第四話 西へ
ロドネフ攻撃から、二時間も経っていなかった。
ドレナ川東岸の防空指揮所で、ルツェンコ大佐は帝国軍の通信量が跳ね上がるのを見ていた。
ロドネフの南部軍司令部は沈黙している。燃料集積所では火災が続き、弾薬庫の誘爆も収まっていない。そのため帝国軍の報復は、統制された一斉攻撃ではなく、複数の航空軍団が別々に動く形で始まった。
混乱している。
だが、数は減っていなかった。
「東から四十七。北東から十二。後続、さらにあり」
オペレーターが報告する。
画面には、高度も速度も異なる光点が密集していた。戦闘機、戦闘爆撃機、電子戦機。巡航ミサイルはさらに低く、川沿いの地形へ紛れて接近している。
「南部軍は頭を潰されたはずだろ」
「航空軍は別系統で動いています」
「そういう国だったな」
ルツェンコは受話器を取った。
「全射撃隊へ。優先目標は巡航ミサイル。有人機を追いすぎるな。こちらの役目は勝つことじゃない。後ろの部隊が川を渡り終えるまで、空を持たせることだ」
返事は短かった。
ドレナ川防衛線に残されたのは、Buk-M1二個中隊と、旧式化したS-300PSの一個射撃隊。移動を繰り返し、レーダーを必要な時だけ点けてきた。
それでも、相手が飽和させるつもりなら限界は来る。
最初の巡航ミサイルが川岸の補給所へ向かった。
「一番射撃隊、交戦」
二発の迎撃弾が上がる。
一発目は外れ、二発目が低空の目標を捉えた。白い閃光の後、破片が河原へ降った。
別の三発が、その横を抜けていく。
「橋梁西詰めへ二。予備架橋点へ一」
「二番、撃て」
レーダー画面の一角が激しい雑音に覆われた。
帝国の電子戦機が妨害を始めたのだ。
方位表示が揺れ、距離が飛ぶ。射撃隊は光学追尾へ切り替えたが、雲の下を走るミサイルを肉眼で追える時間は短い。
遠くで爆発が続いた。
橋そのものではない。西詰めの道路と、車列を誘導していた憲兵隊の付近だった。
「避難車列が止まりました」
「工兵を回せ。道路を一本空けろ」
「工兵は予備架橋点です」
「では戦車回収車を使え。何でもいい、動かせるものを使え」
指揮所の天井が震えた。
対レーダーミサイルが、数百メートル離れた予備アンテナへ命中した。
S-300PS射撃隊がレーダーを切り、森の中へ移動を始める。発射機はまだ四両残っている。だが、再び展開するまで二十分以上かかる。
その二十分を、帝国軍は待たなかった。
*
午前八時四十分。
西部の臨時政府庁舎では、ロドネフ攻撃の戦果報告と、ドレナ川防衛線の損害報告が同じ机へ積まれていた。
燃料施設停止。
南部軍司令部、通信途絶。
ドレナ川西詰め、空爆。
防空射撃隊二つ、連絡不能。
ヴォロディミル大公は、赤と青の記号が入り交じる地図を見ていた。
「ロドネフを叩いても、止まらなかったな」
「止まってはいません」
ザハルチェンコが答えた。
「ですが、南部軍の補給車列は動いていません。燃料の再配分にも失敗している。いまドレナ川を攻撃しているのは、帝国中央から直接命令を受けた航空部隊です」
「つまり、牙は届いた」
「届きました。帝国は、それでも殴り返せるほど大きいということです」
慰めになる説明ではなかった。
大公はドレナ川の西に集まる味方部隊を見た。
前線を維持するには、東岸へ増援を送らなければならない。増援を送れば、その兵も航空攻撃の下へ置くことになる。
「東岸の重装備は捨てる」
作戦室の空気が固まった。
「陛下、戦車と自走砲を失えば――」
「車両は代替できる。防空要員と整備員はできない。動ける車両に負傷者、射手、通信員を乗せろ。渡せない装備は暗号器材から壊す」
「防衛線を放棄なさるのですか」
「放棄する。ここで一個旅団を失えば、西部に次の線を作れない」
大公は命令書へ署名した。
「ルツェンコへ伝えろ。発射機より、その発射機を扱える人間を戻せ」
*
正午過ぎ。
ルツェンコの指揮所には、もう大型レーダーが残っていなかった。
通信車一両と、携帯端末。あとは各射撃隊から届く断片的な音声だけで、空の状況を組み立てている。
『三番射撃隊、残弾二』
『西岸への移動路が塞がれた』
『負傷者が九人いる。車両が足りない』
伝令の兵士が、紙の命令書を持って入ってきた。
「大公命令です。全隊、西岸へ後退。重装備は放棄可」
ルツェンコは一度だけ読み、紙を折った。
「撤退命令が出た。発射機から予備弾を降ろせ。空いた車内へ人を乗せろ」
「ミサイルはどうします」
「残せ」
「敵に渡ります」
「照準装置と暗号器材を焼く。発射筒だけ渡しても撃てない。射手と整備員は西岸で次の部隊を作る」
ルツェンコは無線の送信キーを押した。
「全部隊へ。SAMは置いていく。歩けない者、射手、整備員の順に乗せろ。これは戦線の消滅だ。だが、部隊まで消す必要はない。西岸で組み直す」
橋の東側では、最後の避難車列が動き始めていた。
発射機を爆破する鈍い音が、背後から追ってくる。
戦車も弾薬も、国土も失われる。
全員が渡れたわけではない。連絡の切れた三番射撃隊と、橋の東で動けなくなった救護班は戻らなかった。
西へ渡った者だけで、次の部隊を作るしかなかった。
夕刻、工兵隊が橋桁へ仕掛けた爆薬を起爆した。
中央径間が川へ落ちる。
ドレナ川防衛線は消滅した。
*
翌朝、帝国軍はヘルサヴァへ入った。
ドレナ川河口に築かれた港湾都市で、公国南部の道路と鉄道が集まる場所だった。
市庁舎前には、撤退する公国軍が残した障害物が並んでいる。帝国軍の先頭車両は慎重に進み、屋上と窓を銃口で追った。
大規模な市街戦は起きなかった。
公国軍は前夜のうちに住民の避難路を確保し、橋と燃料庫を使用不能にして退いていた。残されたのは、動けなかった負傷者、避難を拒んだ住民、消火活動を続ける消防隊だった。
帝国軍の将校が市庁舎へ旗を掲げる。
「ヘルサヴァを確保。次の目標はオスタヴァ」
勝利報告は短かった。
その同じ時間、郊外では置き去りにされた車両から燃料を抜き、進撃部隊へ配る作業が始まっていた。
ロドネフの火災は、ここにも影を落としている。
*
三日目。
カリナ半島の中心都市シメロフでは、夜明け前から砲声が続いていた。
半島を守る公国軍は、北の狭い陸路と東岸の二方向を同時に支えられる数ではない。帝国軍は海上から陽動をかけ、北側へ機械化部隊を集中させた。
午前十時、半島防衛司令部は撤退を決めた。
港へ向かえる部隊は海へ。
向かえない部隊は小隊単位に分かれ、山地と農村へ。
正面から都市を守れば、その日のうちに砲兵と通信要員を失う。司令部は、残存兵を小隊単位へ分け、占領後の破壊工作と情報収集へ回した。
帝国軍がシメロフ中央へ入った時、行政庁舎は空だった。
地下書庫には、破棄しきれなかった住民台帳と避難者名簿が残されている。若い帝国兵がそれを拾い、上官へ渡した。
「治安部隊へ回せ。協力者を探す」
住民台帳を回収できなかった代償は、すぐに出た。
その日のうちに、旧軍人と鉄道職員の拘束が始まった。
*
シメロフ陥落の報告が届いた夕方、西部の作戦室で、地図の大半が帝国軍の色へ変わった。
キミロフ。
ドレナ川流域。
ヘルサヴァ。
カリナ半島。
東部工業地帯。
公国政府が実効支配する陸地は、西部州の一角しか残っていない。ヴェルナ海では、公国艦隊が本土との補給を失ったまま孤立していた。
ヴォロディミルは、地図から目を離さなかった。
「オスタヴァには何人残っている」
「避難登録者が約九万八千。守備隊と港湾要員を含めれば、さらに増えます」
「船は」
「大型フェリー、貨物船、沿岸旅客船を集めています。海軍の高速揚陸群も向かっています。ただ、帝国軍の先遣部隊は市の外縁まで四十キロです」
「空からも来る」
「はい」
ザハルチェンコは否定しなかった。
オスタヴァを守るために残存戦力を集めれば、西部の政府拠点が空になる。守らなければ、九万八千人が包囲される。
九万八千人が包囲されれば、帝国は労働力、港湾技能、宣伝材料を同時に手に入れる。公国は都市だけでなく、取り戻した後に都市を動かす人口まで失う。
「オスタヴァ守備隊へ」
彼は命令文を一行ずつ口にした。
「市街地の保持を目的としない。港と避難路を確保し、登録者を海へ出せ。港湾管制、機関員、守備隊は最後の便だ。船を空で戻すな」
「都市を放棄しますか」
「港だけ取り返しても、荷役も修理もできなければ瓦礫だ」
ヴォロディミルは、オスタヴァの印へ指を置いた。
「オスタヴァの人口を、帝国の資産にするな。西へではなく、海へ出せ」
その夜、ヴェルナ海沿岸の港という港で、動かせる船に燃料が積まれ始めた。
国土は西へ縮んでいた。
海だけが、まだ開いていた。




