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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第三十一話 三周目のあと



「一、二、三」


 崩れた梁が、十センチだけ持ち上がった。


 その下から引き出された男は、もう呼吸していなかった。


 ヴォロディミルは梁を下ろし、次の声を探した。


 泣き声。咳。助けを呼ぶ声。名前を呼び続ける声。


 礼拝堂は静かではなかった。大勢の人間が生き残ろうとする音で満ちていた。


「祭壇側に一人! まだ息があります!」


 瓦礫の向こうから警備員が叫んだ。


 ヴォロディミルは石材を跨いだ。額の傷から流れた血が右目へ入り、視界の半分を赤くする。袖で拭うと、今度は石粉が貼りついた。


 祭壇の北側で、ミハイロ・シェフチェンコ司祭が倒れていた。


 白い祭服は灰色になり、腰から下が崩れた壁に挟まれている。胸だけが、浅く上下していた。


「衛生兵!」


「呼ばなくて、よい」


 司祭の声は、崩れかけた天井より小さかった。


「喋るな。いまどける」


 ヴォロディミルが石へ手を掛ける。


「どければ……私は、先に行きます」


「どかさなくても行かせる気はない」


 言葉だけなら、死を命令違反にできる。


 王になってから、命令で動かせるものは増えた。時間と血液だけは、いまだに従わなかった。


 衛生兵が滑り込んできた。頸動脈を確認し、瞳孔へ灯りを当てる。骨盤周辺の瓦礫を見たあと、ヴォロディミルを一度だけ見上げた。


 助けられない時の目だった。


「鎮痛剤を」


 衛生兵は救命処置を始めなかった。


 手を動かさない判断にも技術が要る。その技術を持つ者ほど、何もしなかった時間を長く覚えている。


「他へ行け」


 ヴォロディミルは言った。


「ここには俺がいる」


 衛生兵は薬剤を投与し、司祭の肩へ毛布を掛けた。敬礼せず、次の負傷者へ走った。


 司祭は呼吸を整えようとした。整わなかった。


「妃殿下は」


「生きている。俺より働いている」


「それは……よい」


「よくない。医者の命令を聞かない者が二人になった」


 司祭の口元が、ほんの少し動いた。


 笑ったのか、痛みに耐えたのか、ヴォロディミルには判別できなかった。


    *


 ペトレンコは、祭壇まで十二メートルの場所で止められた。


「左腕を固定します」


「動きます」


「動くことと、使ってよいことは別です」


 軍医は妙に丁寧だった。


 限界まで怒った自分と同じ話し方だ、とペトレンコは思った。


「三分でお願いします」


「五分です」


「四分」


「治療は競売ではありません」


 添え木が当てられ、包帯が巻かれる。骨折の可能性。肋骨打撲。頬の裂傷。歩行は可能。ただし走るな。


 軍医が読み上げた制限を、ペトレンコは頭の中で任務条件へ置き換えた。


 左腕を使わない。


 重量物を持たない。


 息切れが増したら停止。


 感情は処理できなくても、制限なら守れる。


「夫を探しに行きます」


 その単語が口から出たあとで、ペトレンコは止まった。


 夫なのか。


 指輪は交わした。冠も受けた。共杯から飲み、福音書台の周囲を三周した。だが最後の祈りは、着弾で消えた。


 式の成立を考えるのは不謹慎に思えた。


 不謹慎だから考えずに済むわけではない。法務局も教会も、今日中に答えを求める。


「大公殿下なら祭壇側です」


 軍医が言った。


「あと、夫かどうかは私の診療範囲外です」


「助かります。診断書へ書かれたら困ります」


 軍医は初めて顔を上げた。


「冗談が言えるなら歩けますね」


「いまのは事務上の懸念です」


「もっと悪い」


 ペトレンコは立ち上がった。笑ってはいない。それでも、着弾してから初めて、呼吸が一度だけ深く入った。


    *


「式は」


 ミハイロ司祭が尋ねた。


 ヴォロディミルは、祭壇の脇を見た。


 二つの冠が離れた場所へ転がっている。一つは輪が歪み、もう一つは上部の十字架が折れていた。共杯は砕け、赤葡萄酒と血の区別がつかない染みを床へ残している。


「三周目までは歩いた」


「二人で」


「途中からは、全員で瓦礫の下へ転がった」


「四周目は……式次第に、ありません」


 司祭は途切れながら答えた。


 こんな時まで訂正するのか、とヴォロディミルは思った。


 だからこの男へ婚礼を任せた。


「指輪を交わした」


 一息。


「冠を受けた」


 さらに一息。


「同じ杯から飲み……三度、歩いた」


 司祭の右手が、祝福の形を作ろうとした。指先が途中で止まる。


「婚配の務めは……行われました」


「あなたが認めるからか」


 ヴォロディミルが尋ねる。


 瀕死の司祭が最後の権威で二人を夫婦にした、という物語は美しい。


 美しい物語ほど、後から法と記録を食い潰すことがある。


 司祭は首を振ろうとした。


「私が……作るのではない」


 息を吸うたび、胸の奥で濁った音がした。


「私は、証人です」


 ヴォロディミルは黙って聞いた。


「主教へ……記録を。ほかの司祭も、見ている」


「分かった」


「二人で……残りを歩きなさい」


「残りが八百日ほどある」


「長い……婚配です」


 今度は、司祭が笑ったと分かった。


 その呼吸が戻ることはなかった。


 ヴォロディミルは頸へ指を当てた。脈を探す場所は正しい。何度探しても、結果は変わらなかった。


 王の指は、死者を臣下へ戻せない。


「ミハイロ司祭、死亡確認。時刻――」


 警備員が時計を見た。


「十一時二十七分」


 時刻が記録された。


 一人の最期が、報告書で一行になる準備を始めた。


    *


 ペトレンコが着いた時、ヴォロディミルは司祭の目を閉じたところだった。


 彼女は何があったか尋ねなかった。


 毛布の掛け方と、周囲の人間の視線で分かった。


 司祭の傍らへ膝をつこうとすると、固定した左腕が石へ触れた。息が止まる。


「座れ」


 ヴォロディミルが言った。


「陛下もです」


「俺は座っている」


「倒れた柱に寄りかかっているだけです」


「玉座より頑丈だ」


「いま比較対象が低すぎます」


 ペトレンコは動く右手で、彼の額の包帯を押さえた。すでに血が滲んでいる。


「医官へ戻ってください」


「その命令は誰の権限だ」


「海軍中佐として」


「陸上で大公を指揮できるのか」


「では、妻として」


 二人とも、そこで止まった。


 夫婦かどうかを確認しに来たのに、先にその権限を使ってしまった。


 ペトレンコは視線を逸らさなかった。


「暫定です」


「便利な婚姻だな」


「正式確認後も、命令内容は変わりません」


「結婚して最初に従う命令が、医者へ戻れ、か」


「いいえ」


「違うのか」


「最初は、黙っていてください、です」


 ヴォロディミルは口を閉じた。


 三秒後、ペトレンコが言う。


「よくできました」


「離婚事由を一つ覚えた」


「教会法務へ聞いておきます」


 軽口は、司祭の死を軽くしなかった。


 二人がその場で崩れないため、悲しみの置き場所を数秒だけずらした。


 ペトレンコは司祭の手元へ視線を戻した。


「最後に、何と」


「残りを二人で歩け、と」


「長そうですね」


「八百日ほどだと言った」


「勝手に期限を決めないでください」


「そこを怒るのか」


 彼女は返事をしなかった。


 司祭の祭服を整え、毛布の端から出ていた右手を内側へ戻した。


    *


 十一時四十二分。


 第88特務支援群のMH-60Sシーホークが、城南側の芝地へ一機ずつ進入した。


 先頭機は機首を風上へ向け、瓦礫のない区画へ主脚から接地する。ローターの吹き下ろしが芝を寝かせ、礼拝堂から漏れた石粉を白い壁のように押し戻した。担架班は身を低くして近づき、重傷者を機内の簡易架台へ固定する。


 エンジンは止めない。二分で積み、離陸し、北側の野戦病院へ運ぶ。機体名を知る者には救難ヘリだった。担架の上にいる者にとっては、床が震え、風が痛み、次の治療場所まで運ぶ箱にすぎなかった。


 シェレメートは礼拝堂南口の石段へ座らされていた。


 右のこめかみに包帯。左足首は捻挫。背中には石材が当たった跡があり、深く息を吸うと痛む。


「最低でも三十分は動かないでください」


 衛生兵が言った。


「地面のほうから座ってきたんだけど〜」


「では、そのまま地面と仲良くしていてください」


「今日の衛生兵、みんな口が悪いね〜」


「患者が命令を聞かないので」


「軍隊みたい〜」


「軍隊です」


 衛生兵は次の負傷者へ移った。


 シェレメートは笑いかけ、咳でやめた。


 軽口を一つ言うたび、肺が動く。痛みが増えなければ、まだ働ける。自分の身体を点検するには、もう少し上品な方法もあるのだろうが、覚える気はなかった。


 携帯無線機を拾う。


「折り鶴一より空中管制〜。二次攻撃は〜?」


『北東方面にMiG-31K二、Su-35S四。発射母機は離脱中。F-2A近衛隊が追尾を継続しています』


「追いすぎないで〜。城の上を空けたら、次はお葬式まで狙われるよ〜」


『元帥は負傷者と聞いています』


「軽傷って便利だね〜。働けるし、お医者さんは怒れる〜」


『指揮権を代理へ移しますか』


 シェレメートは上空を見た。


 雲の切れ間に、F-2A二機の飛行機雲が伸びている。発射母機を追えば、撃墜できるかもしれない。追わなければ、敵は帰る。


 怒りは追撃を命じたがった。


 城の周囲には救急車が集まり、道路は負傷者と車両で詰まり始めている。もう一発来れば、最初の攻撃より多く死ぬ。


「移さない〜。でも追撃判断はザハルチェンコ元帥に預ける〜。私は城上空の穴だけ見る〜」


『了解』


 自分で全部握れば安心できる。


 安心のために仕事を抱える指揮官は、部下から仕事を奪い、最後には判断時間まで奪う。


 シェレメートは戦術表示を縮小し、首都上空だけを残した。


 担架が一つ、石段の下を通った。


 白い布から、見覚えのある靴が出ている。礼拝堂の入口で席順を案内していた若い儀典官のものだった。開式前、シェレメートの階級章を見て、三度も座席を確認した男だ。


 軽口が止まった。


 無線の送信キーから指を離し、担架が角を曲がるまで見送った。


 笑えなくなった時に、無理に笑う必要はない。


 黙ったまま次の仕事へ戻れる程度には、彼女も戦争へ慣れていた。


「折り鶴一より全機〜。城を中心に半径百二十を再走査〜。低高度目標と、味方識別の出ない機体を優先〜」


 声はいつもの調子へ戻っていた。


 儀典官の名前は知らない。


 あとで死亡者名簿を確認する項目が、一つ増えた。


    *


 正午前、ソフィアは城南棟の臨時指揮所へ入った。


 食堂の片隅に通信卓が三つ置かれ、厨房の献立表へ被害状況図が貼られている。本日の料理名の上を、火災区画を示す赤線が通っていた。


 祝宴用の食材は救護所へ回された。冷蔵庫だけが、予定どおり稼働している。


「現在確認済み、死亡四十七。重傷六十三。軽傷は集計不能」


 警備責任者が報告した。


「死亡者名は」


「外国代表を含め、照合中です」


「公表しないでください。家族通知が先です」


「すでに報道が推定名簿を流しています」


「報道が間違える自由と、政府が間違える権限は別です」


 ソフィアは受信記録を四列へ分けた。


 発射母機の航跡。


 A-50Uと地上レーダーの時刻差。


 弾体残骸の回収位置。


 着弾前後の城内通信。


 怒りを消したわけではない。


 怒りのまま帝国の名を書けば、その一行が後の調査を従わせる。だから先に、事実が並ぶ欄を作った。


「広報局から、声明案です」


 補佐官が端末を差し出した。


 見出しは『血の婚礼』。


 本文には、帝国による卑劣な無差別攻撃、神聖な誓い、世界への宣戦布告という語が並んでいた。


 ソフィアは見出しを削除した。


「映像だけで十分に血まみれです。形容詞を足す必要はありません」


「世論へ訴えるには、強い言葉が」


「死亡者数も確定していません。発射主体の技術評価も途中です」


「帝国以外に誰が撃つのです」


「その質問へ、いま答える部署ではありません」


 補佐官は黙った。


 ソフィアは声明案を五行へ縮めた。


 キミロフ城で爆発。


 多数の死傷者。


 救助継続中。


 飛翔体の種類と発射経路を調査中。


 死亡者名は家族通知後に公表。


「弱すぎる、と言われます」


「事実は補強材を必要としません」


 言い切ったあと、ソフィアは厨房の隅に置かれた二つの皿を見た。


 祝宴用の料理が、手を付けられないまま冷えている。


 感情を手順へ変えられる間は、まだ働ける。


 変換できなかった部分は、あとで引き受けるしかなかった。


    *


 十二時十八分、礼拝堂から二つの冠が回収された。


 ペトレンコは救護所の仕切りの内側で、回収記録を確認した。


 一つは輪が歪み、もう一つは十字架が折れている。回収班は洗浄して教会へ戻す予定だと書いていた。


「洗浄しないでください」


 ペトレンコは記録を差し戻した。


「記念品にするのでは?」


「着弾位置、破片方向、付着物を調べます。礼拝堂全体が現場です」


「婚礼の冠ですよ」


「だから爆発物を除外できる、と?」


 担当官は口を閉じた。


「別々の証拠袋へ。回収座標と撮影者を記録。教会の所有物ですから、保管承認も取ってください」


「大公妃殿下の指示として?」


 その呼称が、ペトレンコの耳へ一拍遅れて届いた。


「まだ確定していません」


「では、海軍中佐として」


「海軍に城内捜査権はありません」


「どの肩書で記録すれば」


 担当官は本気で困っていた。


 爆発で礼拝堂が消えても、書類の肩書欄は生き残る。


「当事者による保全要請、と書いてください。捜査責任者の承認待ち」


「分かりました。当事者殿」


 妙な敬称になった。


 訂正する体力は残っていなかった。


    *


 午後一時。


 公国正教会の主教と、教会法務を担当する司祭が臨時救護所へ来た。


 主教の祭服にも石粉が付いている。別の負傷者へ祈祷を行い、そのまま来たらしい。


 ヴォロディミルの額には縫合痕があり、ペトレンコの左腕は固定されていた。二人とも寝台へ座らされている。


「婚配の扱いを確認したい」


 ヴォロディミルが言った。


「ミハイロ司祭は、必要な務めが行われたと証言した」


「参列していた二名の司祭からも聴取しました」


 主教は記録用紙を開いた。


「指輪の交換、戴冠、福音書朗読、共杯、三周の行列まで確認しています。終結の祝福と冠を外す祈りは中断されました」


 ペトレンコは右手の指輪を見た。


 石粉が細い傷へ入り込み、金属の縁が灰色になっている。


「中断された部分は」


「後日、追補の祈りを行います」


 主教は答えた。


「しかし、行われた婚配を無かったものとは扱いません。教会法上、二人の婚配は成されたものとして記録します」


「ミハイロ司祭の最後の言葉があったからですか」


 ペトレンコが尋ねる。


「いいえ。あの方は婚配を作ったのではなく、自ら執り行った事実を証言しました。ほかの司祭、参列者、映像記録もあります」


 美談一つで法を曲げたのではない。


 ペトレンコは、その答えでようやく息を吐いた。


「では、私たちは」


「夫婦です」


 主教は短く答えた。


 爆発音も音楽もなかった。


 食堂を区切った白い布の向こうで、負傷者が咳をしている。医療器具の車輪が床を鳴らし、消毒薬と煙の臭いが混じっていた。


 その場所で、二人の婚姻が確認された。


 ヴォロディミルはペトレンコを見た。


「改めて、よろしく」


「こちらこそ」


 彼女は軍務上の挨拶と同じ調子で答えた。


「もう少し新婚らしい言い方はないのか」


「着替えと鎮痛剤が支給されれば検討します」


「物資不足は深刻だな」


 主教が咳払いした。


「夫婦として最初の務めは、互いを安静にさせることでしょう」


「では、この人を寝かせてください」


 二人が同時に言った。


 主教は二人を見比べた。


「教会法の範囲を超えています」


 そばにいた軍医が、初めて笑いそうな顔をした。


 誰も笑わなかった。


 それでも数秒だけ、救護所の空気から着弾音が遠ざかった。


    *


 確認書への署名は、十三時十七分に終わった。


 ヴォロディミルの署名は、利き手の震えで最後の一画が歪んだ。


 ペトレンコはそれを見ても、何も言わなかった。自分の署名も、固定された左腕を庇ったため右上がりになっている。


 二枚の署名は、揃わなかった。


 婚姻記録としては問題ない、と法務司祭が確認した。


「現住所は、キミロフ城でよろしいですか」


 記録官が尋ねた。


 白布の向こうから、城北棟の追加崩落が報告された。


「現存していますか」


 ペトレンコが聞く。


「住所としては」


「建物としては?」


 記録官は答えなかった。


「仮設司令部気付、としておけ」


 ヴォロディミルが言った。


「結婚すると住所が一つになると聞いていたが、俺たちは先に家を失ったらしい」


「陛下には、もともと帰宅する習慣がありません」


「結婚初日から生活態度を攻撃するな」


「事実確認です」


 記録官は顔を上げず、住所欄へ仮設司令部と書いた。


 三周目のあとに始まった二人の生活は、祝宴でも寝室でもなく、死者名簿と証拠袋と、行き先を失った住所欄から始まった。


 十三時二十分。


 ヴォロディミルは軍医二人に挟まれ、隣の処置室へ連れていかれた。


 ペトレンコはその背中を見送り、自分の寝台がある仕切りの内側へ戻ろうとした。


 夫婦として最初の別行動は、二メートル先の別々の診察台だった。

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