第五話 オスタヴァの星
避難は、前日の夕方から始まっていた。
オスタヴァ港の岸壁には、大型フェリー、RO-RO貨物船、沿岸旅客船、タグボートまで、動かせる船が集められている。海軍が徴用した船だけではない。船主が自分の意思で回航してきたものもあった。
港湾登録に記された避難対象者は、九万八千人。
夜通しの乗船で、すでに六万八千人余りが港を離れていた。
夜明けを迎えた時、まだ約三万人が市内と岸壁に残っていた。
帝国軍の先遣部隊は、市の北東二十五キロまで来ている。
午前五時四十分。
港湾管制所では、同じ問いが何度も繰り返されていた。
「次の船はいつ入るんですか」
「家族が別の待機列にいます」
「老人を先に乗せてください」
職員は怒鳴り返さず、乗船券の色と地区番号を確認した。列を崩せば、一つの岸壁へ人が集中する。早く乗せようとして転倒事故を起こせば、港そのものが止まる。
速さのために、順序が必要だった。
海から、低い轟音が近づいてきた。
五隻のズーブル級大型エアクッション揚陸艇が、白い飛沫を上げて港へ入る。
高速揚陸群の指揮官が無線を開いた。
『第一艇と第二艇は東岸壁。第三艇は負傷者輸送。残り二艇は沖合の輸送船へ人員を移す。定員を超えるな。復路で速度を落とす方が、結果として遅い』
一隻へ際限なく人を押し込む余裕はない。甲板上の人数、車両配置、救命胴衣、船体の重心。どれか一つを無視すれば、敵に撃たれる前に事故が起きる。
港の南側から、古いフリゲートが入ってきた。
クリヴァク級警備艦。退役後は予備艦として係留されていた船を、オスタヴァ自警団が港湾警備用に再就役させたものだった。
塗装は継ぎはぎで、主機の一つは出力が上がらない。それでもレーダーと主砲は動き、海へ出られる。
艦橋には、顔の左側に傷痕のある男が立っていた。
ヴィクトル・ロマネンコ。
港湾労働者、倉庫業者、密輸屋まで束ねる自警団の頭目で、街ではスカーフェイスと呼ばれている。
『海軍の指揮官、聞こえるか』
「こちら高速揚陸群。ロマネンコ、何をしに来た」
『見物に見えるか?』
「その艦で避難民を運ぶには、居住区画が足りない」
『俺の船だけで運ぶとは言ってない。後ろを見ろ』
《ネポコルヌイ》の後方から、大小十四隻の船が入港してきた。沿岸貨物船、漁船、観光船、港湾作業艇。軍艦としては数えられない船ばかりだった。
『俺の縄張りの船だ。港の水路も、機関の癖も、海軍より俺たちの方が知ってる』
「敵航空機が来る」
『だから軍艦を先頭に置いた。俺は愛国者じゃないが、客を置いて逃げる商売はしてねえ』
高速揚陸群の指揮官は数秒黙った。
「ロマネンコ船団は南岸壁へ。港湾管制の指示に従え。積載限界は守れ」
『最後の一つは気に入らねえが、了解だ』
*
午前七時十分。
オスタヴァ北東の上空で、ソーコルはレーダー画面を見ていた。
公国海軍航空隊は、Su-33八機とMiG-31BM四機を交代で上げている。全機を同時に出せば燃料とミサイルが尽きる。Su-33の待機機は洋上の空母に、MiG-31BMは西部前進基地に残し、二個編隊ずつを港上空へ置いていた。
対する帝国軍は、少なくとも二十四機。
数で勝つことはできない。
『北東から八。高度六千』
「確認した。第二編隊は港の東へ下がれ。深追いするな」
『了解』
帝国機は、公国側を空戦へ引きずり出そうとしている。その間に別の編隊を低空から港へ通すつもりだった。
ソーコルは戦闘機ではなく、さらに後方の光点を探した。
「南東低空、三。速度が違う」
Su-34。
港湾と船団を狙う攻撃機だった。
「第三編隊、南へ。MiG-31は攻撃機を優先」
自分のSu-33を反転させる。
その直後、右側から二機のSu-30SMが降りてきた。
『ソーコル、挟まれる!』
「分かっている。低空へ」
四機の公国機は港から離れる方向へ急降下した。追う帝国機も高度を落とす。
港の上空から敵を引き離す。
目的は撃墜ではない。
船が一隻でも多く出る時間を作ることだった。
*
午前八時二十分。
避難者を乗せた船団の第五群が出港した。
大型フェリー《オスタヴァの星》には、乗客千八百七十六人と乗員百二十四人が乗っていた。合計二千人。
定員内だった。
救命胴衣も、避難経路も確認されている。
だが、対艦ミサイルを受けることまでは、民間船の安全基準に含まれていない。
港の東百キロで、Su-34が一発のKh-31Aを発射した。
海面近くへ降りたミサイルを、《ネポコルヌイ》のレーダーが捉える。
「高速目標、一。船団へ接近!」
ロマネンコは葉巻を灰皿へ押しつけた。
「針路を合わせろ。電子妨害。チャフ発射」
「ボス、本艦へ誘導する気ですか」
「フリゲートとフェリーなら、どっちが撃たれるべきか考える時間が要るか?」
《ネポコルヌイ》が船団の外側へ出る。
チャフの雲が海面へ広がり、複数の偽目標を作った。
ミサイルの針路が一度揺れた。
しかし、完全には逸れない。
《オスタヴァの星》へ向き直る。
『迎撃する!』
上空からソーコルの声が入った。
MiG-31BMが長い降下へ入り、正面からミサイルを捉えようとする。味方船の直前で撃てば、迎撃弾と目標の破片が船へ降る。撃てる時間は数秒しかなかった。
「発射」
空対空ミサイルが離れる。
Kh-31Aの後方で近接信管が作動した。
爆発。
ミサイルは姿勢を崩したが、弾頭は生きていた。
海面へ一度触れ、跳ねるようにして《オスタヴァの星》の船尾近くへ突入した。
轟音とともに車両甲板が裂ける。
機関室へ浸水が始まり、照明が消えた。
*
「乗客は救命胴衣を着用してください。走らないでください」
船内放送は、途中で途切れた。
右舷へ傾く船内で、乗員が懐中電灯を振り、乗客を上甲板へ誘導する。階段の一つは煙で使えない。別の階段には人が集中した。
「子供を先に。荷物は置いてください」
誰かが転び、後ろの者が支える。
恐怖は人をばらばらにする。
手順は、その人々をもう一度集団へ戻した。
周囲の船が救助へ向きを変える。
ズーブル級二隻が船体の風下へ入り、救命艇と海面へ落ちた人を回収した。《ネポコルヌイ》は攻撃を受ける可能性が残る外側へ立ち、主砲を東へ向けた。
ロマネンコ船団の小型船は、フェリーへ接近できる順に人を受け取った。
ソーコルは上空から救助海域を旋回していた。
敵機はまだいる。
救助を始めた船は、回避運動ができない。
「港湾管制、増援は」
『西から二機。識別、ジュラーヴリクと随伴機』
間延びした声が無線へ入った。
『遅くなった〜。ごめんね〜』
「元帥」
『ソーコル〜、状況は?』
彼は一度、沈みかけた船を見た。
「《オスタヴァの星》が被弾。二千人乗船。救助中です」
『助かった人数は』
「まだ確定しません」
『分かった〜。じゃあ、救助が終わるまで空を空けようか〜』
シェレメートの声は普段と同じだった。
同じだからこそ、ソーコルには彼女が怒っていると分かった。
「北東にSu-30SM六。南東にSu-34二。こちらの第三編隊は残弾がありません」
『ソーコルはSu-34を見て。戦闘機は私が引き受ける〜』
「六機です」
『数えられて偉いね〜』
「冗談を言っている場合ですか」
『冗談を言えてるうちは、大丈夫〜』
二機のMiG-29OVTが、救助海域の東へ出た。
帝国側の編隊は、港と船団へ向かうには彼女たちを越えなければならない。
シェレメートは先頭機へレーダーロックをかけ、すぐに外した。別の二機へ同じことを繰り返す。誰を撃つか決めていないのではない。全機へ、自分たちが狙われていると知らせている。
帝国機が散開した。
「救助海域から離れて〜。追いかけっこなら、向こうでしようか〜」
返答の代わりに、二発の空対空ミサイルが発射された。
シェレメートと僚機は左右へ分かれ、海面近くまで降りる。ミサイルをかわしながら東へ走り、帝国編隊を船団から引き離した。
ソーコルは低空のSu-34へ向かった。
空戦が続いている間も、海では一人ずつ救助が続いた。
*
《オスタヴァの星》は、被弾から四十七分後に沈んだ。
救助された乗客と乗員は千百五十三人。
戻らなかった者は、八百四十七人。
人数が確定したのは、その日の夜だった。
救助終了後も、避難作戦は止められなかった。
港には人が残っている。
沈没現場には、まだ漂流者がいる可能性があった。それでも海軍は、捜索継続を二隻へ限定し、残る船へ次の輸送を命じた。港には二万人以上が残り、帝国軍の砲兵は射程へ入りつつあった。
救助した者を安全海域へ降ろし、空いた船で再びオスタヴァへ向かう。海面に残る者と、岸壁に残る者を同時には救えなかった。
夕方までに、登録された九万八千人の避難は終了した。
生きて港を離れた者、九万七千百五十三人。
《オスタヴァの星》とともに失われた者、八百四十七人。
数字は、足し合わせれば九万八千になる。
だからといって、帳尻が合ったわけではなかった。
*
最後の船団が沖へ出た時、帝国軍の砲撃が港湾地区へ届き始めた。
《ネポコルヌイ》の艦橋で、ロマネンコは燃える倉庫群を見ていた。
「ボス。自警団は、どこへ行きます」
部下が尋ねる。
「船が浮いてる間は海だ」
「公国軍へ入るんですか」
「俺は軍人じゃねえ」
ロマネンコは新しい葉巻を取り出したが、火を点けなかった。
「愛国者でもない。だが、俺の街を取った連中に、港の使い方まで教えてやる義理はない」
《ネポコルヌイ》の後ろには、彼が集めた小型船が続いている。
「公国軍へ伝えろ。航路、水深、倉庫、抜け道。オスタヴァを取り返す時に要るものは全部、俺たちが覚えてるとな」
*
西部の臨時政府庁舎で、ヴォロディミルは最終報告を読んだ。
「九万七千百五十三人が生存。八百四十七人が死亡」
ザハルチェンコの声は平坦だった。
平坦にしなければ、読み上げられないのだと大公には分かった。
「オスタヴァは」
「最後の守備隊が撤退しました。帝国軍が港へ入っています」
「そうか」
ヴォロディミルは、二つの数字を紙へ書いた。
九七、一五三。
八四七。
「作戦結果は成功にしろ」
「はい」
「損失欄の八百四十七は消すな。次の船団計画で、同じ穴を残すことになる」
「はい」
街は失った。
九万七千百五十三人と、港湾技術者、船員、行政記録の大半は帝国へ渡さずに済んだ。
八百四十七人は、その達成に付随した数字ではない。どの判断で増え、どの装備があれば減ったかを調べる損失だった。
ヴォロディミルは窓の外へ目を向けた。
「いずれ戻る」
燃える街へ向けた誓いではない。
避難船の狭い甲板へ押し込んだ九万七千百五十三人を、難民のまま養い続けることはできない。
帰る場所を取り戻すという約束は、同時に国家の生存条件だった。




