第三十七話 見えない集結
Day 65、午前四時。
RQ-4Bグローバルホークは、西方連合領内の基地から自動離陸した。
細長い主翼が滑走路灯の上を持ち上がり、ターボファンの音が夜へ薄く伸びる。操縦席はない。離陸担当の地上操縦員が機体を上昇経路へ載せると、任務管制は千キロ離れた別の施設へ引き継がれた。
高度六万フィート。
帝国領空の外側。
合成開口レーダーは雲の下を細長く切り取り、電子情報収集装置はカレングラード周辺の電波を時刻ごとに並べる。
機体は武装していない。
安全を保証するものは何もない。撃ち落とす政治的値段が高いだけだった。
*
キミロフの地下作戦室で、ペトレンコは脅威表を読み上げた。
「アンバー海艦隊。スラヴァ級ミサイル巡洋艦一、ソヴレメンヌイ級駆逐艦二、ウダロイ級大型対潜艦二。キロ級潜水艦は確認三、推定最大五」
艦名ではなく、稼働率を横へ置く。
「イスカンデル-M移動式発射機は十二から二十四。数に幅があるのは、囮車両と整備車を衛星写真だけで分けられないためです」
「空挺軍は」
「プレスコヴ方面に一万二千から一万八千。Il-76MDの稼働状況から、一度に投射できるのはその一部。ただし民間空港を奪われれば回転数が増える」
壁面には赤い記号が並ぶ。
大艦隊に見えた。
だがペトレンコに見えるのは、損失だった。敵艦を一隻沈めるために必要なミサイル。機雷原を抜く時間。帰投できない航空機。救助できない乗員。
「艦隊決戦はしません」
彼女は言った。
「こちらの対艦ミサイルを撃ち尽くし、敵の潜水艦を残すだけです。先に目と燃料と岸壁を削る」
「偵察資産は」
空軍参謀が訊いた。
「RQ-4Bを国境の外周へ。商用合成開口レーダー衛星と、抵抗組織の地上観測を重ねます」
ペトレンコが答えた。
「今朝、西方の保管基地から予備のSu-24MP二機も到着しました。ソフィア機を含めて保有三機。受け入れ整備の完了後も、搭乗員は二組です。同時に飛ばせるのは二機まで」
「有人高速偵察については、もう一案あります」
ソフィアが壁面表示を地下航空廠の監視映像へ切り替えた。
厚い防爆扉が、油圧装置に押されて左右へ開いていく。
照明の届かない格納壕の奥から、白い機首が現れた。
長い前部胴体。その付け根から張り出すカナード。後方では、折り畳まれた翼端を持つ巨大なデルタ翼が闇へ沈んでいる。
西方連合航空軍の参謀次長が立ち上がった。
「冗談でしょう」
誰も笑わなかった。
「XB-70A……」
格納壕の作業員が機首脚扉のカバーを外した。塗装の下に、古い製造番号が残っている。
AIR VEHICLE No.3。
「第三号機は完成していない」
参謀次長が言った。
「あなた方の記録では」
ソフィアは整備状況を表示した。
六基のYJ93。可変式空気取入口。翼端作動機構。与圧系統。耐熱外板。交換期限を何十年も過ぎた配管とシール材。
緑色の項目より、赤色の項目の方が多かった。
シェレメートが椅子を傾けた。
「ヴァルキリーまで隠してたのか〜。飛ぶ?」
「現状では、格納壕から自力で出ることもできません」
「夢がないね〜」
「夢は六基のエンジンを同時に整備しません」
ソフィアは次の頁を開いた。
機体再生計画《AURORA》。戦略爆撃装備を撤去し、合成開口レーダー、電子情報収集装置、長距離光学系、新しい航法装置を搭載する。初飛行予定日の欄は空白だった。
「今回の作戦には」
ペトレンコが訊いた。
「投入しません。操縦資格を持つ者も、整備経験者も足りない」
「では、なぜ今見せた」
「飛ばす計画を立てるためです」
ソフィアは格納壕の映像を消した。
「存在を認めた以上、次は飛ばせない理由を一つずつ消します」
西方連合の参謀次長は、暗くなった画面をまだ見ていた。
敵の戦力表へ一機を加えるだけなら、鉛筆で済む。
だが、その一機が存在してはならない機体だった場合、書き直すべきものは戦力表だけではなかった。
「今日使う偵察網は変えません」
ペトレンコが会議を戻した。
「RQ-4B、商用衛星、地上観測。飛べない一機を、飛べる三つの代わりにはしない」
*
午前六時十二分。
RQ-4Bの電子支援装置が、カレングラード東方で短いレーダー放射を拾った。
帝国軍のSu-35S二機が離陸する。
地上任務管制室では、操縦員が機体を飛ばし続ける。西方連合の戦術管制所は、護衛として上がったF-2A二機へ別回線で指示した。
『ノマド1、方位〇七五。高度四万。国境線西側を維持』
『ノマド1、了解』
F-2Aの編隊内回線で二番機が言う。
『レーダー反射二。フランカー、上昇中』
『見えている。撃つな。仕事は無人機を帰すことだ』
Su-35Sは国境線の東側を平行に飛んだ。Irbis-Eレーダーが捜索から追尾へ切り替わる。F-2Aの警報受信機が甲高い音を発した。
双方の距離は縮まる。
ミサイルを撃てば、数十秒で届く。
オープン周波数に、帝国側の英語が入った。
『西方機へ。進路を変えろ。無人機は軍事的挑発だ』
F-2Aの一番機は戦術管制へ確認した。
『応答許可を』
『許可。位置と意図だけ』
『帝国機へ。当方は国際空域を飛行中。接近を中止せよ』
『機械の後ろに隠れるのか』
二番機が編隊内で呟いた。
『あいつ、無人機に喧嘩を売ってる』
『聞こえるぞ。黙って距離を取れ』
Su-35Sの一機が機首を西へ振った。
F-2Aも旋回する。翼端の白い凝結雲が一瞬だけ伸び、搭載したAAM-4Bのシーカーへ電源が入る。ロックはしない。できることを相手へ見せるだけだ。
両者は国境線の手前で針路を戻した。
銃弾もミサイルも飛ばなかった。
だが、RQ-4Bが拾ったのは脅しだけではない。Su-35Sを上げるために作動した防空レーダー、地上管制、データリンク。それぞれの位置と時刻が、地図へ新しい点を残した。
*
正午、海上監視班が《ノルド・リス》の追跡結果を持ち込んだ。
船は夜間、AIS――自動船舶識別装置――を二十八分間切っていた。
送信が途絶える直前と再開直後で、報告位置は十二海里飛んでいる。《ノルド・リス》の速力では届かない。
「AISスプーフィングです」
分析官が航跡を拡大した。
「断定は?」
ペトレンコが訊いた。
「位置情報の偽装、または別の送信機への切り替え。どちらでも、この航跡は作れます」
ロマネンコは港の出入記録を見た。
「海の上で名前を着替えたな。この船は昔、船底へ密輸区画を作っている。冷却装置の会社は三年前に倒産。保険だけが生きている」
商用合成開口レーダー衛星の画像には、夜の海へ二隻の影が写っていた。
一隻は《ノルド・リス》。もう一隻はAISを発していない小型タンカー。二本の航跡は途中で寄り、しばらく並走してから離れている。
「瀬取りだ」
ロマネンコが言った。
「積荷か、送信機か。あるいは両方か」
ペトレンコは断定しなかった。
「可能性が高い。次の画像まで追尾。港内の荷役記録、携帯電話の接続、鉄道ダイヤを重ねます」
「いま臨検すれば止められる」
「公海上で、書類上は民間船です。証拠が薄い」
「逃げたら?」
「逃げ方が証拠になります」
待つことも決断だった。
発砲を控えても、位置と時刻は手に入る。
*
午後四時、ソフィアとイリーナは五つの情報源を一枚へ重ねた。
RQ-4Bが記録したレーダー放射。
商用衛星の車列。
ロマネンコの運送状。
アンバー海沿岸の抵抗組織が送った鉄道通過時刻。
《ノルド・リス》の通信記録。
「単独なら、どれも攻撃根拠になりません」
イリーナが言った。
「重ねても、まだ推定です」
ソフィアは時系列をずらした。
「ただし、列車が倉庫へ入った二時間後に防空レーダーが増える。冷却機材が届いた翌日だけ電力消費が上がる。偶然にしては勤勉です」
「敵も働きます」
「そこが最大の欠点ですね」
最後に、抵抗組織から一枚の写真が届いた。
*
その写真を撮ったのは、エスティア国境から百十キロ東の操車場で働くミラだった。
昼は信号係、夜は占領軍の列車を数える。
彼女は保守用の黄色い上着を着て、入換信号機の根元へしゃがんだ。手には工具箱。中に入っているのはレンチ二本、油差し、古い携帯電話だった。
貨物列車は時刻表より十七分早く来た。
先頭はディーゼル機関車二両。後ろに覆い付き貨車、燃料タンク車、整備車。最後尾へ兵員輸送車が連結されている。
帝国兵がホームを歩き、作業員の顔を一人ずつ見た。
ミラは信号箱を開けるふりをした。
見るのは車両ではない。車輪の数、泥の色、燃料車の沈み方。幼いころ、父親が貨車の積荷を音だけで当てていた。
覆いの隙間から八輪車の角が見えた。
彼女は工具箱の中で撮影ボタンを押した。
兵士が足を止める。
「何をしている」
「第二信号が戻りません」
「列車を止めたいのか」
「止めたら、あなた方が私を撃つ。通したら、駅長が私を怒鳴る。選択肢が豊富です」
兵士は工具箱を蹴った。
蓋が開き、レンチが線路脇へ落ちた。携帯電話は二重底に残る。
列車が動き始める。車輪が継ぎ目を叩き、重い振動が靴底から上がった。最後尾が通過すると、ミラは信号箱の裏へ回り、撮影データを短い電文へ圧縮した。
送信時間、四秒。
基地局へ接続した瞬間、占領軍の電波監視車が方位を探り始める。彼女は電話の電池を抜き、排水溝へ落とした。
写真一枚の値段は、次に同じ駅へ出勤できるかどうかだった。
*
キミロフの画面へ、貨車の隙間から見える八輪の車体が拡大された。角張ったミサイル収納部。支持脚の形。
画質は悪い。
それでも、イスカンデル-Mの発射車両と一致した。
ペトレンコは攻撃承認書を開かず、偵察継続命令へ署名した。
「一台を見つけたから、一台を壊す作戦にはしない」
「何を見ます?」
「どこから来て、誰が燃料を入れ、どの指揮所が動かすか」
赤い点は一つだった。
だが、その点へ伸びる道路、鉄道、電波、請求書が、暗闇の中で輪郭を持ち始めていた。
集結は、まだ目に見えない。
見えないまま、地図の上では逃げ場を失いつつあった。




