↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/167

第二十八話 招待状の裏側(改)



 結婚式の招待状には、座席と時刻しか書かれていない。


 その裏側には、防空計画、避難経路、身元照会、医療搬送表、国家元首死亡時の指揮継承順位があった。


 Day 60、午前七時三十分。

 キミロフ解放から十五日。


 東岸の戦闘は縮小したが終わっていない。地下鉄東線では前夜も銃撃があり、北空港の一部滑走路は使用不能。市内の給水は七割まで戻り、停電区域は残っている。


 その都市へ、外国代表と軍首脳と王族を同じ時刻に集める。


 警備計画の表紙には婚礼と書かれていた。


 内容は、敵が望む標的一覧だった。


 キミロフ城大礼拝堂の地下で、警備会議が始まった。


「招待客四百十二。報道関係者八十六。城外の観覧区域は、現時点で約三千八百」

 ヴォロディミルは人数を聞き、最初に考えたのが祝福ではなく死傷者推計だったことを自覚した。


 礼拝堂北側へ直撃。鐘楼崩落。主出入口閉塞。


 その条件なら、最初の三分で外へ出せるのは百人に届かない。


 結婚式の席順を見ながら、誰から退避させるかを考える。


 王冠を被る前なら、そんな自分を冷たいと思ったかもしれない。


 いまは、考えない方が無責任だと知っている。


 ザハルチェンコが一覧を読む。


「空域はA-50Uが監視。高高度にSu-35S四、内側の戦闘空中哨戒にF-2A四。地上はS-300V4二個中隊、近距離はパーンツィリS1三個小隊」


「低速目標は」


 ソフィアが尋ねた。


 ザハルチェンコは別の図面を開いた。キミロフ市街を中心に、河川、鉄道、送電線、再建工事のクレーンが重ねてある。


「小型無人機はA-50Uより地上監視を優先します。パーンツィリS1を北東、南、城西側へ配置。市警の監視カメラ、携帯電話基地局、音響監視班も統合します」


「数は」


「同時十六目標までは、小隊単位で処理可能と見積もっています」


「見積もりの前提は」


「同一方向から接近し、識別可能で、射界へ民間機と群衆が入らないことです」


 結婚式当日のキミロフには、その三条件が一つもなかった。


 報道ヘリは城外へ排除した。警察のクアッドコプターも飛行停止。だが救援物資の輸送車列、復旧工事の無線、携帯基地局の臨時中継波まで止めれば、都市機能の方が先に壊れる。


「妨害で落とせませんか」


 儀典局員が聞いた。


「衛星航法を切っても、慣性航法と事前設定経路は残ります」


 ソフィアは市街図の上へ指を置いた。


「通信を断つことと、飛翔を止めることは別です。落ちる場所を選べない妨害は、密集市街では迎撃より悪い場合があります」


「では、全部撃ち落とす」


「弾数と背景を無視すれば、簡単です」


 パーンツィリS1の射界図には、礼拝堂だけでなく病院、避難所、観覧区域が入っていた。低空へ機関砲を撃てば、外れた三十ミリ弾もどこかへ落ちる。


 防空部隊が恐れていたのは、迎撃できないことだけではない。


 迎撃するために、自分たちが市街へ何を降らせるかだった。


「極超音速兵器への対処は」


 ヴォロディミルが尋ねた。


「早期探知、発射母機の監視、着弾点推定後の退避です。迎撃は試みますが、成功を前提にできません」


「礼拝堂へ直撃する軌道なら」


「警報から着弾まで、条件次第で数分以下。地下退避は間に合いません」


 誰も「安全です」とは言わなかった。


「会場を地下へ移しますか」


 警備責任者が聞いた。


「礼拝堂で挙げることに意味がある、と枢密院は言う」

「礼拝堂の構造補強は」


「北壁と鐘楼基部は検査済み。先月の砲撃による亀裂を補修。ただし、直撃を想定した強度ではありません」


「地下通路」


「祭壇南側から一系統。幅一・二メートル。四百人の退避には使えません」


「俺とペトレンコだけを通す計画か」


 警備責任者は答えなかった。


 沈黙が肯定だった。


「その経路は負傷者搬出用へ変更。俺たちは一般退避列と同じにする」


「国家元首の生存を優先するのが警備計画です」


「国家元首二人分の幅で、担架が一つ通る」


「指揮継承の問題があります」


「継承順位を決めたのは、そのためだ」


 ヴォロディミルは退避図へ線を引いた。


 自分だけを助ける通路を消せば、警備側は困る。助かる可能性まで平等にすることが正義だとも思わない。


 ただ、礼拝堂の入口で将官と民間人が詰まっている時、自分だけ地下へ消える映像は、国家を生かして王冠を殺す。


 政治と人命が同じ線上へ置かれる。


 婚礼まで、その仕事からは逃げられなかった。


「警備側には意味がありません」


「俺にもない」


 ヴォロディミルは出席者名簿を閉じた。


「だが、首都へ戻ったと示す政治行事だ。外国代表も来ている。今から変えれば、帝国の脅しで城を捨てたと受け取られる」


「その一文が、攻撃側の照準点を作ります」


「分かっている」


 式を行うこと自体が作戦判断になっていた。

「中止基準を決める」


 ヴォロディミルが言った。


「帝国発射母機の武装確認。長距離弾道目標の探知。市内で同時多発攻撃。警備本部との通信断。いずれか一つで、式を中断して退避」


「発射母機が領空外にいる場合は」


「兵装と針路で判断。国籍だけを基準にするな」


「参列者へ事前に知らせますか」


「知らせろ。中断時に席を立つ順番も、招待状と一緒に渡せ」


 祝典の雰囲気を壊す、と儀典局は反対していた。


 雰囲気が人を出口へ運ぶわけではない。


 警備責任者は中止基準を読み返し、議事録へ時刻を入れた。


 午前七時五十二分。


 後から見れば、判断が早かったか遅かったかを決める数字になる。


 警備責任者は議事録へ反対意見を残した。祝福される予定の一日にも、後で誰が何を承認したか分かる記録が必要だった。


    *


 午前八時四十五分。


 ペトレンコは控室で軍装を脱ぎ、白い衣装へ袖を通した。


 西方式の長い裾ではなく、公国正教会の婚配機密に合わせた簡素なドレスだった。頭には後で冠を受けるため、重い飾りを付けない。


 鏡の脇には、軍務端末が置かれていた。

 画面には、オスタヴァからキミロフへ入る補給船団の報告が表示されている。


 婚礼の日にも、燃料と医薬品は動く。


 ペトレンコが端末を置けば、代わりの士官が処理する。それで艦隊は止まらない。


 自分がいなくても回ることを確認するのは、安心より少し寂しかった。


 有能な指揮官とは、自分が席を外しても部隊が動くようにする者だ。


 花嫁としては、その理屈を喜びにくい。


「式の間くらい、電源を切ってください」


 侍女が言った。


「艦隊から緊急通信が来たら」


「海軍中佐が結婚式を抜けて何をなさるのです」


 ペトレンコは端末を見た。


 Day 40の会戦後、少佐から中佐へ戦時昇進した。昇進理由は《ブレヴィス》の緊急射撃だけではない。オスタヴァ避難、セヴァル港、半島上陸を含む累積功績として審査された。


 それでも、二十七歳の中佐が国家元首の配偶者になることへの反発は強い。


 平民。

 王室広報が用意した経歴案には、『東部の灰から立ち上がった平民の娘』と書かれていた。


 ペトレンコは削除させた。


 灰から拾われたのではない。軍学校へ入り、整備を覚え、飛び、失敗し、命令し、味方を撃った。


 物語は長い経路を一行へ縮める。


 縮められた部分に、自分が払ったものが埋まる。


 海軍士官。


 会戦で味方空母を撃った人物。


 王室法務局には、婚姻差止めを求める請願が七件届いていた。

 請願のうち三件は血統を理由にし、二件は軍法調査中であることを理由にした。一件は女性士官が婚姻後も軍務を続けることへの反対。最後の一件は、会戦遺族からだった。


『息子を殺した可能性のある人物を祝うことはできない』


 その文だけは、反論できなかった。


 結婚をやめれば死者が戻るわけではない。


 続ければ、遺族の視界へ白い衣装で立つ。


 ペトレンコは請願への回答を法務局へ任せず、自分の署名を入れた。


 判断の正当性を主張しない。調査へ協力し、処分を受け入れること。婚姻が調査へ影響しないこと。


 許しを求める文章にはしなかった。


 遺族には、許さない権利がある。


「電源は切りません」

「緊急時、誰へ命令するのですか」


 侍女が尋ねた。


「命令はしません。代理当直がいます」


「では、なぜ」


「知らないまま式を続ける方が怖いので」


 言ってから、それが合理的理由ではないと分かった。


 端末を持っていても、礼拝堂から艦隊を動かせるわけではない。情報を受け取ることで、不安を制御しているだけだった。


 ペトレンコは通知先を緊急回線一つに絞り、他を切った。


 感情を手順へ変換する。


 手順が不要なら、最後は感情だけが残る。


 今日は、それを完全には消さないことにした。


 ペトレンコは言った。


「ただ、音は消します」


 緊急回線の端末を、衣装の中へ隠すことはしなかった。


 侍女ではなく、扉の外に立つ副官へ預ける。受信した場合は、内容を三段階で分類する。即時中断、式後報告、代理当直で処理。判断者の名前も記録させた。


「私が聞きたいと言っても、基準に達しなければ入らないで」


「閣下ご自身の命令でもですか」


「花嫁の私は、指揮系統にいません」


 副官は端末を受け取った。


 軍務から離れる時間を、自分の意志だけでは守れない。だから規則へ預ける。ソフィアなら感情を手順に変えると言うだろう。ペトレンコが変えたかったのは、感情ではなく責任の置き場所だった。


 鏡台には、外した階級章が残った。


 式が終わればまた着ける。終わらなかった場合に誰が命令するかも、もう決めてある。


 鏡の中の自分は、花嫁というより、慣れない制服を着た兵士に見えた。


 衣装の裾を直す侍女の手が、一度だけ震えた。城外に家族がいるという。ペトレンコは大丈夫とは言わず、避難区域と連絡先だけを確認した。


    *


 午前九時三十分。


 招待客が城へ入る。


 公国の閣僚、軍人、技術者。西方共同防衛機構加盟国の代表。北方被占領諸国の亡命政府使節。帝国から逃れたヴォルコフ一家。民間軍事会社を名乗る第88特務支援群の代表。


 ロマネンコは招待状を持っていた。

 金縁の厚紙には、彼の名前が正しく印刷されている。


 港の倉庫へ入る通行証なら、偽造箇所を三つ見つけられる。透かし、番号、担当官の署名。婚礼招待状は初めてだった。


 ただし、門番の心理は港も城も変わらない。


 高価な紙を持つ者ほど疑いにくく、作業服の人間ほど止める。


 密輸は、荷物を隠す技術より、人間が何を見落としたがるかを読む仕事だった。


 持っていること自体を疑われ、入口で三度止められた。


「俺より、報道の機材箱を調べろ」


「調べています」


「開けただけだろ。底板を外したか」


 警備員が顔を上げる。


 ロマネンコは葉巻を取り上げられながら、報道受付を見た。


「密輸屋の忠告だ。人間は身分証より、仕事道具を信用する」

「搬入口は見たか」


「担当外です」


「だから危ない。正門に人数を並べると、裏口の一人が英雄になった気分で全部通す」


 警備員は苛立った顔をした。


「あなたは参列者です。警備顧問ではありません」


「金を取らずに助言してる。珍しいぞ」


 ロマネンコは葉巻を取り上げられたまま、搬入車両の列を見た。


 花、聖歌隊の衣装、報道機材、厨房用食材。


 花箱は軽い。衣装箱は封印済み。食材車は冷却のためエンジンを止められず、検査時間が短い。


 港なら、温度管理を理由に急がせる荷物を最初に疑う。


「冷蔵車の重量票、積荷より二百キロ重い」


 警備員が振り返った。


 再検査の結果、床下に追加燃料タンクが見つかった。厨房車の航続を延ばすための無届け改造だった。


 爆薬ではない。


 それでも城内へ入れる燃料量としては規定を超えていた。


 車両は外へ回された。


 危険は、悪意がある時だけ生まれるわけではない。善意の近道と書類の省略でも、人は十分に死ねる。


 その指摘で、機材箱の二重底が一つ見つかった。


 中身は予備電池だった。


 危険物ではない。


 警備記録には、「異常なし」とだけ残った。


 危険物ではないことと、安全であることは同じではない。だが入場列は伸び続け、検査員は次の箱を開けた。警備は疑いを解消する仕事ではなく、時間内に疑いへ順位を付ける仕事だった。

    *


 ロマネンコは正面玄関を使わなかった。


 礼拝堂の裏手、食器と花を搬入する坂道を歩き、積み上げられた空箱の数を数えた。搬入記録では六十四箱。戻り待ちの箱は五十九。五箱ぶんの空白は、爆薬でなくても人間を殺せる。


「皿が足りないだけです」


 厨房責任者は言った。


「皿なら割れた音がする」


 ロマネンコは箱の底を靴先で押した。乾いている。ワイン箱なら染みが残る。花箱なら泥がつく。どちらでもなかった。


 港では、積荷より空荷のほうが嘘をつく。金を払った人間は品物を見せたがる。隠したい人間は、何もなかった箱を急いで片づける。


 非常口の蝶番には新しい油が差してあった。防火点検の印は先月。だが床の埃には、今朝ついた細い台車の跡が残っている。


「この扉はどこへ出る」


「旧納骨堂の通路です。今は封鎖されています」


「封鎖という言葉は、扉がある場所でしか役に立たない」


 ロマネンコは警備班へ位置を送った。礼拝堂そのものより、そこへ物を運ぶ裏道のほうが多い。裏道は金と同じで、消えずに持ち主を変える。


 五箱の不足を危険物と断定する証拠はなかった。それでも彼は検査済みの印を止めた。


 疑わしい荷を全部捨てれば式典は成立しない。全部通せば、葬儀になる。


 港湾屋が嫌うのは賭けではない。賭け金を知らされないことだった。


    *


 午前十時四十分。


 上空のA-50U早期警戒管制機が、帝国側の航空基地から複数機の発進を捉えた。


『MiG-31Kの可能性二。Su-35S四。北東へ上昇』


 近衛飛行隊長アンナ・ザハルチェンコは、針路を変えた。

 高度一万二千。


 アンナのF-2Aは、A-50Uの南東二十キロで哨戒していた。


 MiG-31Kと推定された二機は高く、速い。領空線の外側を飛びながら、通常哨戒より南へ寄っている。護衛のSu-35S四機は、その前方と左右へ薄い扇形を作っていた。


 A-50Uの回転するレドームが航跡を更新するたび、表示器上の数字が跳ね上がる。上昇率、速度、推定重量。MiG-31Kの一機だけが、上昇の割に加速が鈍い。胴体下へ大型兵装を抱えている時の挙動だった。


 接近しただけでは撃てない。


 武装分離を確認してからでは、着弾までの時間が足りないかもしれない。


 規則が想定するのは、敵味方がもう少し礼儀正しく順番を守る戦争だった。


『領空線まで距離三百二十。通常の哨戒経路から外れています』


「発射母機の可能性を通報。式場へ警戒レベルを上げろ」


 地上では、参列者の入場が続いている。


 避難を始めれば群衆が城門へ殺到する。

 アンナは発射母機と礼拝堂までの線を頭の中で引いた。


 迎撃位置へ前進すれば、礼拝堂上空の内側哨戒が薄くなる。発射前に圧力をかけられるが、帝国護衛機に釣り出される可能性もある。


『近衛一――』


 旧来の隊名を口にしかけ、止めた。


『近衛一より全機。三番、四番は礼拝堂上空の内側哨戒を維持。私と二番機で北東へ前進。領空線は越えない』


『近衛三、了解。披露宴の席は残しておいてください』


『空席は作らない。礼拝堂から目を離すな』


『近衛二。こちらは二機、向こうは六機です』


『数なら管制画面にも出ている』


『報告ではなく、愚痴です』


『帰ったら聞く。いまは右を見ろ』


『了解。右に二機、まだ遠い』


 守る対象は礼拝堂だけではない。


 空の目を失えば、次の飛翔体が見えなくなる。


 アンナはスロットルを押し込み、二機だけを前へ出した。


 F-2Aのアフターバーナーが点き、背中が射出座席へ沈む。増槽と空対空ミサイルを抱えた主翼が細かく震え、速度計の数字が上がった。二番機は右後方へ離れ、互いの死角を半分ずつ埋める。


 敵機はまだ肉眼に映らない。ヘッドアップディスプレイの目標枠だけが雲の上へ浮かび、方位の変化を刻んでいた。その下には城と礼拝堂と、何も知らず鐘を聞く人間がいる。高度を取るほど地上は小さくなり、守る理由だけが重くなった。


 四機で前進すれば、発射母機へ圧力を掛けやすい。二機を残す方が、礼拝堂防空全体には安全だった。


 軽口を交わせるのは、まだ敵が表示器の記号だからだった。


 ミサイル警報が鳴れば、会話は距離と方位へ削られる。その前に声を聞いておくことも、編隊を保つ手順の一つだった。


 何も起きなければ、婚礼を自ら潰す。


 警備本部は、参列者へ知らせず、医療班だけを前進配置した。


 担架、輸血剤、気道確保器具。祝典の裏側で、それらが壁際へ運ばれる。写真に写らない準備は、必要になった時にだけ目立った。


 礼拝堂の鐘が鳴った。

 アンナのヘッドセットにも、地上中継を通して鐘の最初の一打が入った。


 祝福の音に聞こえたのは一秒だけだった。


 次の瞬間、A-50Uが警報を出す。


『MiG-31K推定一機、上昇率増加。兵装状態、引き続き未確認』


 アンナはレーダー照準を合わせた。


 まだ撃てない。


 まだ退避命令も出ていない。


 婚礼は始まり、敵機は発射位置へ近づいている。


 判断の空白だけが、両者の間で縮んでいた。


 上空では、帝国機が発射可能圏へ近づいていた。

 アンナは脅威を形容しなかった。


「方位〇八七。高度九千。速度九百二十。二機編隊、針路変化なし」


 怖い、近い、危険だ。その三語は、受信側の判断を一秒ずつ濁らせる。彼女が送れるのは観測値だけで、恐怖は自分の酸素マスクの内側に残すしかない。


 A-50Uの表示では、二つの航跡が礼拝堂のある都市へ一直線に伸びている。F-2A二機は迎撃線へ入ったが、MiG-31Kが長射程兵器を抱えているなら、距離はまだ安心材料にならなかった。


「兵装推定は」


 地上管制が問うた。


「未確定。胴体下に単一の大型反射。投棄なし」


 分からないものを埋めるために推測を足すな。教官の声が、昔より冷たく聞こえた。


 アンナは再走査を命じた。機首を数度振るだけで、レーダー像の輪郭が変わる。確信ではなく、誤差が少し狭まる。


「迎撃隊へ。発射兆候を優先。目標喪失時は礼拝堂方向の低高度航跡を再捜索」


 彼女は最後まで、式典という言葉を使わなかった。


 空には祝辞も婚礼もない。あるのは方位、高度、速度と、間に合うかどうかだけだった。


     *


 午前十時五十八分。


 礼拝堂南側に展開したパーンツィリS1の捜索画面へ、最初の低速目標が現れた。


 速度百六十。


 高度百二十。


 南東から一。


 次の走査で三。


 その次には、河川沿いと西部工業区から九つ増えた。


 鳥の群れにしては速度が揃いすぎている。民間ドローンにしては機影が大きく、あらかじめ設定された曲線をなぞるように進路を変えていた。


「低速目標、多数。南東六、西四、河川沿い三。識別なし」


 指揮所の表示器に十三個の記号が並んだ。


 A-50Uは、その半分しか見ていなかった。低高度を飛ぶ小型機は建物と地形へ隠れ、回転翼のない機体は市街地の反射へ紛れる。上空の目が遠くを見ている間に、近くの脅威は屋根の高さで入ってきた。


 城外の観覧区域で、数人が同時に空を見上げた。


 最初に聞こえたのは警報ではない。


 乾いた、小刻みなエンジン音だった。


 一台ではない。


 別々の通りで鳴る芝刈り機を、誰かが同じ場所へ集めているような音だった。


「シャヘド136系の可能性」


 防空指揮官は断定しなかった。形と速度が似ているだけで、製造国も発射主体も分からない。


「全パーンツィリ、交戦準備。城外群衆を建物側へ伏せさせろ。F-2A三番、四番は高度を維持。市街上空での機関砲射撃は禁止」


 戦闘機を低空へ降ろせば、無人機より速すぎる。機関砲で撃てば、弾道の先に街がある。


 三番機の操縦士が、下に広がる屋根を見た。


『こちら近衛三。目視できない。音響方位を送れ』


 市警の通報が一斉に入る。


 南環状路。


 旧市電車庫。


 ドレナ川の堤防。


 遠方の基地から飛んできた編隊ではなかった。


 都市の周縁から、ほぼ同時に立ち上がっている。


 警備本部は婚礼の中止基準を見直した。


 帝国発射母機の武装は未確認。


 長距離飛翔体も未確認。


 だが、市内での同時多発攻撃は成立していた。


「式を中断する」


 命令が礼拝堂へ届く直前、最初のパーンツィリS1が57E6系列の迎撃弾を発射した。


 白煙が城壁の外から立ち上がる。


 鐘の音と小型エンジンの群れと、迎撃弾の発射音が重なった。


 婚礼には、二つの時計が動き始めていた。


 一つは、司祭が進める儀礼の時間。


 もう一つは、防空部隊が残弾で数える時間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。