし、鋼板を蹴って離れる。
《ネポコルヌイ》が一発だけ撃った。
七十六ミリ砲弾は《ストリボグ》船尾の喫水線上へ入り、舵機室の隔壁を破った。内部で破裂した衝撃が外板を膨らませ、船尾から黒い油と白い蒸気が噴く。
舵角表示が右二十七度で固まった。
貨物船は大きな弧を描き始める。
墜落機から離れる方向だった。
「見事です」
『礼は修理請求書に添えてくれ』
《ネポコルヌイ》艦長はそれだけ言った。
次の瞬間、タランタルⅢ型がP-270《モスキート》対艦ミサイルの発射筒を外へ向けた。
射撃管制レーダーが《スヴィターナ》を捕らえる。
「ミサイル艇、発射準備!」
「航空任務群へ目標を渡せ」
目標発見は《トーベイ》。方位と距離はLink 16。高度は不要。脅威評価は《ネポコルヌイ》。射撃権限は《スヴィターナ》。攻撃機は上空待機中のSu-33二機。
昨日なら、四つの組織が四つの言葉で叫んでいた。
今日は一枚の目標票が作られた。
『航空管制からグレイヴ一、目標番号二〇七。方位〇八六、距離三一。タランタルⅢ型。対艦ミサイル発射準備。友軍ヘリ二機、目標西側』
『グレイヴ一、受領。目視識別へ移る』
Su-33は雲底から降りた。二機は縦に離れ、先頭機が海面百二十メートル、二番機が三百。巨大な《スヴィターナ》から見れば小さな灰色の矢だった。
《ヤーストレブ》がチャフを撒く。白い金属片が風に広がり、レーダー画面へ偽の船をいくつも作った。
『グレイヴ一、肉眼で船体確認。ヘリックスは左。貨物船は右。目標中央』
「自衛交戦を許可」
『グレイヴ一、リフル』
Kh-35U対艦ミサイルが一発、Su-33の右主翼下から落ちた。固体ロケットが点火し、白煙が機体の後ろへ一本伸びる。
《ヤーストレブ》は近接砲を向けた。
間に合わない。
Kh-35Uは波頂から四メートルを走り、船尾右舷へ突入した。弾頭が機関室で爆発する。上甲板が中央から持ち上がり、ミサイル発射筒の一基が固定具ごと斜めにずれた。
爆風は艦橋の窓を内側へ吹き込み、操舵員を計器盤へ投げた。ガスタービンの吸気口から炎が逆流する。
発射準備中だったP-270のブースターに火が移った。
『二次爆発の恐れ。全機、離隔!』
リンクスが機首を上げる。Ka-27は吊下索を巻き上げながら右へ逃げた。
《ヤーストレブ》の第一発射筒が破裂した。
弾頭は起爆しなかったが、ロケット燃料が甲板上で燃焼し、長い火炎が艦尾を舐めた。発射筒の蓋が空へ回転しながら飛び、海へ落ちる。
目標票が作られてから命中まで、百六秒。
百九秒を三秒だけ縮めた。
ペトレンコは戦果欄へ数字を書かなかった。敵艦はまだ浮いており、乗員が消火を始めている。沈没確認も、戦闘不能確認もない。
「《ヤーストレブ》へ。武器を海へ投棄し、総員退艦せよ。救難を行う」
参謀が顔を上げた。
「敵もですか」
「海は所属を確認してから溺れさせません」
言ってから、ペトレンコは自分の左腕を見た。正しいから救うのではない。救わなかった人間の数を、あとで自分が数えることになるからだ。
*
貨物船へ向かった二機目のMH-60Sは、船首側から接近した。
偽装AK-630は後方しか向けない。だが、コンテナの間には帝国海軍歩兵がいた。紺色の作業服の上から防弾板を着け、AK-12を構えている。
機体が甲板へ接地する前に射撃が始まった。
弾丸が側扉の縁を叩き、火花が隊員の頬を切る。機上銃手は人影へ撃たず、甲板前方の蒸気配管を短く撃った。破裂した管から白煙が噴き、射線を隠す。
「降りろ!」
第八十八群がロープで甲板へ落ちた。
ティンバーウルフ不在の班を率いるヴァイパーは、コンテナ角へ身体を寄せた。敵の銃口が出る。二発。鋼板に近すぎる音。ヴァイパーは銃身を掴まず、角の下へ閃光手榴弾を転がした。
白い光。
発砲が一瞬止まる。
三人が前へ出た。先頭の敵兵は肩を撃たれ、二人目は銃床で顎を打たれた。三人目は武器を捨てて両手を上げる。
甲板中央の偽装砲へ、爆発物処理員が焼夷ではなく油圧切断装置を当てた。給弾路を潰し、電源ケーブルを切る。砲身の回転が落ち、最後に金属の擦れる音を残して止まった。
「砲、無力化!」
船橋扉は内側から閉じられていた。
ヴァイパーが三回叩く。
「船長。朝飯は何だった」
『……何だ』
「こっちは豆だ。機嫌が悪い。十秒で開けろ」
『撃たない保証は』
「開けない場合の保証ならできる」
八秒で錠が外れた。
船長は拳銃を床へ置いていた。五十代半ば、灰色の口髭。机には紅茶と、半分だけ食べた黒パンがある。
「医療物資だ」
まだ言った。
ヴァイパーは窓外の六砲身を親指で示した。
「歯科用か」
船長は答えなかった。
積荷区画の検査で、冷蔵コンテナから9P781発射機用の誘導装置、固体燃料温度管理器、交換用慣性航法装置が見つかった。別の二基には、弾頭起爆系を外した短距離弾道ミサイルが四発。燃料庫コンプレックスへの搬入記録も残っていた。
決議が必要としていた証拠は、船倉いっぱいに積まれていた。
*
船橋で拘束されたメレンコ船長は、両手を結束されなかった。
ヴァイパーは拳銃を回収し、弾倉を抜いて卓上へ置いた。装填されている。薬室には一発も入っていない。
「撃つ気はなかった?」
「撃つ相手を決められなかった」
船長は胸ポケットから、皺のない子供の絵を出した。
「それは違うのか」
「これは、濡らしたくなかった」
海軍少佐は船橋隅で止血を受けていた。肩を撃たれ、顔色が白い。それでもメレンコを睨んでいる。
「裏切り者」
メレンコは答えない。
ヴァイパーが少佐へ水筒を差し出した。
「飲むか」
「敵の水は要らん」
「海水よりましだ」
「貴様らは海賊だ」
「今日から仮設の海軍補助部隊だ。書類が七十ページある」
「そんなものが軍人を作るか」
「少なくとも、あんたを捕虜にする。海へ捨てずに済む」
少佐はしばらく黙り、水筒を受け取った。
敵に礼儀があるから信用するのではない。礼儀を破ったとき、誰の責任か分かるようにするために手順がある。
爆発物処理員が船橋へ上がってきた。
「積荷の一部に遠隔消去装置。起動信号を遮断した。誘導装置へ焼却剤が仕込まれてる」
「解除できるか」
「できる。時間があれば」
「海軍の答えだな」
「傭兵なら何て言う」
「金次第」
少佐が初めて、鼻で笑った。
笑った直後、船内放送で行方不明者の氏名が流れた。
ヴァイパーは時計を見た。臨検班の勝利より、海中の一人を探せる時間の方が減っていた。
*
拿捕後の証拠保全は、戦闘より遅く進んだ。
コンテナ封印を撮影する。切断前後の給電線を記録する。誘導装置を一基ずつ番号で管理する。船長、帝国海軍少佐、公国側法務官の三者立会いで船倉を封鎖する。
第八十八群の隊員が苛立った。
「今さら敵の署名が要るのか」
法務官が答える。
「敵が署名を拒んだ記録が要ります」
「拒んだら」
「拒否と書いて、こちら二名で署名します」
「最初からそうしろ」
「敵が後で、箱を入れ替えたと言う」
海軍少佐は負傷した右手で署名した。
「入れ替えたと言うぞ」
「言ってください」
法務官は原本を耐火袋へ入れた。
「こちらは、あなたがそう言うところまで保存します」
砲弾は目標を壊す。証拠は、壊した者があとで語る逃げ道を一つずつ塞いでいく。
*
海面では、Ka-27が新たな生存者を吊り上げようとしていた。
墜落機の搭乗者十八名。
その時点で、救助十六名。
重傷四名。
行方不明二名。
ティンバーウルフは十七人目として引き上げられた。右肩を脱臼し、低体温で唇が青い。救難員の胸ぐらを掴み、最初に言った。
「操縦士は」
「一人上げた。もう一人が見つからない」
「戻せ」
「あんたは病院だ」
「戻せ」
Ka-27の機内で、二人はしばらく睨み合った。
救難員は毛布を彼の頭から被せた。
「命令系統を説明してやる。ここでは俺が上だ。寝ろ」
「階級は」
「軍曹だ」
「俺より下だ」
「今、あんたは荷物だ」
ティンバーウルフは悪態を一つ言い、目を閉じた。
その後ろで、空席が一つ残っていた。
《曙光線》最初の実任務は成功した。
弾道ミサイル四発を押収。
護衛艦一隻大破、一隻航行不能。
貨物船拿捕。
味方一名行方不明、七名負傷。
報告書は一ページで済んだ。
医療区画では、一ページに収まらない処置が続いていた。
低体温症の兵士を温水毛布で包む。海水を吸った肺へ酸素を送る。開放骨折を洗浄し、破片の位置を画像で確かめる。敵味方はカーテンの色で分けず、容体の重さで順番を決めた。
《ヤーストレブ》の若い機関員が、公国兵の隣で震えていた。
「俺を殺さないのか」
看護兵は点滴の流量を見た。
「今は忙しい」
「後で?」
「後で飯を出す。食ってから尋問だ」
「何が出る」
「豆」
機関員は絶望した顔をした。
「帝国の方がましだった」
「元気そうだな。順番を下げる」
隣の公国兵が毛布の中で笑い、咳き込んだ。同じ海水を飲んだ者同士の笑いだった。
百九秒の欄だけが緑になり、その下では、一人の氏名だけが黒いままだった。




