第四十一話 停船命令
《曙光線》出港から一昼夜近く。
夜明け前のアンバー海は、墨を流したように暗かった。
西へ向かう貨物船は、船尾にベラヴァ商船旗を掲げていた。AIS(自動船舶識別装置)は医療用冷蔵設備と粉ミルクを積んだ民間船だと主張している。
《ストリボグ》は、《ノルド・リス》のAISスプーフィングと洋上瀬取りを追って割り出された、補給網上の一隻だった。
だが、衛星写真では三日前までルーデニア帝国海軍の補給埠頭にいた。喫水は申告より一・八メートル深く、機関排熱は同型船の二倍。上甲板の白い冷蔵コンテナ十二基は、夜間にも一度として冷却機を動かしていなかった。
嘘には種類がある。
これは、見つけてほしくない者の嘘ではなかった。見つけた側が手を出す理由を、一つずつ面倒にする嘘だった。
《スヴィターナ》の戦術指揮所で、ペトレンコは左腕の吊り帯を机の縁へ置いた。医官は安静を命じた。統合参謀委員会は着席勤務を許可した。どちらも、海が揺れないとは言っていない。
「対象船、針路二八五。速力十三ノット」
「護衛二隻。グリシャⅤ型小型対潜艦、タランタルⅢ型ミサイル艇」
「帝国領海まで二十七海里」
数字が減っていく。
《曙光線》最初の実任務は、公海上での臨検だった。敵艦隊撃滅という派手な仕事は、まだ先にある。
共同評議会の第一決議は、航海記録と積荷目録の提出要求を認めた。強制停船は、識別詐称か武器使用を確認した場合に限る。攻撃は自衛に限る。
七十二ページの交戦規則は、砲弾を止めない。ただし、誰が撃ち始めたかを後で世界へ説明できる。
「海上任務群から対象船へ。共同評議会第一決議に基づき、機関を停止せよ。積荷目録と最終寄港地記録を送信せよ」
公用回線にはロマネンコの声が流れた。
外交官でも海軍士官でもない男が選ばれたのは、商船がどんな嘘をつくか知っていたからだ。
『こちら《ストリボグ》。積荷は医療物資だ。病院へ運ぶ予定である』
「どこの病院だ」
『答える義務はない』
「病院名のない医療物資か。便利だな。患者も帳簿に載せなくて済む」
『我々は民間船だ。接近すれば国際法違反として抗議する』
ロマネンコは、相手の船長が机の上で指を組み直す姿を想像した。港の役人は、権限があるときほど書類を見せる。権限がないときほど国際法を口にする。
「抗議文の宛先は送ってやる。その前に一つ教えろ。粉ミルクは何味だ」
『……何だと』
「十二番コンテナだけ電力を食っていない。粉ミルクなら腐らんが、冷蔵申告はどうした」
『冷却装置の故障だ』
「十二基全部か。整備士を紹介してやろう。腕は悪いが、お前の嘘よりは長持ちする」
指揮所で誰かが息を漏らした。
笑いは一秒で消えた。
*
《ストリボグ》の船橋で、船長アルカジー・メレンコは機関停止レバーへ手を伸ばさなかった。
彼は帝国海軍の士官ではない。
二十七年間、穀物、工作機械、冷凍肉を運んできた商船乗りだった。戦争が始まってからは、積荷目録を渡される側になった。封印されたコンテナを載せろと言われ、船員の家族住所を確認された。
断れば、次の船には乗れない。乗れなければ、家族へ送金できない。
今朝、帝国海軍少佐は彼へ拳銃を渡した。
「臨検班が船橋へ入ったら使え」
「私は人を撃ったことがない」
「向こうはある」
少佐は紅茶へレモンを入れた。砂糖は入れなかった。
「船長、戦争で重要なのは勇気じゃない。相手より先に、選択肢がないと理解することだ」
メレンコは、その理屈が嫌いだった。
嫌いでも、海軍歩兵はすでに船内へ散っている。偽装砲の電源は入っていた。彼が機関を止めれば、少佐が船橋を奪う。止めなければ、目の前の艦隊に撃たれる。
船長の椅子の横には、孫が描いた船の絵が貼ってある。青い海。黄色い太陽。煙突から出る煙は、なぜか桃色だった。
「粉ミルクは何味だ」
公国側の男が聞いたとき、メレンコは少しだけ笑いそうになった。
海軍少佐は笑わなかった。
「射撃管制を起動」
「まだ接近していない」
「だから先に点ける」
選択肢がないと理解させる。
メレンコは送信キーを押した。
『機関は停止できない。荒天で舵効きを失う』
窓の外の海は、穏やかだった。
自分の声でついた嘘は、他人の命令書で読む嘘より重い。
少佐が偽装砲班へ親指を立てる。
メレンコは孫の絵だけを船橋卓から外し、胸ポケットへ畳まずに入れた。
その動作を終える前に、《コルシュン》の射撃管制レーダーが起動した。
「照射を確認」
「武器保持。まだ撃つな」
ペトレンコは答えた。
撃たれたくない、とは思わなかった。考えたのは順番だった。警告。記録。回避。反撃。順番を失えば、勝っても公国の戦争ではなくなる。
海上では、クリヴァク級警備艦が左へ舵を切った。二基のガスタービンが唸り、艦尾の航跡が白く折れる。AK-726連装砲はまだ正面を向いたまま。上部構造物のMR-310対空捜索レーダーだけが、暗闇を見えない扇で掃いている。
右舷後方には二十三型フリゲート《トーベイ》。
その飛行甲板から、ウェストランド・リンクスHMA.8がローターを回し始めた。細い機体が艦尾灯の上で震え、折り畳まれていた主翼のようなローターブレードが円盤へ変わる。
《スヴィターナ》からはKa-27PS《ヘリックスD》が一機。救難員と医療班を載せている。
臨検班は西方支援艦のMH-60S二機に分乗した。第八十八特務支援群十二名、公国海兵六名、爆発物処理員二名。機内では、誰も愛国心について話さなかった。
「朝飯、何だった」
分隊長のティンバーウルフが聞いた。
「豆です」
「何味だ」
「豆味です」
「軍隊はそこを改善すべきだと思わないか」
「帝国を倒した後、最優先で」
隊員がMCXカービンの弾倉を引き、装着を確かめた。隣の海兵は、笑わずに安全装置へ親指を置いた。
どうでもいい会話を続けている間だけ、まだ誰も撃たれていない。
『《ストリボグ》より。積荷目録を送信する。接近を中止せよ』
データが届いた。
ロマネンコは一ページ目だけで閉じた。
「書式が四年前のものだ」
『内容は同じだ』
「税関は内容より書式で人を殺す。お前も知っているだろう」
『機関は停止できない。荒天で舵効きを失う』
風速は六メートル。波高一・二。
海は、船長の嘘へ協力していなかった。
「二分以内に十二ノットから五ノットへ減速。右舷側に臨検班を受け入れろ」
『拒否する』
「では決議に基づき、識別詐称を宣言する」
ロマネンコは送信キーを離した。
「仕事の話は終わりだ」
《ネポコルヌイ》が汽笛を鳴らした。
低い音が海面を押し、貨物船の船腹へぶつかる。
二機のMH-60Sが海面すれすれへ降りた。主脚の下を飛沫が白く流れ、ローターウォッシュが《ストリボグ》の後甲板に積もった塩を吹き飛ばす。リンクスは左舷上空から護衛艦を監視。Ka-27は距離を取り、吊下救助装置を展開した。
先頭のMH-60Sが貨物船右舷へ並んだ。
その瞬間、《ストリボグ》の白いコンテナの側板が内側から倒れた。
白色塗装の下から、AK-630近接防御砲の六砲身が現れた。
「砲!」
誰かが叫ぶより先に、砲身が回り始めた。
最初の一連射はMH-60Sの鼻先を横切った。曳光弾が黒い海へ斜めに突き刺さり、海面が数十本の白い杭になって立つ。
二射目が機首下面を叩いた。
装甲板が裂け、右側の多機能表示器が消えた。機体が一度、右へ沈む。操縦士はコレクティブを引き、船腹との間へ三メートルだけ空間を作った。
『ブリーチ・ワン、被弾! 油圧二系低下!』
機内で兵士の身体がハーネスへ叩きつけられた。天井から絶縁材が雪のように落ちる。後部銃手がM240Hを旋回させたが、貨物船の甲板には民間服の乗員が伏せている。
「撃つな! 砲だけ見ろ!」
ティンバーウルフが怒鳴った。
照準できない。船体とコンテナと人間が一枚に重なっている。
《コルシュン》のAK-630も火を噴いた。
赤い曳光がリンクスの後ろを追う。リンクスは機首を下げ、左へ九十度近くバンクした。ローター先端が海面から二十メートルまで落ち、尾部のチャフ・フレア散布器が銀色の雲を吐く。
『敵対行為を確認』
「全艦、自衛交戦を許可。射線内の臨検機に注意」
ペトレンコの声は、自分でも不気味なほど平らだった。
《ネポコルヌイ》のAK-726が動く。二本の砲身が貨物船を越え、《コルシュン》の艦首前方へ向いた。
一斉射。
百三十発毎分の砲声は、機関砲の甲高い唸りではなく、巨大な金属扉を連続して叩きつける音に近かった。最初の二発は海へ落ち、三発目が《コルシュン》の艦首直前で水柱を上げる。
初弾から命中射だった。
次弾修正のための観測だった。
四発目が小型対潜艦の射撃管制レーダー基部へ命中した。アンテナが根元から折れ、破片が煙突側面へ散る。五発目は上部構造物を貫通し、反対側から赤熱した鋼片を噴き出した。
それでも《コルシュン》の近接砲は止まらない。手動照準へ切り替わり、砲列が《ネポコルヌイ》へ向き直る。
《トーベイ》が二十三ミリではなく、三十ミリDS30M遠隔機関砲で火器管制室だけを刻んだ。窓が白く砕け、砲身が空へ跳ね上がる。
貨物船の船長が公用回線へ戻った。
『攻撃を受けている! 民間船だ!』
ロマネンコは、壊れたコンテナから突き出た六砲身を見た。
「ずいぶん発射速度の高い粉ミルクだな」
その言葉の直後、被弾したMH-60Sの右エンジンが火を噴いた。
炎は排気口から一度後ろへ伸び、ローター回転に巻かれて機体上面へ貼りつく。操縦士が燃料遮断レバーを引く。回転数が落ちた。
貨物船の右舷と海面の間に、逃げ場はなかった。
『ブリーチ・ワン、着水する!』
機体は船腹へ尾部を擦った。
水平尾翼が折れ、黒い破片が飛ぶ。MH-60Sは横向きに海へ落ち、右の主脚から水面へ突っ込んだ。ローターが海を叩き、一枚が根元から千切れて暗闇へ飛んだ。
胴体が半回転した。
機内の照明が消える。
海水が、開いた側扉から一気に入ってきた。
作戦開始から、九分十二秒。
《曙光線》は最初の血を流した。
ペトレンコは戦術表示の墜落記号を見た。
合理的な選択は、貨物船から距離を取り、護衛二隻を無力化し、救難を射線外から行うことだった。
海中の機体には十八人いる。
合理的な選択には、呼吸できる時間が書かれていない。
「Ka-27、直ちに救難。リンクスは上空援護。ブリーチ・ツー、臨検を続行してください」
『臨検を?』
「あの砲を止めなければ、救難機が降りられません」
計画は壊れた。
壊れた計画の中で、誰を先に生かすかを決めるのが指揮だった。
「《ネポコルヌイ》、貨物船の機関室を撃てますか」
『撃てる。だが乗員区画へ抜ける』
「なら撃たない。舵だけを壊してください」
『簡単に言う』
「難しいので、あなたに頼んでいます」
二秒後、《ネポコルヌイ》艦長が笑った。
『了解した。面倒な国だ』
貨物船はなお十三ノットで進んでいる。
海中のヘリコプターを、船尾が引き込もうとしていた。
Ka-27が降下を始める。
百九秒の情報連携が、今度は人間の肺と競争することになった。
《スヴィターナ》の指揮所で、ソフィアが救難用の共通状況図を開いた。
墜落機の推定沈下速度。海水温。搭乗者の耐寒装備。貨物船の旋回半径。Ka-27の吊下能力。
数字へ変えなければ、恐怖はただ胸を締めつける。数字へ変えても、十八人は十八人のままだった。
「貨物船のプロペラ回転を止められますか」
「機関室を撃たずには無理です」
「曳航索を船首へ掛ければ旋回を早められる」
「この射撃下で誰が掛けるんです」
ソフィアは答えず、案を削除した。
できない手順を残すと、できるように見える。希望的観測は、戦術表示では最も危険な色だった。
彼女は救難機へ海流補正を送り、墜落地点から五十メートル下流へ捜索楕円を広げた。
「ペトレンコ」
「はい」
「十八人を、記号へしないでください」
命令ではなかった。
ペトレンコは一度だけ彼女を見た。
「しません」
短い返事の後、二人は別々の画面へ戻った。




