第三十四話 職務指定
Day 61、午前六時四十分。
ペトレンコは軍病院の検査室で、自分の左手首が折れていることを知った。
「橈骨遠位端に亀裂。肋骨二本。肺は無事」
軍医は画像を拡大した。
「それと、妊娠六週前後です」
最後の一行だけ、室内の機械音が遠くなった。
ペトレンコは画面を見た。黒い領域と白い点。艦艇の損傷図なら、そこから復旧時刻と必要資材を逆算できる。これは違った。損失として数えてはいけないものが、最初から損失の可能性を伴っていた。
感情を言葉にする前に、彼女の頭は手順へ逃げた。
「被曝量は」
「昨日の撮影は防護済み。問題になる量ではありません」
「鎮痛薬」
「処方を変更します。六週間、飛行勤務と乗艦勤務は禁止。長時間の車両移動も許可制」
「六週間?」
「短いと言ったつもりです」
軍医は診断書へ署名した。
「中佐、これは命令です。あなた方は医者の命令だけ、なぜか作戦提案として読む」
「実行可能性を確認しただけです」
「夫君も同じことを言いました。よく似た夫婦で、医療側には迷惑です」
扉の外で、ヴォロディミルが咳払いした。
聞いていたらしい。
*
病室へ戻る廊下には、礼拝堂から運ばれた負傷者が並んでいた。
PAC-3MSEとともに到着した西方連合の外科班が、空いていた会議室を第二手術室へ変えている。床を這う酸素管の上へ黄色いテープが貼られ、壁には昨日まで婚礼の席次表が残っていた。
ヴォロディミルは片手で彼女の車椅子を押した。
「知っていたのか」
「可能性は考えていました」
「報告書の書き方だな」
「あなたはどんな返答を期待しています?」
彼は答えなかった。
公位継承。正統性。敵が利用する噂。警備計画。子供一人へ国家が貼り付ける値札が、頭の中へ勝手に並んだ。
それが嫌だった。嫌だからといって、元首の頭を止めることもできなかった。
「怖い」
ようやく彼は言った。
「昨日のあとだから?」
「昨日の前からだ。昨日で、説明がついただけだ」
ペトレンコは包帯のない方の手を伸ばし、車椅子を止めた。
「では、怖いまま進めます。ほかの手順はありません」
「君は何でも手順にする」
「感情のまま艦隊を動かすより安全です」
「夫は艦隊より安い?」
「維持費を精査してから答えます」
廊下の角で衛生兵が顔を背けた。笑ったのではない。笑いを隠しただけだった。
*
午前九時、人事・作戦合同審査会が地下庁舎で開かれた。
窓の代わりに換気管があり、天井の蛍光灯が一列だけ消えている。机上には三種類の人事案が置かれていた。
一案目はペトレンコを少将へ昇任させ、連合艦隊司令官へ据えるもの。
二案目は大将待遇の特別職。
三案目は現階級のまま、任務と権限だけを定義するものだった。
「第一案は分かりやすい」
国防相代理が言った。
「分かりやすい誤りです」
ペトレンコは三案目を指した。
「私は昨日まで空母航空群と海上作戦の調整をしていた中佐です。死傷者が出た翌日に星を増やせば、功績ではなく宣伝に見える」
「実際、宣伝効果はある」
「敵にもあります。『公国は婚礼の負傷者を将軍にした』と」
彼女は損失表を横へ置いた。
「階級は据え置き。職名は統合海上作戦準備官。作戦案、補給要求、各国艦艇の任務調整を担当する。命令権は承認された指令の範囲だけ。副官には私より海軍歴の長い大佐を一名」
「自分の監視役を要求するのか」
「事故調査では、二人で署名する帳簿の方が長持ちします」
ヴォロディミルは黙って聞いていた。
妻へ権限を渡す。妻だから渡したと見られる。渡さなければ、妻だから退けたと見られる。
正解のない二択は、政治家にとって日用品だった。
「第三案を採る」
彼は言った。
「任期三十日。七日ごとに権限を監査する。任務に必要な情報閲覧権は付けるが、目標承認権は付けない」
「異議ありません」
ペトレンコは答えた。
「家庭内では?」
「議事録から削除してください」
書記官が無表情で言った。
「すでに記録済みです」
地下室に、短い笑いが起きた。
*
次に呼ばれたソーコルは、飛行服の上へ礼装用の上衣だけを着ていた。
「中佐。本日付で大佐へ昇任」
国防相代理が辞令を読んだ。
「大公直属近衛飛行隊および臨時防空航空団の運用統括を命じる」
ソーコルは紙を受け取り、裏返した。
「返品条件は?」
「ない」
「粗悪品ですね」
壁際にいたシェレメートが、包帯の巻かれたこめかみを指で叩いた。
「大佐だけ〜?」
「なぜ一気に二つ以上上がると思った」
「大公様を何度も助けたから、もう一つくらい付くと思った〜」
「階級章が増えても、敵機は減りません」
「給料は増えるよ〜。燃料代も増えるけど〜」
「では、差し引きゼロですね」
「欲がないね〜」
ソーコルは新しい階級章を胸ポケットへ入れた。
冗談のあと、彼は戦力表を開いた。
稼働可能なSu-27SMは七機。MiG-29OVTは二機。F-2A四機は西方連合の統制下。損傷中のSu-24MPは右エンジンと電子戦装置の交換待ち。操縦席は並列配置で、機長側と航法・電子戦士官側の双方に破片痕が残っていた。
「次のKh-47M2をMiGで追い回す気はありません」
ソーコルは言った。
「発射母機を離陸前に見つける。上がったら警報を早く出す。最後にPAC-3MSEへ渡す。迎撃機は英雄になるためでなく、穴を一つ減らすために使います」
言葉が軽くても、表の数字は軽くなかった。
*
Day 62、正午。
公国政府は礼拝堂攻撃に関する第一次報告書を公開した。
飛翔体の推定航跡、残骸の写真、犠牲者数、拘束者の状態。
そして、公国側の失敗。
報道班の入場審査が名簿照合へ偏り、機材の化学検査が抜き取りだったこと。救護所の搬入口が一時、車両と負傷者で塞がったこと。城内の予備通信回線が爆発で同時に切れたこと。
会見場で記者が訊いた。
「敵に弱点を教えることになりませんか」
ソフィアは演台の脇に立っていた。右腕の包帯を隠していない。
「敵は昨日、そこを使いました。知っている相手へ秘密にしても、守れるのは政府の面子だけです」
「責任者の処分は」
「調査後です。死者の数より早く首を切ると、原因まで一緒に埋まります」
怒りを声量へ変えない。原因、再発防止、期限へ変える。それがソフィアのやり方だった。
画面の向こうで、公国を弱いと笑う者もいた。
別の指揮所では、失敗まで公開する小国の報告書が、帝国の否定声明より先に作戦地図へ貼られた。
*
会見後、ソフィアは礼拝堂跡へ戻った。
工兵隊が倒壊した梁を切断し、鑑識班が細かな破片へ番号札を置いている。外壁には爆風で食器の欠片が刺さり、白い磁器だけが石の中で妙に明るかった。
警備責任者が、入場検査の改善案を差し出した。
「次回から報道機材を全数分解検査します」
「全数分解に四時間。報道陣が外へ溢れ、車列が道路を塞ぐ。今度は群衆へ自爆車両を入れられます」
ソフィアは案を返した。
「人、車両、機材を別の入口へ。化学検査は全数。分解検査は危険度で抽出。搬入口には逆流防止の一方通行を作る。全部を固くするのではなく、一つ破られても次が残るようにしてください」
「完璧にはできません」
「完璧と言った人から外します」
彼女は崩れた祭壇を見た。
怒りは、壊れた場所を睨んでも修理にならない。通路幅、担当者、予備回線、訓練日へ変える。変換できなかった分だけが、夜になってから戻ってくる。
*
その夜、ペトレンコは新設された準備室へ入った。
元は城の備品倉庫だった。机二つ、海図三枚、暗号端末一台。扉には紙で「統合海上作戦準備官室」と貼られている。
彼女は最初の作業として、各国艦艇の燃料、弾薬、通信規格、医療能力を一枚の表へ並べた。
国旗ではなく、航続距離と補給口径で分ける。
英雄ではなく、帰港できる順番で考える。
午前零時を回ったころ、ヴォロディミルが紙袋を持って現れた。
「医者からの命令だ」
「あなたに私を指揮する権限はありません」
「夫としても?」
「なおさらありません」
彼は紙袋から温いスープを出した。
「では、兵站担当として置いていく」
ペトレンコは表から目を上げた。
「受領印が必要です」
「結婚は面倒だな」
「国家よりは簡単です」
彼女は受領欄の余白へ署名し、スープを受け取った。
公国が得たのは将軍ではなかった。
損失を数え、他国の船を同じ海図へ載せ、帰る道まで書こうとする中佐だった。




