第三十三話 宣戦の手前
午後二時十一分、三人目の襲撃者は路面電車の車庫へ逃げ込んだ。
白いフォルクスワーゲン・クラフターが遮断棹をへし折り、整備線の間を滑った。右前輪は礼拝堂前で拾った破片を噛み、回転するたび泥と血を扇状に撒いていた。
運転士のオレフは、昼食のスープを流しへ捨てたばかりだった。
車体番号は見えた。艦隊番号ではなく、市交通局の備品番号を毎日覚える人間の目だった。偽造プレートの数字が一つだけ古い形式であることにも気づいた。
クラフターが検修庫の柱へ接触し、左のミラーを砕いた。
オレフは非常停止盤を叩いた。架線の電流が落ち、庫内の照明が赤い非常灯へ切り替わる。続いて整備用の圧縮空気弁を開いた。
床を這うホースが暴れ、白い粉塵が車両の下から噴き上がった。
「交通局を戦場にするな。修理伝票が増える」
誰にも届かない悪態を吐き、彼はコンクリートの点検壕へ身を伏せた。
四分後、公国軍のBTR-82Aが東西の門を塞いだ。三十ミリ機関砲は検修庫へ向けず、砲塔だけが逃走路を追う。ここで撃てば、襲撃者より先に架線と油槽と三十年分の予算が死ぬ。
憲兵隊は二列に分かれた。片方が整備線の陰を進み、もう片方が屋根上作業台へ上がる。
「三号、右の台車だ」
「見えている」
編隊内無線ではなく、憲兵分隊の短距離秘話回線だった。呼吸と靴底の擦れる音が近い。
最初の銃声が、赤い電車の窓を三枚抜いた。
若い憲兵が腿を撃たれ、脚を取られて転倒した。仲間が防弾盾ごと引き戻す。弾は大腿動脈を外れていたが、血は床の排水溝へ速すぎる筋を作った。
襲撃者は車輪の向こうへ二射目を撃った。
その瞬間、圧縮空気のホースが彼の足首へ巻きついた。粉塵の中で姿勢が崩れる。屋根上の憲兵が照明弾ではなく、スタングレネードを投げた。
白い閃光。
狭い庫内で破裂音が跳ね返り、電車の金属車体が巨大な鐘になった。
襲撃者の拳銃が床を滑る。憲兵三人が一斉に飛び込み、肩と手首と首を押さえた。男は舌を噛もうとしたが、衛生兵が顎へ硬いゴム片を差し込んだ。
「生かせ!」
「生きています。俺より元気です」
撃たれた憲兵が歯を食いしばって言った。
午後二時十九分。三人目を拘束。
オレフは点検壕から這い出し、砕けた窓と折れた遮断棹を見た。
「人間の名前は病院で数えろ。車両の傷は俺が数える」
その夜、交通局の損害報告には窓ガラス十二枚、ミラー一基、架線支持具二個と記された。
撃たれた憲兵の名前は、別の台帳へ載った。
*
午後三時、最初の被害集計が出た。
死亡六十二。
負傷百三十九。
うち重体・重傷二十七。
死亡者にはミハイロ・シェフチェンコ司祭、公国職員、警備員、招待客、城外の市民が含まれる。北方亡命政府の使節三名が死亡し、西方連合加盟国の副首相一名が重体だった。
数字は、その後も動いた。
身元不明者が一人減ると内訳が変わり、搬送先で一人が亡くなると総数が増えた。会見用の数字と、家族へ伝える名前は別の速度で確定する。政府は前者を急がされ、後者で間違うことを許されなかった。
ヴォロディミルは救護所の倉庫に置かれた折り畳み机へ肘をついた。
朝には婚礼用の食器と献立表が並んでいた部屋だ。いまは透明袋に封じられた金属片、弾薬箱、焦げた配線が棚を占領している。白い皿が一枚だけ残り、縁に灰が積もっていた。
六十二という数字を国家元首として読むのは簡単だった。損害率、病床、警備の穴、外交上の帰結へ分解すればいい。
花嫁の隣で聞くには、ひどく難しかった。
「六十二で発表します」
宰相代理が言った。
「暫定、と付けろ」
ヴォロディミルは額の包帯を押さえた。
「断定できたことは」
「飛翔体はKh-47M2と高い確度で一致。発射母機とみられるMiG-31Kを複数の監視系統が追跡しました。帝国領内のオストラヴ基地から離陸、発射後に北東へ帰投」
壁面表示に航跡が重なった。
西方連合のA-50U早期警戒管制機が拾った上昇航跡。地上の超短波レーダーが記録した高速目標。迎撃に上がったF-2AのAN/APG-2が短時間だけ得た反射。三つは完全には一致しない。観測時刻を補正すると、一つの発射へ収束した。
「弾体番号は」
「残骸の刻印は削られています。ただし制御部品のロット、耐熱合金の組成、配線材の被覆が帝国軍の既知試料と一致。確度は高い。ただし法廷で百パーセントと言えるほどではありません」
「工作員は」
イリーナが三台の端末を机へ置いた。
「一名死亡、二名拘束。救護所で捕えた二人目は端末を遠隔消去されました。車庫の三人目は未消去です」
「なぜだ」
「車庫の屋根が厚く、非常停止で中継設備まで落ちた。帝国国家保安総局がそこまで路面電車を嫌っているとは思いませんが、結果として交通局が暗号保全に貢献しました」
誰かが笑いかけ、やめた。
イリーナは端末の傷を指で示した。
「ミサイルの帰属と、工作員の指揮元は別件です。暗号鍵、資金、移動経路が固まるまで同じ文章へ入れない方がいい」
「同感だ。分けて発表する」
怒りに任せて一つへ結べば、会見は強くなる。裁判は弱くなる。
ヴォロディミルは強い言葉を欲していた。だからこそ、いまは弱い言葉を選んだ。
*
午後四時、外国代表との緊急協議が始まった。
自動的に共同参戦する条文はなかった。
西方共同防衛機構の集団防衛規定は、加盟国領域への攻撃と、各国政府の手続を前提にしている。キミロフ公国は正式加盟国ではなく、婚礼への攻撃だけで全加盟国が同じ戦争状態へ入るわけではない。
それでも、加盟国の政府高官と外交使節が死傷した。
画面には七つの首都が並んだ。背後の壁紙も、机上の国旗も違う。どの代表も怒っていたが、怒りの提出先が議会、内閣、君主、世論と異なっていた。
「我が国はPAC-3MSE一個射撃中隊と医療部隊の派遣を即時承認する」
「海軍部隊の交戦権限は、議会審議が必要だ。アーレイ・バーク級駆逐艦は情報共有と防空支援までなら東進できる」
「帝国への最後通牒を共同で出すべきだ」
「証拠公開が先だ。世論は怒っているが、怒りは法的根拠にならない」
意見は割れた。
割れたまま、各国ができることを積み上げた。
C-17Aによる医療輸送。
防空弾薬。
合成開口レーダー衛星の観測枠。
北方亡命政府部隊への装備供与。
帝国資産の追加凍結。
そして、有志国による共同軍事行動の準備会合。
「殿下。あなたは報復を望むのか」
西方連合の代表が訊いた。
質問は簡単で、返答は記録される。
「望んでいる」
ヴォロディミルは答えた。
「だが、望みと作戦は別だ。叩くのは次の発射能力、指揮系統、兵站だ。皇都の住宅街を焼く許可を求めているわけじゃない」
「自制を保証できると?」
「保証できるのは命令までだ。だから共同監視と戦果確認を受け入れる。信用しろとは言わない。見張れ」
画面の一つで法務官が顔を上げた。
世界が一つになった、という言葉は使われなかった。
同じ敵を見ても、各国の理由は違っていた。その違いを残したまま署名できる文書だけが、翌朝まで生き延びる。
*
午後五時十二分。
路面電車車庫で拘束された男は、軍病院の処置室にいた。
両手は寝台へ固定され、耳には爆発音による出血が残る。瞳孔反応は鈍いが会話は可能。脇腹にゴム弾の痣、右手首に骨折。白い作業服の裾には赤褐色の砂が付着していた。
「尋問は五分」
軍医が言った。
「こいつは人を撃った」
憲兵隊長が返す。
「だから治して、裁判へ出す。死体に質問できるほど予算はない」
軍医は時計を置いた。
鑑識班は砂、糸、火薬残渣を採取した。砂には鉄道用の制輪子粉が混じり、作業服の縫製糸は西方製、拳銃は帝国軍制式。弾薬は三つの製造年が混在している。
偽装は雑ではなかった。雑に見えるよう、異なる出所を重ねていた。
イリーナは男の正面へ座った。
「誰の命令?」
男は笑わなかった。
「宣戦しろ」
乾いた唇が動いた。
「待っている」
「誰が」
男は天井を見た。
軍医が五分を告げる。イリーナは席を立った。
答えがないことも答えだった。彼らは公国の怒りを必要としている。ならば、怒りを予定どおり渡す理由はない。
*
午後六時。
ヴォロディミルは崩れた城の前庭へ出た。
黒いスーツの左肩は裂けたまま。着替える時間はあったが、血と石粉が残った服を選んだ。
演出であることを、自分でも分かっていた。
演出だから虚偽とは限らない。血の付いた服も事実であり、それを選んで見せることも事実だった。
カメラの前に立つ。
「本日、キミロフ城は帝国軍が運用するものと一致する極超音速兵器で攻撃されました」
「現時点で六十二人が死亡し、百三十九人が負傷しています。数字は暫定です」
「これは俺たちの婚礼だけへの攻撃ではない。首都に集まった政府、亡命者、外交使節、市民を同時に狙った攻撃です」
声を上げなかった。
「公国は報復する」
前庭が静まる。
「標的は、この攻撃を計画し、発射し、次の発射を準備する軍事組織です。発射基地、指揮系統、兵站、航空部隊を破壊する」
「帝国皇都を灰にする、とは言わない。皇都の住民を殺しても、今日死んだ六十二人は戻らない」
「そして、占領後に使う都市を焼くほど、公国は裕福ではない」
人道ではなく、戦争目的と資源の話だった。
「ただし、命令を出した者が、国境と肩書きの後ろへ隠れられるとは思うな」
「証拠を集め、部隊を止め、必要なら拘束する」
隣に立つペトレンコは、白い衣装ではなく、病院から借りた灰色の上着を着ていた。
「私からも一つだけ」
彼女は言った。
「今日、私たちは夫婦になりました。それを帝国への宣伝材料にも、公国の無罪証明にも使わせません」
「死んだ人たちを、私たち二人の物語の背景にしないでください」
用意された原稿にはない言葉だった。
「明日から、誰が何を命じたのかを調べます」
会見を降りると、ヴォロディミルが小声で言った。
「明日から?」
「公式には」
「非公式には」
「今夜から。夫が邪魔をしなければ」
「結婚初日に職場から追い出された」
「まだです。これから追い出します」
笑いは一往復で終わった。二人の前を、黒い袋に入った遺留品が運ばれていったからだ。
*
午後十一時、オスタヴァの滑走路へC-17Aが降りた。
逆噴射が雨水を白く巻き上げ、後部ランプからPAC-3MSEの弾薬コンテナと移動式手術ユニットが引き出される。誘導員の発光棒だけが闇の中で動いた。
ヴェルナ海西方では、アーレイ・バーク級駆逐艦が針路を東へ変えた。SPY-1レーダーの走査は継続したまま、艦内ではトマホークの目標データを封印し、防空任務だけを開いた。
別の港では、サンダウン級掃海艇が無人機SeaFoxを積み込んだ。戦争はミサイルだけで始まらない。出港路に一個の機雷があれば、共同艦隊は写真撮影のために集まった鉄屑になる。
さらに西では、RQ-4Bグローバルホークの飛行計画が更新された。高度六万フィート。帝国領空へは入らない。合成開口レーダーと電子情報収集装置で、オストラヴ基地から北へ伸びる道路を監視する。
宣戦布告は、まだ一つも出ていなかった。
その代わり、給油予定、暗号鍵、医療搬送枠、弾薬の受領印が夜の端から増え始めた。
国家が戦争を決める前に、夜勤の整備員たちは戦争が来ることを知っていた。




