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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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閑話 僚機という職業



 ※本稿は、戦後に公開されたキミロフ大公国空軍の交戦記録、管制音声および人事査定資料をもとに再構成した戦史資料である。一部の時刻、部隊名および個人情報は、公開時に省略されている。


概要


 ソーコルは、建国戦争初期にシェレメートと編隊を組んだ戦闘機操縦士である。


 撃墜王ではない。


 少なくとも、公国空軍が後年定めた公式撃墜記録だけを読めば、彼より多くの敵機を落とした操縦士は何人もいた。戦意高揚の新聞記事に顔が載ることも少なく、本人が戦果を語った記録はさらに少ない。


 ところが、初期の主要作戦記録から彼の名を消すことはできない。


 皇太子亡命機の護衛。首都喪失後の迎撃。半島上空の防空戦。海軍基地への帰還支援。臨時政府上空の戦闘空中哨戒。


 そこには決まって、シェレメートの声と、ソーコルの短い返答が残っている。


 彼の仕事は、敵機を落とすことではなかった。


 落としてはならないものを、落とさないことだった。


一 編隊は二機で一機である


 戦闘機の二機編隊では、一番機が主人公で、二番機がその後ろを飛ぶわけではない。


 一番機が敵を追う間、二番機は周囲を見る。一番機が射撃位置を取る間、二番機は別の敵が近づいていないかを確かめる。二番機が攻撃を受ければ、一番機が役割を交代する。


 どちらか一方だけが空を見ていれば、見ていない方向から死ぬ。


 公国空軍の初期教範は、編隊長と僚機の関係を「命令者と追随者」と説明していた。しかし、実戦部隊が書き足した注釈には、別の表現がある。


 ――編隊とは、互いの見えない場所を預け合う契約である。


 シェレメートは敵機を見つけるのが早く、攻撃へ移る決断も早かった。一方で、彼女の無線は長かった。敵の位置、雲の形、燃料への不満、整備班への伝言、いま思いついた冗談が、同じ調子で周波数へ流れた。


 ソーコルの無線は短かった。


『ジュラーヴリク、右後方。二機』


『見えてるよ〜』


『なら避けてください』


『もう避けてる〜』


『もっと』


 この交信の九秒後、シェレメート機のいた空間を中距離空対空ミサイルが通過した。


 戦闘報告書では、「二番機の警告により回避」と一行で処理されている。


 撃墜記録には、何も加算されなかった。


二 撃たないために撃つ


 ソーコルの射撃記録には、命中を目的としない発射が多い。


 敵機へ回避運動を強いる。照準を中断させる。輸送機から引き離す。味方機が着陸するまで、接近経路を塞ぐ。


 空対空ミサイルは高価であり、携行できる数も少ない。命中しない射撃は、平時の訓練なら失敗と評価される。


 実戦では、事情が違った。


 敵機がミサイル警報を受ければ、速度と高度を使って回避する。攻撃のために整えた位置を捨て、レーダー照射への対処を迫られる。数十秒であっても、その間は別の目標を撃ちにくい。


 敵機を一機落とすことと、味方の輸送機を一機帰すことは、同じ計算ではない。


 公国には戦闘機より輸送機が少なく、輸送機より熟練した搭乗員が少なかった。補充の利かない機体を守るためなら、命中しない一発にも意味があった。


 半島上空の交戦後、整備将校はソーコルへ尋ねている。


『命中の見込みが低いと分かっていて撃ったのか』


『はい』


『撃墜できないぞ』


『着陸させるのが任務でした』


 実際、その日帰還した機体の一覧には、彼の名はない。


 操縦士の一覧に、帰還を支援した者の欄がなかったためである。


三 十二年前の記録


 ソーコルの人事記録には、軍歴の始点より古い保護記録が添付されている。


 記録された面談は短い。


『死にたいのか』


『分かりません』


『分からない者に、自分の死に方を決める資格はない』


『では、どうすればいい』


『死にたいなら、俺のために死ね』


 面談者は、当時まだ大公位に就いていなかったヴォロディミルである。


 この言葉は後年、忠誠を求めるための美談として引用された。しかし、原記録の続きを読めば印象は変わる。


 ヴォロディミルは青年へ武器を渡さず、食事と寝床を与えた。軍へ入れるまでに時間を置き、飛行訓練を受けさせ、何度も適性審査をやり直させた。


 青年も、命令された日に死ななかった。


 翌日にも、その翌年にも死ななかった。


 十二年後、彼は大公の最も近くを飛ぶ操縦士になっていた。


 人事担当者は、ソーコルの忠誠心を「極めて高い」と評価する一方、次の注意書きを残している。


 ――命令へ盲従する人物ではない。命令の目的を理解した後、その目的を達成するために自分を消耗品として扱う傾向がある。


 危険なのは、死を恐れないことではない。


 自分が生き残ることを、任務の成功条件へ入れ忘れることだった。


四 騒音と沈黙


 シェレメートとソーコルは、性格が似ていたから長く編隊を組めたのではない。


 違いすぎたから、互いの不足が目立った。


 シェレメートは、味方が沈黙すると喋った。緊張している整備員へ冗談を飛ばし、失敗した新人へ次の仕事を押しつけ、恐怖を考える暇がないほど無線を賑やかにした。


 ソーコルは、味方が騒ぐほど静かになった。必要な情報を拾い、重複した報告を捨て、次に誰が何をするかだけを言葉にした。


 ある待機任務中、シェレメートは尋ねている。


『ねえソーコル。私、喋りすぎかな〜?』


『はい』


『そこは否定するところじゃない〜?』


『質問への回答です』


『私が傷ついたらどうするの〜』


『帰投後に処置します』


『心の傷なんだけど〜』


 交信記録には、七秒の空白がある。


『それは担当外です』


『ひどくない〜?』


 地上の管制員が笑い、直後に敵味方不明機の接近を報告した。二人の声は同時に変わった。


『ジュラーヴリク、左へ。高度を取る』


『了解〜』


 冗談は恐怖を消さない。


 ただ、恐怖が操縦桿を握るまでの時間を遅らせることはできる。


 彼女が作った時間を、彼が手順へ変えた。


五 戦果欄にない数字


 建国戦争初期、公国空軍は撃墜数を正確に把握できなかった。


 複数機が同じ敵機へ射撃し、レーダー網は頻繁に途切れ、墜落地点の多くは敵支配地域にあった。操縦士の自己申告だけで撃墜を認定すれば、同じ機体が二度、三度と数えられる。


 このため、ソーコルの初期査定では撃墜数より別の項目が重視された。


 護衛対象の生存。


 編隊の帰還。


 燃料切れによる喪失の回避。


 命令変更後の再配置時間。


 新人機を連れ帰った回数。


 いずれも新聞の見出しにはなりにくい。


 敵機を追えば撃墜できた可能性がある場面で、彼は追わなかった。戦果確認のために低空へ降りず、損傷した僚機の横へ付いた。管制網が途切れると、自機のレーダー情報を短い言葉へ変え、まだ受信できる者へ渡した。


 人事査定資料には、同じ評価が繰り返し現れる。


 ――目標を達成し、編隊を帰還させた。


 華やかな文章ではない。


 華やかに書く必要がないほど、空軍が欲しがった結果だった。


六 剣の使い方


 ソーコルは自分を、大公の剣だと考えていた。


 剣は命令を選ばず、振るわれれば壊れるまで働く。その自己認識は、十二年前からほとんど変わっていない。


 しかし実際の彼は、剣というより鞘に近かった。


 シェレメートが敵へ届くまで、その無防備な側を覆った。新人が力を制御できるまで、隣を飛んだ。大公が戦場へ出れば帰路を残し、帰れと命じられれば最後まで空に残った。


 本人だけが、その仕事を英雄的だとは考えなかった。


 ある作戦後、シェレメートは撃墜記録の増えなかった彼へ言った。


『今日、何もしてない顔してるね〜』


『命令されたことはしました』


『私を帰したじゃん』


『任務です』


『じゃあ、次もお願いね〜』


『了解』


 戦史資料では、戦争を動かした命令が太字で記録される。


 攻撃せよ。


 奪還せよ。


 死守せよ。


 だが、命令を出した者が次の日にも命令を出せたのは、誰かがその者を帰したからである。


 敵を落とした者には、撃墜章が与えられた。


 味方を落とさなかった者には、次の任務が与えられた。


 ソーコルは、それで十分だと考えていた。

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