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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第三十二話 救護所の拳銃



 最初の攻撃は、空から来た。


 二度目は、空から来た攻撃に紛れて、すでに城内へ入っていた。


 報道関係者を名乗った三人は、Kh-47M2《キンジャール》が鐘楼を崩した直後、報道席から姿を消した。


 一人は映像班の腕章を巻いて救護所へ。


 一人は地下通信室へ。


 残る一人は、城外の中継車へ向かった。


 石が落ち終われば攻撃も終わる。


 城の警備が捨てきれなかった、その前提を三人は使った。


 午後一時二十二分。


 城南棟の食堂は臨時救護所になっていた。長机を寝台へ変え、軽傷者と身元確認前の避難者を一緒に収容している。


 窓は爆風で抜け、毛布と合板で塞がれていた。非常用発電機の電圧が落ちるたび、天井灯が黄色く沈む。床には消毒液、石粉、靴底で伸ばされた血が幾層にも重なっていた。


 城南側の芝地では、第88特務支援群のMH-60Sシーホークが重傷者を運び続けている。ローター音が近づくたび、合板が震え、紙のトリアージ票が寝台の脚へ逃げた。


 赤札は野戦病院へ。黄札は城内で処置。緑札は自力歩行。黒札は、白い布の向こう側。


 肩書欄はなかった。


 警備員は足りない。


 正門、外国要人、爆発物捜索、死者搬送へ分散し、救護所の入口には二人しかいなかった。


 映像班の腕章をつけた男が、担架を押して入ってきた。


 担架には黒い機材箱が二つ。箱にはテレビ局のロゴ、側面には航空輸送用の傷、取っ手には新品の結束帯。使い込まれた箱に、新しい封印だけが付いていた。


「記録映像を撮ります。救助活動の公式素材です」


「撮影は許可されていない」


「警備本部の承認番号があります」


 端末に番号が表示されている。


 実在する番号だった。


 ただし、午前中の報道受付へ割り当てられた番号で、救助班用ではなかった。


 混乱した現場で、そこまで照合する者はいなかった。


 入口の警備員は三時間で四百人以上を通していた。端末の画面には未処理の警報が十七件。無線では外国代表の搬送路と、北廊下の再崩落が同時に叫ばれている。


 男は急かさなかった。


 急ぐ者より、待てる者の方が正規職員に見えることを知っていた。


 番号は警備を突破したのではない。疲労した人間に、確認を一つ省く理由を与えた。


     *


 ペトレンコは主教との確認を終え、仕切りの内側へ戻るところだった。


 左腕は固定されている。


 歩くたび、肋骨の打撲が痛む。


 担架を押す男が視界へ入った。


 顔ではなく、手を見た。


 親指に黒い汚れがある。


 カメラ油脂ではない。拳銃を分解した後、爪の脇へ残る煤と潤滑油に見えた。


 もう一つ。


 担架の車輪が瓦礫を踏んでも、載せられた機材箱からレンズの当たる音がしない。


 代わりに聞こえたのは、重い金属が緩衝材へ沈む鈍い音だった。


 ペトレンコは歩調を落とした。


 左腕は添え木の中で脈打っている。肋骨は深く息を吸うだけで痛む。相手の右手を止めるには、自分の右手しかない。


 止められなければ、十メートル先にヴォロディミルがいる。


 考えたのは、夫を守るという言葉ではなかった。


 銃口。距離。遮蔽物。警備員の位置。周囲の酸素ボンベ。


 感情が手順へ変わる時、恐怖は消えない。ただ、後回しになる。


 ペトレンコは立ち止まった。


「その箱を開けてください」


 男も止まる。


「後で。今は撮影が先です」


「開けて」


 声の震えが消えた。


 男の右手が機材箱の脇へ落ちた。


 指が箱の留め具ではなく、上着の裾を払った。


 ペトレンコは警備員を見なかった。視線を移せば、男にも合図になる。右足を半歩だけ引き、固定された左腕を壁側へ置いた。


     *


 ヴォロディミルは十メートル先で、外国代表の搬送計画を聞いていた。


 背中を向けている。


「伏せて!」


 ペトレンコが叫ぶ。


 男は箱の二重底から拳銃を抜いた。


 Glock 17系の九ミリ拳銃だった。フレームとスライドは別ロット。照準器は削られ、製造国を示す刻印も潰されている。


 警備員より早かった。


 ペトレンコは利き腕ではない右手で男の手首へ飛びついた。銃口が上がり、最初の弾が天井へ入る。


 天井板が弾け、蛍光灯の破片が寝台へ降った。


 発砲音はローター音より鋭かった。密閉された食堂の壁を往復し、負傷者が一斉に身を縮める。点滴台が倒れ、金属管が床を跳ねた。


 男は彼女を壁へ叩きつけた。


 固定された左腕に衝撃が走り、視界が暗くなる。


 男の手首を離せば、銃口はヴォロディミルへ戻る。


 ペトレンコは握力では勝てない。右肩を男の肘の内側へ入れ、体重を落とした。関節を折るのではなく、銃身を床へ向けるだけでよい。


 二発目が床を撃つ。


 九ミリ弾は石床で潰れ、破片が寝台の脚を叩いた。看護師が酸素ボンベへ覆いかぶさり、別の衛生兵が赤札の患者を長机の陰へ引きずる。


 警備員が発砲した。


 入口にいた警備員はSIG P320を両手で構え、ペトレンコの肩越しに照準した。撃てる面積は男の胸の右半分だけだった。


 男の胸へ二発。


 一発目で男の身体が反り、二発目で力が抜けた。拳銃は握られたまま床へ落ち、三発目は出なかった。


 ペトレンコごと倒れた。


 背中へ男の体重が載る。息を吸おうとして、折れた肋骨の周囲が痙攣した。


「ナターシャ!」


 ヴォロディミルが駆け寄る。


「私は、撃たれていません」


 息が続かない。


 ヴォロディミルは男の拳銃を蹴り、彼女の頸と脇腹へ手を当てた。銃創を探す手つきだった。


「撃たれていない。左腕をまたやった」


「診断は医師に」


「いま反論できるなら、意識はあるな」


「評価方法が雑です」


 それが言えたところで、ペトレンコは咳き込んだ。痛みで声が途切れる。


「他にも、います」


「何人だ」


「この人が一人で来たとは、思えません」


 床へ転がった拳銃から硝煙が上がっていた。救護所の消毒薬の臭いへ、射撃場と同じ匂いが混じった。


     *


 同じ時刻、城西階段で警備員一名が射殺された。


 若い通信兵セルヒイが、地下通信室からその音を聞いた。


 最初は資材の落下だと思った。二発目で違うと分かった。短い反響。九ミリより軽く、連射間隔が一定。小型短機関銃だった。


 セルヒイは主通信室の防火扉を閉めた。


 扉が閉じ切る前に、階段上からMP7A1の弾列が走った。四・六ミリ弾が扉へ浅い穴を並べ、最後の一発が操作盤を抜いた。火花が散り、救助回線の一系統が雑音へ変わる。


 二人目の工作員が、地下通信室へ向かっていた。目的は大公暗殺ではなく、救助通信の遮断と爆発物の起動だった。


 彼は午前中に持ち込んだ予備電池の一つへ、小型送信機を隠していた。


 ロマネンコの指摘で二重底は開けられた。


 だが、電池そのものは分解されなかった。


 送信機は、礼拝堂へ持ち込まれた爆発物ではなく、城内に潜む三人目との中継器だった。


 通信室の壁際には、城内無線、衛星回線、消防用中継器が仮設棚へ積まれている。どれも急場で持ち込まれ、配線色もラベルも統一されていない。


 工作員が必要としたのは、全部を壊すことではなかった。


 救助隊が使う周波数へ偽の退避命令を一度流す。北棟へ向かうはずの担架を西廊下へ集める。そこへ三人目が残した爆薬を起動する。


 二十秒の混乱で、最初のミサイルより多くの指揮官を殺せる可能性があった。


 通信室前で銃撃戦が起きる。


 セルヒイは机の下からHK416A5を引き出した。通信兵へ渡された護身用の短銃身型で、射撃訓練は年二回しか受けていない。


 扉の蝶番側へ身を寄せる。銃口を先に出すな。教官の声を思い出す。


 工作員が防火扉の隙間へ手榴弾を転がそうとした。


 セルヒイは三点射した。


 最初の二発は扉枠を削り、三発目が工作員の前腕へ入った。MP7A1が床を滑る。手榴弾は安全ピンが残ったまま、階段を二段落ちて止まった。


 工作員は左手で拳銃へ移ろうとした。増援の警備員が盾で押し倒し、二人がかりで腕を背中へ回した。


 二人目は負傷して拘束された。


 セルヒイは発砲後も引き金へ指を掛けていた。警備員に肩を叩かれ、ようやく離す。銃口が床へ下がった時、自分の膝が震えていることに気づいた。


 英雄になった感覚はなかった。


 撃たれた警備員の靴が、階段の踊り場から見えていた。


 三人目は、城外の報道車両から逃走した。


 偽装に使われたMercedes-Benz Sprinterは、衛星中継車に見せるため屋根へ空のアンテナ殻を載せていた。警備封鎖が始まる三十秒前に南門を出て、二つ目の交差点で塗装の違う車両へ乗り換えた。


 追跡班のToyota Land Cruiser 200が最初の車両を見つけた時、運転席は空だった。エンジンは掛かったまま、前輪だけが縁石へ乗り上げている。


 後部ドアには細いワイヤが見えた。


 追跡班は開けなかった。EOD班が遠隔操作車で確認すると、車内には通信機材と、乗り換えに使った衣服、それから救助隊を狙った指向性爆薬が残されていた。


 逃走者は、追われた後まで誰かを殺す準備をしていた。


 だが、準備を重ねた分だけ痕跡も増えた。


 空のアンテナ殻は、三日前に城東の車体架装工場で取り付けられていた。支払いは現金。工場の監視映像から顔は取れなかったが、車高と軸重の記録が残っている。乗り換え先の車両は見えなくても、荷物を移した後のSprinterが三百八十キロ軽くなったことは分かった。


 交通管制局は、南門から七分以内に通過した車両を重量区分で絞った。


 候補は百四十七台。


 救急車両を除外し、登録番号と車体色の不一致を重ねる。


 十一台。


 そのうち一台が、南部環状道の料金所を遮断命令の四分前に抜けていた。灰色のVolvoXC90。登録上は半年前に廃車されている。


 捕まえたわけではない。


 逃げた男を、再び「一人」に戻しただけだった。


 検問所、民間空港、河川港へ車体情報が回る。公国側が攻撃の後で初めて出した能動的な命令は、爆撃ではなく、灰色の車を通すな、だった。


 追跡班が見つけたのは、捨てられた腕章と血の付いた上着だけだった。


     *


 救護所で死んだ男の所持品には、身分証が三枚あった。


 どれも精巧だった。


 拳銃の製造番号は削られ、弾薬は複数国の流通品を混ぜている。携帯端末は初期化されていた。


 Glock系拳銃のスライドは西方製、銃身は第三国製の互換品、弾倉は民間市場から流れた複製品だった。九ミリ弾は四社分が混ざり、雷管の刻印も揃っていない。


 出所を消したのではない。


 出所を増やしていた。


「帝国工作員と断定できますか」


 警備責任者が尋ねる。


 イリーナは端末の通信履歴を見た。


「現時点では、帝国側と推定。断定はできません」


「ミサイル攻撃と同時なら、十分でしょう」


「同時だからこそ、別組織が便乗した可能性もあります」


「では何を調べる」


「削除された鍵交換記録、基地局接続、撮影機材の購入経路。顔や言語ではなく、準備に使ったものを追います」


 イリーナは死亡した男の携帯端末を電波遮蔽袋へ戻した。


「それと、三人が同時に時計を合わせた基準信号。送信内容が消えても、時刻補正までは完全には消えません」


「量子暗号で何とかならないのか」


 警備責任者が言う。


「犯人が量子暗号を使ったという証拠はありません。万能語として使用しないでください」


 隣でソフィアが頷いた。


「今日は彼女に言われる前に訂正しましたね」


「成長しています」


「自己評価は保留します」


 ペトレンコは鎮痛剤を入れられ、寝台へ戻された。


 軍医は左腕の固定を外し、再び画像を撮る必要があると告げた。


「六週間が延びますか」


「今それを心配しますか」


「予定表へ影響します」


「あなたの予定表は、先ほど拳銃を持った男に撃たれました」


「命中していません」


「残念ながら、壁は命中判定へ異議を申し立てません」


「三人倒した花嫁、という映像はありませんね」


 ソフィアが言った。


「一人を止めて、警備員に撃たせただけです」


「十分です」


「三人目を逃がしました」


「だから次の仕事があります」


 英雄譚にするには、一人逃げていた。


 捜査記録としては、その方が正しかった。


     *


 夕方、救護所の床から四発の弾頭が回収された。


 一発は天井裏。一発は石床で砕け、最後の二発は死亡した工作員の防弾衣と身体から取り出された。


 警備員のSIG P320は証拠袋へ入り、本人は別室で事情聴取を受けた。大公妃を巻き込んで撃った判断が適切だったか。二発目は必要だったか。背後の患者へ危険はなかったか。


 彼はペトレンコを救った。


 だから検証を免除されるわけではなかった。


 ヴォロディミルは事情聴取室の前で立ち止まった。


「勲章より先に聴取か」


「順番が逆なら、証言が勲章に合わせて変わります」


 ソフィアが答えた。


「嫌な制度だ」


「信用できる制度です」


 救護所の奥で、ペトレンコは眠っていた。動く右手だけが毛布の外へ出ている。


 ヴォロディミルはその手を握ろうとして、やめた。


 起こせば怒られる。


 夫婦になって一日で、暗殺者より軍医の方が怖いという知識だけは確定していた。


 ペトレンコは眠りに落ちる直前まで、男の親指ではなく、見落とした二人の手を考えていた。


 ただし今度は、見落とした手が次に触れる物まで考えた。


 燃料。通信端末。国境を越える書類。


 逃げるには、世界のどこかへ痕跡を渡さなければならない。


 受けた攻撃を数える時間は終わっていない。


 それでも、相手の残した順番を逆に辿る仕事は始まっていた。

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