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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第二十九話 二つの冠



 公国正教会の婚配機密に、西方教会式の誓約文はない。


 西方教会式の婚姻誓約を新郎新婦が唱えることも、司祭が契約を読み上げることもない。


 言葉の代わりに、指輪を交換し、手を結び、冠を受け、同じ杯から飲み、同じ道を歩く。


 午前十一時。

 礼拝堂の外では警備無線が飛び交い、内部では聖歌だけが聞こえた。


 厚い石壁が戦争を止めているわけではない。音を少し遅らせ、別の形にしているだけだった。


 ヴォロディミルは祭壇前の灯火を見た。


 戦況表示も、残弾数も、進撃路もない。


 何を見れば正しい順番が分かるのか、今日だけは画面が教えてくれなかった。


 婚約の式は、大礼拝堂の入口に近い場所で始まった。


 ミハイロ・シェフチェンコ司祭は七十八歳だった。ヴォロディミルの洗礼を知り、王統の記録が疑われた後も、同じ名で彼を呼んだ。

 司祭は杖を使わなかった。


 歩みは遅いが、自分の足で二人の前へ立つ。


「緊張していますか」


 儀礼書にはない問いだった。


「戦闘前ほどではありません」


 ヴォロディミルが答える。


「戦闘前には、自分が何をするか分かっているのでしょう」


 司祭は静かに言った。


「今日は、分からなくてよいのです」


 ヴォロディミルには、その許可の方が難しかった。


 分からないまま進むことを、四十五日間ずっと避けてきた。情報が足りなければ推定し、推定できなければ期限を決めた。


 婚姻には、成功確率も撤退条件もない。


 それでも始める。


「指輪を」


 鋼の指輪と、王室が用意した金の指輪が盆に置かれる。

 ヴォロディミルは鋼の輪を見た。


 焼けた《ヴォルナ》の飛行甲板。


 コヴァルの砲撃。


 ペトレンコの四十四発。


 自分が放ったKh-38。


 材料の由来を知る者には、婚約指輪より証拠品に近い。


 それを礼拝堂へ持ち込んだ。


 過去を清めてもらうためではない。燃えた事実を隠さず、別の用途へ使うと二人で決めたからだった。


 司祭は二人を祝福し、右手へ指輪をはめた。


 介添人がそれを三度交換する。


 金はペトレンコへ。


 焼けた飛行甲板から作られた鋼は、ヴォロディミルへ。


 戦場で作った約束が、教会の祈りの中へ移された。

 指輪が三度交換されるたび、鋼と金が二人の間を移る。


 どちらが誰の所有物かを固定するのではない。


 受け取り、返し、また受け取る。


 ヴォロディミルは、自分の指へ戻った鋼の冷たさを感じた。


 王冠は受け取った者の頭へ置かれる。


 指輪は相手を通って戻ってくる。


 その違いを、説明より先に手が理解した。


 鋼の表面には、削り切れなかった細い傷が残っている。宝飾職人は消すことを勧めたが、二人は断った。平滑に仕上げても、材料が燃えた事実までは消えない。


    *


 聖歌が低く響く。


 二人は礼拝堂の中央へ進んだ。


 蝋燭を受け、並んで立つ。

 ペトレンコは蝋燭を右手で持った。


 左手首にはまだ薄い痛みがある。会戦の衝撃ではなく、事情聴取で自分が握りしめた跡だった。


 炎は小さく、空調の風で揺れる。


 軍務端末は控室へ置いてきた。


 緊急回線だけを侍女へ預け、式の間は呼ばないよう命じた。持っていても艦隊を救えない。情報を受け取ることと、責任を果たすことは同じではない。


 手順を減らした後に残った不安を、今日は不安のまま持つ。


 参列席に軍服と包帯が多いのは、公国の婚礼の伝統ではない。六十日続いた戦争の結果だった。


「手が震えています」


 ペトレンコが小声で言った。


「お前もだ」


「私は、いつもです」

 本当は、いつもではない。


 砲撃命令の時には、震えを数字へ変えられる。損失、距離、残弾、秒数。項目へ分ければ手が動く。


 今日は分ける項目がなかった。


 嬉しい。


 怖い。


 逃げたくない。


 それだけだった。


 ペトレンコは蝋燭を持つ指へ力を入れすぎないよう、意識して緩めた。


「俺も今日からそういうことにする」


 司祭が二人の右手を結ぶ。

 白い布が手の上へ巻かれる。


 拘束とは違う。望めば、すぐに解ける結び方だった。


 解けるものを、解かないと選ぶ。


 ペトレンコには、その方が重く感じられた。


 命令なら拒否権の所在を確認できる。契約なら終了条件を書ける。


 ここで示されるのは、条件を全て知る前に同じ側へ立つという意思だった。


 ペトレンコの手は冷たかった。

 ヴォロディミルの手も、思ったほど温かくなかった。


 彼も緊張している。


 その事実に少し安心し、安心した自分を恥じるのをやめた。


 国家元首だから平静であるべきだ、という期待を、今日まで本人へ押しつけていたのは自分も同じだった。


 ヴォロディミルの掌には、操縦桿でできた硬い部分が残っている。


 祭壇の外、警備本部では新しい航空警報が入っていた。


『帝国機一、急上昇。機種はMiG-31Kの可能性』

 A-50Uの画面で、目標速度が上がる。


 高度一万六千。上昇継続。護衛のSu-35S四機は周囲へ広がり、近衛飛行隊との間へ入った。


 アンナ・ザハルチェンコはF-2Aを右へ倒し、領空線の手前で機首を北東へ向けた。


 陽光がキャノピーを横切る。旋回で身体が座席の左縁へ押しつけられ、翼上に白い薄膜が生まれて消えた。正面の空には何も見えない。六百キロ近い速度差を持つ敵は、肉眼より先に表示器の数字として近づいてくる。


『近衛一、目標をレーダー照射。警告を送る』


『帝国機へ。貴機は公国領空へ接近中。針路を変更せよ』


 返答はない。


 二度目の警告。


 帝国護衛のSu-35Sがアンナ機へ火器管制レーダーを向けた。


 警報音が鳴る。


 撃たれてはいない。こちらも撃てない。


 互いに引き金へ指を置いた状態だけが、数秒ずつ積み上がる。


『二番機、護衛二機を監視。私は発射母機から外れない』


『近衛二、了解』


 礼拝堂の位置は、アンナの表示器では一つの座標だった。


 その中で、誰が冠を受け、誰が祈っているかは見えない。


 見えないからこそ、座標を守るという仕事へ集中できた。


『兵装分離を確認できず』

 兵装分離を確認できない理由は二つある。


 まだ撃っていない。


 あるいは、探知できていない。


 アンナは機体下面を目視できる距離にいない。A-50Uも妨害を受け、断続的に目標記号を失っている。


『地上防空へ。発射母機推定位置を共有。追跡途絶に備えよ』


『地上、受領』


 S-300V4中隊が9A83M発射機を脅威方位へ向ける。油圧脚が地面を押し、履帯式車体が一度沈んだ。隣では捜索レーダーが仰角を上げ、空に見えない扇を切っていく。


 迎撃弾は有限だった。発射を誤れば、次の目標へ使えない。


 敵が撃つまで待つ。


 撃った瞬間から、こちらの時間が減る。


 防空とは、守る側が常に後から走らされる仕事だった。


 情報はまだ礼拝堂へ送られなかった。


 警備本部では、知らせない判断をした時刻が記録された。何も起きなければ正解と呼ばれ、落ちれば遅延と呼ばれる。判断の名前は、結果の後から付く。

 警備責任者は発射母機の位置と礼拝堂の退避時間を見比べた。


 機種はMiG-31Kの可能性。


 兵装分離は未確認。


 この段階で警報を鳴らせば、式は止まり、城外の群衆が門へ集中する。帝国機がただの偵察なら、混乱だけを自分たちで起こす。


 鳴らさなければ、発射確認後の猶予はほとんどない。


「医療班を北側廊下から離せ。南口へ二班。警備員は扉ごとの退避係を再確認」


「礼拝堂へ通報は」


「まだだ」


 警備責任者は時刻を記録した。


 知らせないという判断も、何もしなかったことにはならない。


    *


 冠が運ばれた。


 王冠ではない。


 金属の輪に小さな十字架を載せた、婚配の冠だった。


 司祭がヴォロディミルを祝福し、冠を置く。


 次にペトレンコを祝福し、同じように置く。


 介添人が二つの冠を三度交換した。

 一度目、ペトレンコは金属の重さに首を固くした。


 二度目、介添人の手が少し震えていることに気づいた。


 三度目、正面を見る余裕が戻った。


 参列席の最前列には、包帯を巻いたザハルチェンコ、車椅子のコヴァリョフ、軍装のソフィア、式典服を嫌って黒い上着のまま座るロマネンコがいる。


 誰も戦争以前と同じ姿ではない。


 婚礼だけを平時の形へ戻すことはできなかった。


 聖歌隊が、栄光と誉れをもって二人を戴冠するよう歌う。


 ペトレンコは冠の重みで、わずかに背を伸ばした。


 大公妃になるための冠ではない。

 ペトレンコは、その説明を何度も受けた。


 それでも参列者の多くは、今日の冠を王室のものとして見る。翌日の新聞には、大公妃誕生と書かれる。


 教会の意味と政治の意味は、同じ金属へ重なる。


 片方だけを本物にすることはできない。


 彼女は背を伸ばした。


 政治利用されると知ったうえで、自分が選んだ儀礼だった。


 二人が新しい家庭を負い、互いの喜びと損失を同じものとして引き受けるための冠だった。


 ヴォロディミルは、その意味を説明された時、王冠より重いと思った。


 王冠なら退位すれば置ける。この冠が示すものは、相手が傷ついた時ほど外せない。

 ヴォロディミルは、ペトレンコの冠を横目で見た。


 重量は自分のものと同じはずなのに、彼女の方が重く見える。


 自分と結婚することで、彼女の判断は今後すべて政治的に読まれる。昇進も処分も発言も、王の妻という注記が付く。


 彼が渡すのは地位だけではない。


 疑念と監視と、王冠へ向けられる弾道も渡す。


 その理解を言葉にすれば、いまさら式を止める理由に聞こえる。


 ヴォロディミルは黙った。


 代わりに、結ばれた右手へ少しだけ力を返した。


    *


 使徒書が読まれ、続いてカナの婚礼の福音が読まれる。


 礼拝堂の外では、通信員が警備責任者へ紙片を渡した。


 《高速飛翔体の可能性。追跡未確立》


「避難警報を」

 警備責任者は、今度は迷わなかった。


「城外観覧区域へ分散誘導。北門を閉鎖、南と西へ流せ。礼拝堂は静粛退避準備」


「静粛退避では七分かかります」


「一斉警報なら圧死者が出る」


「飛翔体なら七分もありません」


 どちらを選んでも、失う時間の種類が違う。


 警備責任者は礼拝堂内部の映像を見た。


 二人は冠を受けている。


「式を短縮。司祭へ伝令。一般警報は追跡確立と同時」


 命令を出し、時刻を記録した。


 午前十一時二十四分。


 この数分が、後から何と呼ばれるかは分からない。


「確定していません」


「確定してからでは遅い」


 警備責任者は礼拝堂の扉を見た。


 四百人を地下へ動かすには、最低でも七分。


 城外には数千人。


「城外観覧区域を分散。礼拝堂は式を短縮する。司祭へ伝えろ」


 伝令が側廊へ走る。


    *


 主の祈りの後、共杯が祝福された。


 ヴォロディミルが三度口をつける。


 同じ杯を、ペトレンコが受ける。

 葡萄酒は甘く、金属の味がした。


 同じ杯を使ったからではない。口の中を噛んでいたことに、そこで初めて気づいた。


 ペトレンコは咳をせず飲み込んだ。


 ヴォロディミルが杯を受け取る。


 会戦では、二人は別々の場所から同じ味方艦を撃った。


 今日は、同じものを順番に受け取る。


 比較すること自体が不吉だと思い、打ち消す。


 過去を忘れるのではない。


 今日の意味を、過去だけに決めさせない。


 指輪も、冠も、杯も、二人の間で分けられた。


 司祭は福音書を持ち、二人の結ばれた手を導いた。


 聖卓の周囲を一度。


 二度。


 三度。


 最初の歩みは遅く、二周目で呼吸が揃い、三周目にはペトレンコの震えが小さくなった。

 一周目、参列者の顔が見えた。


 二周目、蝋燭の炎と聖歌だけが残った。


 三周目、結ばれた手の動きが自然になった。


 同じ道を三度歩くだけで、問題が解決するわけではない。


 それでも、人間は繰り返すことで呼吸を合わせられる。


 結婚生活の比喩としては、華やかさに欠ける。


 ペトレンコには、その方が信用できた。


 その時、側廊の扉が開いた。


 警備員が司祭へ近づこうとする。


 同時に、上空のA-50Uから緊急通信が入った。


『高速目標を確認。北東、距離百八十。予測落下域、キミロフ中心部』


 近衛飛行隊は目標を捕捉できない。

 アンナのレーダーから、発射母機の記号が一度消えた。


「データリンクは」


『妨害。A-50U側で再捕捉中』


 目視できる距離ではない。


 護衛のSu-35S一機が正面へ出る。アンナを発射母機から引き離す動きだった。


 二番機が警告する。


『近衛一、右から一機』


「見えている。追わない」


 敵機がさらに近づく。


 ミサイル警報。


 Su-35SからR-77-1が離れた。白煙は短く途切れ、ミサイル本体は雲の明暗へ溶ける。アンナの表示器には、急速に縮む距離と回避指示だけが残った。


 アンナはチャフを撒き、F-2Aを垂直に近い角度まで起こした。操縦桿を引く。耐Gスーツが腹と腿を締め、肺から声にならない息が漏れた。


 機体は右下へ落ちるように反転する。R-77-1が先ほどまでいた空間を抜け、近接信管の破裂が背後を白く塗った。破片が尾翼を叩き、乾いた連打が機体構造を伝う。警告灯は点かなかった。


 回避の代償として、発射母機とのレーダー接触が切れる。


 選ばされた。


 自分への脅威を無視して発射母機を見るか。回避して生き残り、地上防空へ位置を渡すか。


 アンナは回避した。


 その数秒後、A-50Uが別の高速目標を捉えた。


 間に合わなかったのか。


 最初から別の経路だったのか。


 答えを考える前に、距離情報を地上へ送る。


 地上のS-300V4が迎撃弾二発を発射した。


 発射筒の蓋が弾け、炎と土煙が車体を包む。9M83M迎撃弾は地上数十メートルで機首を倒し、二本の白い軌跡を北東へ引いた。数秒遅れて、発射音が礼拝堂の石壁へ低く届く。


 追跡表示の一つが消え、数秒後に戻る。


 直撃したのか、近接炸裂の破片が届いたのか、表示だけでは判定できなかった。


 司祭は二人を定位置へ戻し、冠へ手を伸ばした。


 警報が、礼拝堂の中で鳴り始めた。

 最初の一音で、ペトレンコの震えが止まった。


 恐怖が消えたのではない。


 警報には手順がある。


 姿勢を低くする。出口を確認する。周囲の人数を数える。次の命令を待つ。


 感情が再び、処理できる形へ戻った。


 隣でヴォロディミルが顔を上げる。


 二人の右手は、まだ白い布で結ばれていた。


 聖歌が途切れ、四百人が同じ方向へ顔を上げた。二つの冠だけが、何も知らないように灯火を反射していた。

「床へ伏せてください! 出口へ走らないで!」


 警備員の声が礼拝堂へ響く。


 参列者の何人かが立ち、別の者は椅子の下へ身を沈めた。立った者の背中が出口を隠し、後列から押す力が加わる。


 司祭は冠へ伸ばした手を止めた。


 儀礼を終えるか、退避を優先するか。


 その判断を教会法の文言から探す時間はない。


「南側へ。列を崩さないでください」


 司祭は祭壇脇の通路を指した。


 ヴォロディミルは結ばれた手を見た。


 布を解けば、別々に動ける。


 解かなければ、互いの位置を失わない。


 警報から着弾までの時間は、まだ誰にも分からなかった。


 二つの冠が揺れた。


 その上で、礼拝堂の時計の秒針だけが、平時と同じ速さで進んでいた。

    *


 警備員が二人、北側の扉から祭壇へ近づいた。


 走ってはいない。礼拝中に走れば、それだけで群衆が崩れる。だが歩幅は平時より長く、右手は上着の内側にあった。


 ヴォロディミルは一人目の視線を受けた。退避勧告。地下通路。車列待機。唇の動きだけで要点が届いた。


 王だけなら、抜けられる。


 その考えが浮かんだことを、彼は恥じなかった。生き残るのも職務だ。だが南側の席には負傷兵の家族と外国使節が並び、狭い通路へ王の護衛を入れれば、彼らの出口を塞ぐ。


「南列から」


 ヴォロディミルは小声で命じた。


 ペトレンコは問い返さなかった。冠を載せたまま身を翻し、侍従へ通路の確保を指示する。誰を先に出すか。何人ずつ動かすか。礼拝堂の扉が内開きか外開きか。彼女の恐怖は、順番へ変わっていった。


 司祭は祈祷文を止めなかった。警備員の接近には気づいている。それでも冠を外す時間はなく、式を打ち切る言葉も口にしなかった。


 鐘が一度鳴った。


 警備員が祭壇まで、あと七歩。


 その七歩より先に、空から来るものがあった。

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