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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第三十話 十七秒



 警報から着弾まで、十七秒だった。

 後の記録では、そうなっている。


 回収された外板片と誘導部の残骸は、飛翔体をKh-47M2《キンジャール》と同定した。だが、礼拝堂にいた者がその名を知るのは数日後だった。十七秒の中では、それはただ、空から来るものだった。


 礼拝堂の中にいた者にとって、十七秒は同じ長さではなかった。


 最初の数秒を警報だと理解できなかった者。


 出口までの距離を測った者。


 隣の子供を抱えた者。


 何もできず、音のする天井を見た者。


 時計は全員へ同じ十七秒を与えた。


 使い方までは教えなかった。


「床へ!」


 誰かが叫ぶ。


 四百人が同時には動けない。


 訓練では区画ごとに伏せることになっていた。現実には、最初に立った者の背中を、後ろの者が出口だと思った。


 ヴォロディミルはペトレンコの肩を抱き、祭壇脇の石柱へ押した。二人の右手は、婚配の布で結ばれたままだった。

 布を解く時間はある。


 解けば、ペトレンコを先に伏せさせ、自分は反対側へ動ける。


 だが人の流れに引かれれば、互いの位置を失う。


 ヴォロディミルは結び目を残した。


「柱の内側へ」


「参列席が」


「警備が動かす。いまは伏せろ」


 命令口調になった。


 夫として正しい言葉は分からない。最高指揮官の声なら、身体が先に出る。


 ペトレンコは反論せず、石床へ膝をついた。


 司祭は福音書を胸へ抱えた。

 ミハイロ司祭は祭壇側へ下がらなかった。


 最前列には杖を使う老人と、車椅子のコヴァリョフがいる。避難列が動けば、先に取り残される。


「押さないでください。南側から順に」


 司祭の声は警報に負けた。


 それでも、近くの者は動きを止めた。


 七十八歳の老人が逃げないという事実が、命令より強く働いた。


 九秒。

 ヴォロディミルは上空の情報を持っていない。


 目標速度も、迎撃成否も、予測落下域も分からない。


 国家元首であっても、いま知っているのは警報音と石柱の位置だけだった。


 情報がなければ、最悪を仮定する。


 直撃。


 北壁崩落。


 二次火災。


 自分が死んだ場合の指揮継承は、書類どおり動くはずだ。


 その確認を今ここでできないことが、妙に気になった。


 礼拝堂の扉へ人が集中する。


 警備員は扉を開け、別の警備員は閉じようとした。外へ出せばよいのか、内側に伏せさせるべきか、命令が割れた。

「閉じるな!」


 警備責任者が叫んだ。


「外へ走らせるな、扉は退避路として保持!」


 開くことと、出すことは違う。


 人の流れを止めながら出口を確保する。訓練ではできた。実際には、後列から押される力が前列へ伝わり、椅子が倒れ、通路を狭める。


 警備員二人が身体で流れを分けた。


 誰かが転び、別の誰かが引き上げる。


 六秒の間に、計画書の矢印は人間の肩と背中へ変わった。


 六秒。


 城外でパーンツィリS1の二連装30ミリ機関砲が空へ火線を伸ばす。


 毎分数千発の曳光弾が、夕立を逆向きにしたような光の柱を作った。砲口衝撃が礼拝堂の石壁を通り、低い連打となって腹へ響く。


 S-300V4中隊は高速目標へ追尾を試みる。目標記号は跳び、速度推定が更新のたびに変わる。


「射撃解、不安定」


「近接信管で撃て。直撃を待つな」


 二発の9M83M迎撃弾が上がった。


 発射筒から噴き出した炎が地面の砂利を円形に吹き払い、履帯車の輪郭を土煙へ消す。二本の弾体は垂直に昇り、ほとんど直角に近い転針で高速目標へ首を向けた。


 一発目は目標後方で炸裂。


 二発目は表示上で重なり、次の瞬間、目標記号が二つに分かれた。


 迎撃成功か、弾頭と破片の分離か。


 判定する前に、残った記号が降下を続ける。


 弾道を変え続ける飛翔体へ、射撃解は安定しない。


 三秒。


 天井のシャンデリアが、空気の圧力で揺れた。


 零。

 ヴォロディミルはペトレンコの頭を胸元へ引いた。


 守れると思ったわけではない。


 石と爆薬の前では、人の身体一つに意味はない。


 それでも、何もしない姿勢だけは選べなかった。


 光が来た。


 窓の色ガラスも、蝋燭も、警報灯も、一瞬だけ同じ白になった。


 音はその後だった。


    *


 飛翔体は大礼拝堂の真上には落ちなかった。


 終末段階で迎撃弾の破片を受けたのか、もともとの誘導誤差だったのかは分からない。


 弾頭は礼拝堂北側の鐘楼基部へ入った。

 高速で飛来した弾頭は、鐘楼の外壁を紙のように打ち抜いた。接触部の石材は砕けるより先に粉へ変わり、弾頭は基部内部で炸裂した。


 直撃地点から礼拝堂中央までは数十メートル。


 安全距離ではない。


 破壊の向きが変わっただけだった。


 鐘楼の重量が爆風で持ち上がり、礎石が数センチ浮いた。鉄製の鐘が支持梁から外れ、回転しながら内壁を殴る。支えを失った石材は一度外側へ開き、重力に引き戻されて礼拝堂側へ傾いた。


 石造の塔が内側から膨らみ、崩れた。


 爆風が側廊を貫く。


 扉は蝶番ごと飛び、椅子は床を滑って人の脚を払った。色ガラスは粒のまま横殴りに走り、祭服と制服へ細い切り傷を刻む。鼓膜より先に胸郭が押され、息を吐く暇もなく肺が潰された。


 北壁が礼拝堂へ倒れ、天井の梁を引き落とした。


 音は一度ではなかった。


 最初の爆発。


 石材が落ちる連続音。


 割れた窓から入る衝撃波。


 城内の燃料配管が破れた二次爆発。


 床が波のように持ち上がり、ヴォロディミルの膝が石から離れた。次の瞬間、肩と側頭部が石柱へ叩きつけられた。

 肺の空気が一度に抜けた。


 右手が強く引かれる。布で結ばれたペトレンコの身体が反対側へ投げ出されている。


 ヴォロディミルは結び目を掴んだ。


 肩に痛みが走り、指が開きそうになる。


 離せば彼女が瓦礫の側へ流れる。


 握る。


 梁の化粧板が裂け、拳ほどの石が雨のように降った。次の石材が落ち、視界が消えた。


 視界が白くなる。


 礼拝堂の時計は衝撃で止まった。後の調査で正確な着弾時刻を示したのは、城外の監視カメラだった。

 時計の針は十一時二十七分十四秒を示していた。


 文字盤のガラスは割れ、秒針だけが半周して床へ落ちた。


 婚配の儀礼が成立したか。


 警備判断は遅かったか。


 迎撃弾は軌道へ影響したか。


 それらが争われる時、証拠になるのは祈りではなく、壊れた時計と映像の時刻だった。


    *


 次に聞こえたのは、自分の呼吸だった。

 吸うたび、胸の奥で砂が鳴るように感じた。


 実際に砂が入っているのか、耳鳴りのせいか分からない。


 ヴォロディミルは指を順番に動かした。


 右手。動く。


 左手。感覚が鈍い。


 脚。両方動く。


 首。痛むが回る。


 感情を確認する前に、身体を手順で点検する。ソフィアならもっと正確にやるだろうと思い、その考えが出る程度には意識があると判断した。


 片耳が聞こえない。


 口の中に砂と血の味がする。


「ナターシャ」


 声が出たか分からない。


 右手を動かす。


 布が引かれ、その先で何かが動いた。


「……ここに、います」


 ペトレンコの声だった。


 冠は外れ、床へ転がっている。ドレスの左肩が裂け、額から血が流れていた。


「脚は」


「動きます。左腕が、痛いです」


「立つな。骨折かもしれない」


「陛下の頭も血が出ています」


「見えないから、問題ない」

 冗談のつもりだった。


 声が掠れ、冗談には聞こえなかった。


 ペトレンコは動く右手で彼の頭へ触れ、出血箇所を探した。


「側頭部。深さは分かりません。瞳孔を見ます」


「医務教育まで受けたのか」


「艦内救護です。喋らないで」


 命令され、ヴォロディミルは口を閉じた。


 結婚して最初に従った命令が、黙れ、だった。


 状況が違えば笑えたかもしれない。


「そういう問題では」


 言葉の途中で咳き込む。


 二人の周囲に、礼拝堂の半分が崩れていた。

 空気は石灰の粉で白い。


 数メートル先さえ輪郭しか見えない。灯火は消え、非常灯の赤だけが煙の中に浮く。


「火災は」


「臭いがあります。北側」


「司祭は」


 返事がない。


 ヴォロディミルは立とうとし、ペトレンコに肩を押さえられた。


「十秒待ってください。落下音が続いています」


 天井から細かな石が降る。


 十秒。


 警報の十七秒より短いのに、動かず待つ方が長く感じられた。


 参列席の北側は瓦礫で埋まり、南側では負傷者が動き始める。叫ぶ者、名前を呼ぶ者、何も言わず石をどける者。


 火災報知器は鳴っていた。


 散水管から水は出なかった。

 配管の中で空気だけが鳴った。


 十五日前、送水圧を城の高所まで戻すか、病院と住宅区を優先するかという会議があった。


 城は後回しにした。


 その判断が、今ここで火災へ影響している。


 だからといって間違いだったとは言えない。城へ水を上げていれば、別の場所で手術と生活用水が止まった。


 過去の優先順位は、忘れた頃に別の形で戻ってくる。


 復旧直後の市水道は、城の高所まで圧力を戻していなかった。


    *


 上空では、近衛飛行隊が発射母機を追っていた。


『MiG-31K、北東へ離脱。護衛Su-35S四』


『追撃許可を』


 アンナ・ザハルチェンコが求める。


 A-50Uの指揮席には、返答する最高指揮官がいない。


 地上の通信は切断された。


 代理指揮官はザハルチェンコ元帥だった。

 アンナの回線には、地上被害の断片が入っていた。


 鐘楼倒壊。


 礼拝堂通信断。


 大公夫妻、生存未確認。


 発射母機はレーダー上に残っている。追えば届く。護衛機との戦闘になっても、落とせる可能性はある。


 落としたい。


 その感情は、距離や燃料より早く答えを出した。


 だからアンナは自分で決めず、代理指揮官へ許可を求めた。


    *


『追うな』

 ザハルチェンコ元帥は、娘の機体記号を見ていた。


 敵機との距離、残弾、城上空の空白。


 追撃を許せば、怒りには答えられる。


 二次攻撃が来れば、首都には答えられない。


『二次攻撃に備え、城上空へ戻れ。発射母機を一機落としても、地上は守れない』


 声は平静だった。


 命令を出した後、元帥は机の下で左手を握った。


 大公夫妻の生存は、まだ分からない。


 分からない情報を悲報へ変えない。


 いまは、空白として扱う。


『了解』


 返答に迷いがあった。


 アンナのF-2Aは増槽を抱えたまま反転した。怒りに任せて急旋回すれば早い。彼女は規定の荷重を越えず、二番機と間隔を保って機首を南西へ戻した。


 翼端から伸びた白い凝結が消えるころ、MiG-31Kと護衛のSu-35Sはレーダー画面の端へ退いていった。


 帝国機は逃げた。


    *


 城内の警備本部は、最初の二分を失った。

 警備副責任者は瓦礫から這い出し、最初に腕時計を見た。


 着弾から一分五十二秒。


 主指揮官は意識なし。通信主任は戦死。計画書は机の下に埋まっている。


 副責任者は自分が指揮を継承したと宣言した。


「全区画、状況報告。長文を使うな。火災、閉塞、負傷者、侵入者の順」


 返ってきた報告は重なり、半分が聞き取れない。


 計画書どおりの中央集約は死んでいる。


「各区画、救助を自律実施。南口を搬出路。西廊下は消火。武装員二名以上で行動」


 統制を取り戻すのではない。


 統制がなくても動ける範囲を決めた。


 通信卓が倒れ、指揮官が負傷し、監視映像の半分が消えた。


 生き残った警備員は、計画書どおりではなく、目の前の区画ごとに動いた。


 礼拝堂南口を開く。


 西廊下の火を止める。


 外国代表を地下へ移す。


 身元不明の報道関係者を一箇所へ集める。


 この最後の命令だけは、遅かった。


 名簿上は八十六人いた報道関係者が、点呼では八十三人になった。混乱の中で、三という数字だけが妙に明瞭だった。

 入場時刻と座席記録を照合する。


 三人は同じ報道社を名乗り、機材登録も通過していた。


 氏名照会は一致。


 顔認証記録は、着弾直後から消えている。


「出口映像を封鎖。負傷者名簿にも照合を掛けろ」


「工作員と断定しますか」


「しない。迷子か、死者か、負傷者か、工作員か。全部残せ」


 最初から敵と決めれば、都合のよい証拠だけが集まる。


 ただし、三人が消えた事実を偶然として放置もしない。


 報道席から三人が消えていた。

 警備副長は携帯端末へ三人の顔写真を送った。


「捜索は二名。発見したら位置だけ報告しろ。追うな」


「逃がすんですか」


「負傷者を置いて走れば、そいつらより先に俺たちが人殺しになる」


 命令は苦かったが、優先順位は苦味で変わらない。瓦礫の下には呼吸音があり、外にはまだ狙撃も第二撃もあり得る。三人を追うために救助線を崩す余裕はなかった。


 副長は出口を封鎖させ、監視映像の保存を命じた。捕まえる仕事は後からでもできる。潰れた胸郭は、後からでは戻らない。


 写真を受け取った二人だけが、人の流れに逆らって北廊下へ消えた。


    *


 ヴォロディミルとペトレンコは、結ばれた布を解いた。

 布は埃で灰色になり、一部が血に濡れている。


 ヴォロディミルは結び目へ手を掛けた。


「解くぞ」


「はい」


 式の途中で結ばれた布を、自分たちで解く。


 不吉だと誰かは言うかもしれない。


 いま必要なのは、二人が別方向へ動けることだった。


 象徴を守るために人を助けられないなら、その象徴は瓦礫と同じ重さしかない。


 離れるためだった。


 ペトレンコは動く右手で近くの負傷者の気道を確保し、ヴォロディミルは落ちた梁の下から子供を引き出そうとした。


「国家元首を救出します!」


 警備員が近づく。


「先に、この列を持ち上げろ」


「陛下を安全区画へ」


「次の攻撃があるなら、ここも安全区画も同じだ。持て」


 四人で梁を持ち上げる。


 下から出てきた子供は生きていた。

 呼吸は浅い。右脚が動かない。


 ペトレンコが脈を取り、近くの布を裂いて固定する。


「名前は分かる」


 子供は答えなかった。


「答えなくていい。息だけして」


 ヴォロディミルは母親の頸部へ指を当てた。


 脈はない。


 子供には言わなかった。


 救助とは、真実を全部その場で渡すことではない。生きて次の時間へ移るため、必要な情報だけを残すこともある。


 その隣の母親は動かなかった。


 十七秒で、婚礼は救難現場へ変わった。


 誰が夫婦で、誰が国賓で、誰が王かを確かめる時間はなかった。

 赤、黄、緑、黒。


 衛生兵は肩書きの代わりに四色の札を置いた。呼吸がない者へ黒を結ぶ手が、一瞬だけ止まる。次の負傷者が咳をしたため、その手は動いた。


「この人は大使です」


「なら、気道も大使仕様か」


 衛生兵は顔を上げずに答え、顎を持ち上げて呼吸路を確保した。皮肉は侮辱ではなく、泣く時間を作らないための道具だった。


 護衛官が王を先に運ぼうとした。ヴォロディミルは自分の腕についた緑札を見せ、胸部を押さえる少年を指した。


「黄色が先だ」


「殿下――」


「色で呼べ。今はそれが階級だ」


 担架は少年を載せて動いた。王冠は床に落ちたまま、誰の治療順位も上げなかった。


 冠は瓦礫の中に残り、結ばれていた二人は別々の負傷者を支えた。婚配の最初の共同作業としては、教会の予定表にないものだった。

 北側では、再び石材が崩れた。


 火災の赤い光が粉塵へ広がる。


 警備員が国家元首用の退避路を開いたと報告した。


 ヴォロディミルは負傷者搬出へ使うよう命じた。


 それが正しいからではない。


 次の攻撃が来れば、自分が死ぬ可能性は残る。指揮継承が機能しなければ、国全体へ損害が及ぶ。


 それでも、目の前の担架を押しのけて通路へ入る判断はできなかった。


 王冠の責任と、一人の人間の身体が、同じ瓦礫の上で引き合う。


 答えは出ない。


 十七秒で壊れた礼拝堂の中で、ヴォロディミルは答えのないまま次の負傷者へ手を伸ばした。

 粉塵の向こうで、ペトレンコの声がした。


「こちらに二人。梁を持ち上げられる者は?」


 姿は見えない。だが命令の切れ目に咳が混じり、まだ動けることだけは分かった。


 ヴォロディミルは返事をしようとして、足元の負傷者が息を吸う音を聞いた。先に止血帯を締める。名前を呼ぶのはその後だった。


 礼拝堂の左右で、二人は別々の瓦礫をどけた。夫婦になったのか、式が成立したのか、司祭が生きているのか。確認すべきことは幾つもあった。


 いま確認できるのは、手の届く人間がまだ呼吸しているかだけだった。


「一、二、三で上げる!」


 ペトレンコの声が響く。


 ヴォロディミルも別の梁へ肩を入れた。


「一、二、三」


 同じ数を数えながら、二人の間には崩れた壁があった。

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