第三十六話 番犬の席
Day 64、午前八時二分。
ロマネンコは招待状を持たずに統合海上作戦準備室へ入った。
代わりに、船舶登記簿三冊、保険証券の束、港湾警備隊員二人、そして沖合に停泊する軍艦一隻を連れてきた。
「会議に遅れた」
ペトレンコが言った。
「呼ばれていない会議に遅刻するのは難しい」
ロマネンコは濡れた外套を椅子へ掛けた。
「だが船は時間どおりだ。船主より優秀で困る」
窓の向こう、灰色のヴェルナ海にクリヴァク級警備艦がいた。
細い艦首。前甲板の対潜ミサイル発射機。中央構造物の両脇に並ぶ魚雷発射管。塗装は剥げ、右舷後部には新しい鋼板が当てられている。速力を上げれば振動し、古いガスタービンは燃料を大食いする。
それでも、レーダーは回り、砲は動き、乗員は艦を捨てていなかった。
「それは誰の船だ」
法務官が訊いた。
「良い質問だ」
ロマネンコは登記簿を開いた。
「帝国海軍から北方亡命政府へ移管された記録が一枚。帝国側が移管を取り消した命令書が一枚。民間警備会社へ十五年間貸与した契約が一枚。会社の株式を私の商会が買った証明が一枚」
「つまり?」
「全員が自分のものだと言える。海では、よくある家族問題だ」
ペトレンコは書類をめくった。
「乗員の身分は」
「元帝国海軍四十三、北方亡命政府軍二十一、民間契約員十七、公国籍が九。料理人は三つの国籍を使い分ける」
「交戦規定」
「船長は撃たれたら撃ち返すと言っている」
「それは規定ではなく性格です」
「船には時々、規定より役に立つ」
彼女は書類を閉じた。
「共同作戦へ入れるなら、指揮関係、給与、捕虜資格、事故補償、戦利品の扱いを決めます」
「大砲を撃つ前に紙で沈める気か」
「紙がなければ、撃った後で全員が海賊になります」
*
午前十時、ペトレンコは港湾艇で《ネポコルヌイ》へ移乗した。
医者から乗艦禁止を言い渡されているため、接舷はしなかった。港湾艇を百メートルまで寄せ、艦長が開いた映像回線で艦内を確認する。
「これは乗艦に含まれない」
彼女は言った。
「医者へ説明してください」
副官が答えた。
映像は機関室へ移る。
右舷ガスタービンの周囲に油受けが置かれ、配管の継ぎ目へ白い布が巻かれている。減速機の振動値は許容上限の九割。後部76ミリ砲は旋回できるが、自動装填装置が二発に一度停止した。
近距離防空ミサイルは残り十二発。魚雷八本のうち信管検査済みは五本。対潜ロケットは在庫があるが、発射管の電気接点が腐食している。
「七十二時間で出せるか」
ペトレンコが訊いた。
「十五ノットなら」
艦長が答えた。
「二十ノットでは?」
「神と機関長の相談になります」
「機関長を優先してください。神は部品を出さない」
ロマネンコが横から口を挟んだ。
「部品なら出す。倉庫番号四十四、旧冷凍会社の名義で減速機軸受が二組ある」
「なぜ軍艦の軸受を冷凍会社が持っているんです」
「税関は魚を冷やす機械に詳しくない」
ペトレンコは額を押さえた。
港、金、裏道。ロマネンコは国家を国境線で見ない。荷札、岸壁使用料、保険料率で見る。
信用はできない。
使い道はあった。
*
同じころ、アンバー海の南口で、古い冷凍運搬船が北東へ進んでいた。
公称積荷は冷却設備と建築用鋼材。
船体は波を受けるたび鈍く軋み、甲板のコンテナには氷が張りついていた。船長は自動船舶識別装置を正常に送信し、速度も航路も商船らしく保った。
上空二万六千フィートを飛ぶ海上哨戒機の逆合成開口レーダーは、コンテナの中身を見られない。
だが、喫水は申告より三十六センチ深かった。
船は前港で燃料を満載していない。冷却装置だけなら、これほど沈まない。
沿岸の漁船が、衛星電話で短い報告を送った。
「四番船、艦尾の波が重い。速力十一。護衛なし」
それは軍人の報告ではなかった。
魚の群れと密輸船を同じ目で見てきた船長の、商売上の違和感だった。
*
午後一時、ロマネンコは準備室の壁へ運送状を貼った。
「《ノルド・リス》の積荷はカレングラードへ入る」
「冷却設備と鋼材」
法務官が読んだ。
「書類ではな」
ロマネンコは別の請求書を重ねた。
高耐熱ケーブル。油圧支持脚用シール。軍用電源車と互換性のある発電機。低温用燃料ポンプ。個別なら民用品で通る。組み合わせれば、移動式ミサイル部隊の冬季展開拠点になる。
「三か月前から、カレングラード郊外の倉庫へ同じ組み合わせが六回入った」
「税関記録は?」
「正規の記録では農業機械だ。裏の記録では、荷役作業員が二人消えた」
「情報源を法廷へ出せるか」
「一人は出せる。もう一人は海の底だ」
ペトレンコは海図へ赤い円を置いた。
「推定だけで攻撃はできません」
「攻撃しろとは言っていない。見に行けと言っている」
「あなたが?」
「私の船と港を使ってな」
「見返りは」
「《ネポコルヌイ》の修理費。乗員の法的地位。戦後、北方三港の復旧事業へ入札する権利」
「愛国心は?」
ロマネンコは煙草を取り出し、禁煙表示を見て戻した。
「港は占領されると金を生まない。家族は砲撃されると文句を言わなくなる。どちらも商人には困る」
善人の言葉ではなかった。
嘘でもなかった。
*
夕方、暫定契約が成立した。
《ネポコルヌイ》は三十日間、共同対応枠組みの警戒・護衛任務へ参加する。
指揮は公国海上作戦準備部。船長は明白に違法な命令を拒否できる。乗員は公国軍属として登録され、捕虜資格と家族補償を受ける。拿捕品は共同審査まで売却禁止。
「最後の条項は不愉快だ」
ロマネンコが言った。
「だから入れました」
ペトレンコは署名した。
*
契約成立の一時間後、《ネポコルヌイ》は港外で機関試験を始めた。
艦長が速力十二ノットから十八ノットへ命じる。二基のガスタービンが唸りを上げ、細い艦首が波を割った。船体後部では、古い鋼板と新しい補修板が別々の音で震える。
『右舷軸、振動上昇』
機関室内通話に機関長の声が響いた。
『値は』
『九・八。まだ上がる』
艦長は十八ノットを維持した。
甲板の手摺が細かく震え、測距儀の像が跳ねる。右舷機関の軸受から油温警報。続いて金属を擦る高い音が艦尾から走った。
『右舷機関、減速。左舷で回頭する』
推力が片側だけ落ち、《ネポコルヌイ》の艦首が右へ振られた。見張員の正面に、港へ向かう小型貨物船の緑灯が入る。
『貨物船、距離九百!』
『左舵二十。左舷機関、最大連続』
左舷ガスタービンの排気温度が跳ね上がる。船体が傾き、艦首波が前甲板を洗った。固定の甘い工具箱が滑り、隔壁へぶつかって蓋を撒き散らす。
貨物船の汽笛が長く鳴った。
距離五百。
三百五十。
《ネポコルヌイ》は鈍い弧を描き、貨物船の船尾を二百十メートルでかわした。艦尾に残った航跡が途中で折れ曲がる。
『試験終了。右舷軸受交換』
艦長が言った。
『十八ノットは?』
ロマネンコが陸上回線から訊いた。
『出せる。ただし一度だけだ』
『戦争なら十分だ』
『帰港する戦争を予定してくれ』
機関長は油まみれの手袋を外し、冷凍会社名義の新品軸受を見た。
「魚を冷やすには大きすぎるな」
「税関が魚好きで助かった」
整備員たちは徹夜作業へ入った。固着したボルトを焼き、油を抜き、重い軸受を数センチずつ動かす。英雄譚には残らない仕事だった。
深夜、《ネポコルヌイ》は右舷機関を止めたまま岸壁へ戻った。
機関員が減速機の覆いを外す横で、甲板員は係留索を点検した。76ミリ砲が補機電力でゆっくり左舷へ旋回する。途中で一度止まり、油圧音を呻かせてから所定角へ戻った。
番犬は老いていた。
歯は欠け、脚も悪い。
それでも、自分の庭へ入った足音をまだ覚えていた。




