第二十七話 王冠の重さ
キミロフ中央広場の時計は、四十五日前から止まっていた。
砲撃で止まったのではない。
占領初日に電力が切れ、その後、誰も直さなかった。
Day 45、午後四時十分。
ヴォロディミルは広場の西端で車を降りた。
臨時滑走路へ戦闘機を降ろす演出はしなかった。A-50Uから西部航空基地へ戻り、そこからBTR-82A装輪装甲車で入った。道路が安全になったからではない。市内の防空識別が混乱したまま、国家元首の機体を着陸させる理由がなかった。
BTR-82Aは砲弾孔を避けるたび、八つの車輪を別々に跳ねさせた。車体底へ瓦礫が当たり、乾いた音が床を走る。砲塔の30ミリ機関砲は正面ではなく、窓の残る建物を一つずつなぞっていた。
南橋では補修板の継ぎ目を越えるたび、装甲車全体が軋んだ。欄干の外には、落ちた路面桁と帝国軍のT-72B3が半分だけ川面へ突き出している。帰還の車列は、その横を一両ずつ、歩く速度で渡った。
黒いスーツの上に防弾衣を着けている。
防弾衣は借り物だった。
本人用の装備は西部指揮所へ置いたまま、輸送機材へ紛れて届いていない。肩の調整帯が短く、襟元が首へ当たる。
国家元首の凱旋映像としては不格好だった。
広報担当は上着で隠すよう勧めた。ヴォロディミルは断った。狙撃の可能性を隠して安全を演出するより、不格好な方がまだ正確だった。
軍服を着ない王は、今日は軍人にも市民にも見えなかった。
広場には数千人が集まっていた。
公国旗を振る者。携帯端末を掲げる者。行方不明者の写真を持つ者。占領期に家族を失い、歓声を出せない者。
「大公万歳」と叫ぶ声はあった。
「水を出せ」と叫ぶ声もあった。
別の場所では、占領中に消えた息子の名前を叫ぶ女がいた。
歓迎の旗の間に、手書きの顔写真が並ぶ。
ヴォロディミルは一人ずつ見ることをしなかった。見れば誠実な王の映像になる。立ち止まって名前を聞いても、その場で答えを返せない。
視線を向けるだけで期待を作る立場になっていた。
王冠とは、応えられない要求まで自分宛てにする装置なのかもしれない。
警備隊は後者を止めなかった。凱旋へ断水の苦情を持ち込むのは無礼かもしれない。だが、統治は無礼な要求へ答える仕事だった。
*
ペトレンコは広場の仮設指揮所で待っていた。
彼女は艦隊連絡班を率いて、ドレナ川の輸送路とオスタヴァ港からの補給をつないでいる。婚約指輪は制服の手袋の下に隠れていた。
「お帰りなさいませ、陛下」
「ただいま、でいいのか」
「行政区は確保しました。東岸は未確保です。地下鉄東線に帝国兵が残っています」
「なら、まだ半分だな」
「はい」
ペトレンコは躊躇してから、声を落とした。
「……お帰り、ウラル」
ヴォロディミルは少しだけ笑った。
「ただいま、ナターシャ」
抱き合う代わりに、二人は同じ状況図を見た。
今夜必要なのは、王室の再会より、救急車が通れる道路だった。
「ドレナ川の南橋は」
「一車線だけ使用可能。重量制限二十トン。ウラル4320の燃料車は通せますが、戦車運搬車は迂回です」
「オスタヴァからの船便は」
「掃海済み水路が一本。今夜二便、明朝三便。医薬品を先、砲弾を後へ積み替えました」
「前線から苦情が来る」
「来ています」
ペトレンコは端末を渡した。弾薬補給を優先しろという要請が六件、救急資材を優先しろという要請が四件。
どちらも正しい。
どちらかだけを満たせる輸送量しかない。
「医薬品を先で維持。砲兵には、今夜の射撃割当を三割減らせ」
「理由は」
「首都を取り戻した日に、止血剤を砲弾の後ろへ並べたくない」
「軍事的理由として記録できません」
「では、負傷兵の復帰率と市街地救護能力の維持と書け」
「それなら通ります」
感情を手順へ変換するのはソフィアの得意分野だった。
ペトレンコも、この四十五日で覚え始めていた。
ペトレンコは婚約者ではなく輸送担当として、通行可能な橋と燃料残量を報告した。ヴォロディミルも夫になる男ではなく、承認欄へ署名する国家元首として聞いた。私的な言葉は、その後へ残した。
*
午後五時。
臨時政府の第一回会議が、旧市庁舎の地下会議室で開かれた。
議題は戴冠式でも祝賀行事でもない。
会議机は一つ足りず、二人の局長が窓枠へ資料を置いた。
発電機の出力が不安定で、照明は数分ごとに暗くなる。空調は止まり、地下室には濡れた衣服と消毒薬の臭いが溜まっていた。
取り戻した首都の最初の政府会議は、退避先だった西部庁舎より設備が悪かった。
帰還とは、快適な場所へ戻ることではない。責任の発生地点へ机を運ぶことだった。
夜間外出制限。
武器回収。
占領協力者の拘束手続。
食料配給。
破壊された変電所の迂回送電。
帝国軍が持ち去った住民台帳と、地下拘置所の捜索。
「完全解放を宣言すれば、国外支援が集まりやすい」
外務担当が言った。
「完全、という言葉の定義は」
ソフィアが尋ねる。
「首都中心部を政府が管理していることです」
「東岸で戦闘中です」
「政治的な表現として」
「政治的な砲弾は、東岸から飛んできませんか」
会議室が静まる。
ヴォロディミルは広報案を引き寄せた。
『キミロフ完全解放』を線で消す。
「協力者名簿の扱いは」
内務担当が尋ねた。
「占領当局が作成した職員名簿と、抵抗組織の告発名簿が一致していません。重複を除いて二千四百余り」
「名簿だけで拘束するな」
「逃亡されます」
「令状を出せるだけの根拠を先に分けろ。武装協力、拷問関与、財産接収、行政勤務。全部を同じ欄へ置くな」
「占領当局で配給を担当した者もいます」
「配給を止めれば市民が飢えた。勤務だけで犯罪にはできない」
「世論が納得しません」
ヴォロディミルは一瞬、言葉を探した。
「納得させるために裁くのではない。事実を区別するために裁く」
自分でもきれいすぎる言葉だと思った。
家族を失った者へ、区別しろと言う。王は安全な地下室で手続を説く。
だから、拘置所と裁判記録を公開する仕組みまで同じ会議で決めた。言葉の不足を、監視可能な手順で補うしかなかった。
代わりに、『中央行政区回復。首都奪還作戦は継続中』と書いた。
「祝賀は、全区の捜索が終わってからだ」
「何日かかるか分かりません」
「だから日付を決めるな」
会議録には、祝賀延期ではなく「実施時期未定」と記された。延期なら元の日付がある。今の首都には、祝う時刻そのものがまだ存在しなかった。
「変電所の復旧見込みは」
ヴォロディミルが次の議題へ移った。
「主要区画は最短十八時間。ただし、病院、浄水場、行政区を同時には送れません」
電力技師が系統図を広げた。
「病院と浄水場を優先」
「行政区の通信設備が落ちます」
「発電車を回せ」
「広場の照明にも発電車を使います」
会議室の全員が、数時間後の演説を思い出した。
「広場を消せ」
ヴォロディミルが言った。
「帰還演説が暗闇になります」
「病院の手術灯より優先する理由があるか」
広報担当は反論しなかった。
ソフィアが発電車の配置を更新する。広場用一台を中央病院へ。行政区の通信は指揮車三台で代替。市庁舎の照明は必要最小限。
「浄水場は送電後も水質検査に六時間必要です」
「給水車の残量は」
「西部市街で八時間。東岸避難民を含めれば五時間」
「オスタヴァからの水輸送を追加」
「道路輸送では燃料効率が悪いです」
「効率が悪くても、水がないよりはいい」
最適解ではない。
時間、車両、燃料が足りない時、最適化という言葉は時々、何も捨てないふりをするために使われる。
実際には、広場の照明、砲兵の弾薬、行政区の空調を順に捨てて、水と手術灯を残した。
王冠の重さは金属の質量ではない。
切った系統の向こうにいる人間を知りながら、優先順位へ署名する重さだった。
*
午後七時。
中央広場に仮設の演壇が置かれた。
背後の宮殿は窓が割れ、外壁に弾痕が残っている。照明は発電車から取った。演説中も、遠くで散発的な銃声がした。
ヴォロディミルは原稿を持たずに立った。
原稿は用意されていた。
『歴史的勝利』『完全解放』『不屈の王冠』という語が並び、拍手を入れる位置まで余白へ記されている。
ヴォロディミルは演壇へ上がる前に、原稿を広報担当へ返した。
「これを読めば支持率は上がります」
「水道圧も上がるのか」
「それは技術班の仕事です」
「なら、俺は俺の仕事をする」
原稿なしで話す方が誠実とは限らない。言い間違いも、感情に任せた約束も増える。
ただ、いま『完全』という文字を目に入れたまま話せば、口がその形を覚える気がした。
「国民の皆さん」
歓声が広がり、遅れて静まる。
「今日、公国政府はキミロフの中央行政区へ戻りました」
「四十五日前、俺たちはこの街を失った。多くの人間を残して西へ退いた」
「今日、俺たちは戻った。だが、すべてを取り返したとは言わない」
広場の一部がざわめいた。
「東岸では戦闘が続いている。地下には拘束者が残り、水道と電力は壊れている。占領中に何が起きたかも、まだ分かっていない」
「王冠を取り返した、と言うことはできる」
ヴォロディミルは、照明の届かない宮殿の屋根を見た。
「だが、王冠は都市ではない。まして宝石でもない。戻ってきた政府が、ここで起きることへ責任を負うという印だ」
「今夜から、食料を配る。行方不明者を捜す。協力者と疑われた者を群衆から守り、証拠を集めて裁く。帝国兵の捕虜も、こちらの法に従って扱う」
「それが気に入らない者もいるだろう」
実際、広場から罵声が一つ上がった。
「弟を返せ!」
男の声だった。
帝国軍に連行されたのか、公国軍の誤射で死んだのか、それさえ分からない。
ヴォロディミルには答えられなかった。
「名前を記録班へ伝えてくれ。今夜答えられるとは約束しない。探すことだけを約束する」
「王なら返せ!」
「死者を返せる王はいない」
広場が静まった。
言ってから、冷たい返答だったと思った。
嘘の希望を渡すよりましだと自分へ言い聞かせる。その判断が正しいかは、男の顔を見ても分からなかった。
「それでもやる。復讐を否定するからではない。復讐を群衆へ任せれば、次に誰が敵と呼ばれるかを国家が決められなくなるからだ」
罵声の主は連れ出されなかった。憲兵は位置だけを確認し、手を出さない。演説の内容を証明する最初の相手としては、都合が悪いほど適切だった。
歓声は、最初より小さかった。
小さくなった歓声を、失敗と見る者もいるだろう。
ヴォロディミルには、その方がよかった。
全員が同じ声を上げる広場は、占領下でも作れる。命令、恐怖、配給券。方法はいくらでもある。
拍手する者、黙る者、罵声を上げる者が同じ場所へ残っている。
統治が始まる風景としては、そちらの方が信用できた。
拍手しない者もいた。
「今日を勝利の日ではなく、帰還の日とする」
「公国政府は、キミロフへ帰ってきた」
それだけを言って、演壇を降りた。
演壇の裏で、内務担当が待っていた。
「北通りで捕虜輸送のKamAZ-5350が群衆に囲まれています」
「人数」
「約二百。憲兵一個小隊。投石あり」
「行く」
「陛下が出れば、さらに集まります」
「では車列の映像を広場の画面へ出せ。捕虜名簿と移送先も表示する」
「公開するのですか」
「消えたと思わせるな。裁判所へ運ぶと見せろ」
広場の大型画面が、演説映像から捕虜輸送の中継へ切り替わった。
群衆の一部が不満の声を上げる。
画面下部へ、捕虜数、負傷者数、移送先、担当検察官が表示された。
秘密に運べば速い。見せて運べば時間がかかる。
だが、占領中に人々が最も恐れたのは、連れていかれた者の行き先が消えることだった。
公国政府が同じ方法を使わないと示すには、車列の位置まで公開する必要があった。
『群衆、道を開け始めました』
憲兵隊長から報告が入る。
『投石で負傷二。発砲なし』
「記録を保存。投石者は映像から特定しろ。今夜は逮捕するな」
『逃げられます』
「捕虜車列を通す方が先だ」
ヴォロディミルは仮設画面を見た。
幌を外して金網を溶接したKamAZ-5350が、人の間をゆっくり進む。投石でフロントガラスの右端に白い亀裂が走り、屋根を叩いた石が荷台へ転がった。運転手はブレーキから足を離さず、群衆が半歩退くたびに車体を数十センチだけ進めた。
前後を挟むBTR-82Aは砲塔を上へ向けていた。群衆へ30ミリ砲を見せれば道は早く開く。早く開いた道に何が残るかを、憲兵隊長は知っていた。
窓には金網が張られ、帝国兵の顔は見えない。
歓声はなかった。
王冠を取り戻した最初の夜、公国が守ったのは、国民が殴りたいと思っている敵兵だった。
支持を得る仕事としては出来が悪い。
国家を戻す仕事としては、避けられなかった。
*
夜半、宮殿の自室へ戻ることはできなかった。
市庁舎地下の小部屋には、簡易寝台が一つ、折り畳み椅子が二つ、湯の出ない洗面台があった。
ペトレンコは制服のまま、輸送表を更新している。
ヴォロディミルは防弾衣を外し、肩に残った擦れを指で押した。
「凱旋の感想は」
ペトレンコが尋ねた。
「防弾衣が合わない」
「そこですか」
「広場の感想なら、まだ分からない」
「歓声は上がりました」
「水も出せと言われた」
「正しい要求です」
「俺もそう思う」
二人とも、それ以上は美談へしなかった。
不発弾処理が終わっていない。
ヴォロディミルとペトレンコは、市庁舎地下の小部屋に折り畳み机を二つ並べた。
「結婚式は、この街で挙げたい」
ヴォロディミルが言った。
「礼拝堂の安全確認が先です」
「十五日で間に合うか」
「式を小さくすれば」
「国賓を呼ぶ話が出ている」
「警備側は嫌がります」
「俺も嫌だ」
「でも、呼ぶのですね」
「首都が戻ったと示す政治行事でもある」
ペトレンコは黙った。
「嫌か」
「結婚式が作戦になるのは、少し」
「やめるか」
「いいえ」
彼女は手袋を外し、鋼の指輪を見た。
「政治に使われると分かっていても、私が選んだ式です」
地上では、止まっていた中央広場の時計を電力技師が調べていた。
針が動いたのは、翌朝だった。
修理班は時計塔の歯車から、鳩の巣と薬莢を取り除いた。
占領軍が撃った弾か、抵抗側が撃った弾かは分からない。機構へ噛み込み、分針を止めていた。
技師は薬莢を証拠袋へ入れず、机の端へ置いた。
今必要なのは犯人探しではなく、歯車を動かすことだった。
王冠より先に、街の時間が戻った。
時計は四十五日遅れで動き始め、正確な時刻へ合わせるまで三分かかった。誰もその遅れを責めなかった。
*
翌朝、最初の給水車が中央広場へ入った。
荷台のタンクには公国軍の紋章も、解放を祝う標語もなかった。白い塗料の上に、青で飲料水とだけ書いてある。列に並んだ市民も、旗を振らなかった。鍋、薬缶、潰れたポリ容器。政治より先に喉があり、勝利より先に朝食があった。
ヴォロディミルは広場の端で、配水表に目を通した。市内十三区のうち、定時給水を再開できたのは四区。病院への優先送水を含めても、必要量の四割に届かない。
帰還演説より、この数字のほうが王冠に近かった。
「西浄水場のポンプは?」
ペトレンコは市の技師が差し出した報告書をめくった。
「二基が稼働。三基目は軸受交換待ちです。予備品は帝国規格ですが、倉庫が空でした」
「探せるか」
「港の中古市場まで含めれば。ただし、正規の帳簿には載らないでしょう」
ヴォロディミルは署名欄へ名を書いた。臨時配水命令。軍用車両二十七両を民生へ回し、燃料割当を優先する。前線なら砲弾を運べる車両だった。
失う戦力を数えなければ、善政は簡単だ。数えたうえで回すから、命令になる。
ペトレンコも副署した。
「市は戻りましたか」
「地図の上では」
給水車の弁が開き、水が金属容器を叩いた。列の先頭にいた老婆は、その音を聞いて初めて肩の力を抜いた。
ヴォロディミルは広場を見渡した。
「なら、残り六割を取り戻そう」
鐘楼の時計は正しい時刻を示していた。水道はまだ、四十五日遅れのままだった。




