第二十四話 問いの形
Day 42、夜。
西部臨時政府庁舎のテラスには、祝勝会の音が届かなかった。
祝勝会そのものが中止されていた。
ヴェルナ海会戦の戦死者名簿がまとまらず、アドミラル・クズネツォフ級の軍法調査も始まったばかりだったからだ。
ヴォロディミルは黒いスーツの上着を椅子へ掛け、欄干の前に立っていた。
机には二つの書類がある。
一つは庭園計画の暫定報告。
もう一つは、王統継承資格に関する枢密院法務局の意見書だった。
どちらにも、ヴォロディミルが欲しい答えは書かれていない。官僚文書は疑義を整理できても、人間が誰であるかまでは決めてくれなかった。
三時間前、枢密院法務局は同じ書類を会議室で読み上げた。
「現時点で、大公殿下の地位が直ちに失われるとは解されません」
法務局長は一語ずつ区切った。
「王位継承法は、先代大公による認知、枢密院の承認、議会宣誓を要件とします。血統は重要な前提ですが、DNA鑑定を唯一の成立要件とは規定していません」
「つまり、血が違っても王でいられる」
「そう単純には申し上げていません」
「では、単純に言え」
法務局長は眼鏡を外した。
「国家保安総局による出生記録の偽造が立証された場合、即位手続の前提に重大な瑕疵があったと主張されます。ただし、即位後の国家行為が自動的に無効になることはありません。最終判断には議会、枢密院、最高法院が関与します」
王の正統性を決めるために、三つの機関が互いを監視する。
面倒で、遅く、戦時には扱いにくい仕組みだった。
だから必要だった。王一人が自分を本物だと宣言できる制度なら、コヴァルの庭園計画と大差がない。
「調査資料を公開すれば、二日後の首都作戦へ影響します」
外務担当が言った。
「帝国は必ず、偽王を旗印にした反乱だと宣伝します」
「隠した場合は」
ソフィアが尋ねた。
「今すぐは安定します」
「漏洩後の損失を聞いています」
外務担当は答えなかった。
ソフィアは端末へ数字を出した。文書へアクセスした者、複製数、通信経路。完全な秘匿が不可能であることだけを、感情抜きで並べている。
「今夜中に枢密院と議会指導部へ原本の存在を通知。一般公開は作戦上の機微を除いた整理版の完成後」
ヴォロディミルが決めた。
「俺の出自に関する部分は削るな」
「政治的には危険です」
「隠して安全になるのは、漏れるまでだ」
会議は終わった。
王位についての手続は決められた。
その夜、一人の女性へ何を聞くかについては、誰も手順書を持ってこなかった。
机の引き出しには、小さな箱が入っている。
指輪を作らせたのは昨日だった。
《ヴォルナ》から回収した鋼材を使いたいと言うと、整備主任は露骨に顔をしかめた。
「飛行甲板の鋼は宝飾用ではありません。熱を受けています。内部欠陥も分からない」
「指輪として強度が足りないのか」
「Su-33を着艦させるよりは簡単です。ただ、縁起の話です」
「縁起を気にする人間が、焼けた空母の鋼を選ぶと思うか」
整備主任は返事をせず、切り出す区画を選んだ。
A-22の破片が直接当たった場所でも、Kh-38の爆風を受けた艦橋側でもない。消火班が負傷者を運び、命令拒否者とコヴァル側の水兵が同じ担架を持った場所だった。
切断砥石を当てると、鋼片は宝石のようには輝かなかった。焼けた塗膜が剥がれ、赤黒い火花が作業台の下へ落ちる。海水と消火剤を吸った表面から、焦げた油の臭いが戻った。
旋盤工は一度削るたびに超音波探傷を掛けた。戦闘で生じた微細な亀裂が残れば、指輪は落としただけで割れる。砲撃に耐えた鋼でも、細く切れば別の材料になる。
鋼片は小さく切られ、オスタヴァの旋盤工が夜通しで削った。内側の金は、臨時政府庁舎に保管されていた王室装身具の一部を溶かしたものだ。
古い王室の金を内側へ入れ、戦場の鋼を外へ置く。
象徴として出来すぎている、とヴォロディミルは思った。
出来すぎた象徴は宣伝担当が好む。だから製作記録は機密にせず、費用も私費扱いで公開させた。国家資産を恋愛へ流用した、と後から言われる余地は残したくなかった。
政治から切り離したい指輪ほど、政治的な処理を必要とした。
ヴォロディミルは箱を出し、また引き出しへ戻した。
作戦命令なら、最初の案が悪ければ書き直せる。
この問いは、口にした後で撤回すれば、最初から聞かなかったことにはできない。
ノックの音がした。
「お呼びでしょうか」
ペトレンコが入口で止まった。
右手首には、事情聴取で何度も握りしめた跡が薄く残っている。
ペトレンコは制服の上着を替えていた。会戦時のものは、煙と海水の臭いが取れず証拠品として提出されている。新しい上着の階級章だけが妙に光って見えた。
彼女の後ろに護衛はいない。
ヴォロディミルの側にも副官を置かなかった。
国家元首と被聴取者が二人きりになることへ、法務担当は反対した。面談内容が処分への圧力と疑われるためだ。そこで室内の記録装置を作動させ、保存データを独立調査官へ渡すことにした。
私的な話をするために、公的な監視を受ける。
王であることの不便さは、時々、罰としてよくできていた。
「入れ、ナターシャ」
彼女は椅子を勧められても座らなかった。
「処分の話ですか」
「違う」
「では、《ヴォルナ》の引き揚げ計画を」
「それも明日だ」
ヴォロディミルは意見書を渡した。
ペトレンコは最初の数行を読み、眉を寄せる。
「出生記録が偽造されていた可能性がある。皇統の血統を、法的には立証できない」
「はい」
「驚かないのか」
「コヴァル提督が言っていました」
「園丁は、最後まで嘘をついたかもしれない」
「でも、陛下が気にしているのは、嘘かどうかではありません」
ペトレンコは書類を置いた。
「本当だった場合に、自分が何者になるかです」
「そうだ」
国家保安総局が作った王。
拾われた子供へ系譜を与え、教育し、敵対国の王冠へ近づけた。もし庭園計画がそこまで含んでいたなら、自分が選んだと思っていた人生のどこからが自分のものなのか。
ヴォロディミルは、自分の記憶を順に疑った。
最初に与えられた名前。
軍学校へ入った日。
先代大公に謁見した時の言葉。
王冠へ手を伸ばした理由。
どの場面にも、コヴァルがいた。直接隣にいない時も、推薦状や命令書や紹介者の向こうにいた。
記憶は本物だった。
配置した者がいたからといって、そこで感じたことまで偽物になるのか。
その判断をペトレンコへ委ねたい自分に気づき、嫌になった。
一人の返事で自分を本物にしてもらう。それもまた、相手を道具にする行為だった。
「俺が旧王統の血を引いていなくても、お前は俺のそばにいるか」
「質問が二つ混ざっています」
ペトレンコは答えた。
「国家元首として支持するか。個人として、そばにいるか」
「分けるのか」
「分けないと、私の返事を政治利用できます」
声は小さい。
内容は容赦がなかった。
「国家元首としては、枢密院と議会に確認してください。私は海軍少佐です。王位の正統性を一人で決められません」
「個人としては」
「その前に、陛下が何を聞きたいのか言ってください」
ヴォロディミルには、逃げ道を塞がれたように感じられた。「そばにいてほしい」という曖昧な言葉なら、忠誠にも職務にも読み替えられる。王の言葉は、本人が望まなくても命令になる。
「俺が本物だと言ってほしいわけではない」
「本当に」
「少しは、言ってほしい」
ペトレンコは黙った。
「だが、それをお前の役目にはしたくない」
「では、何を」
「俺が何者であっても、俺自身の選択として聞きたいことがある」
ペトレンコの視線が、ヴォロディミルの上着へ移った。ポケットの形が、片側だけわずかに崩れている。
気づかれた。
MiG-31BMから放たれたR-37Mの警報を聞いた時より、逃げ場がないと思った。
*
ヴォロディミルは、ポケットから小さな箱を出した。
中に入っていたのは、華美な宝石ではなかった。
ペトレンコは、その箱を見た瞬間に目的を理解した。
理解したからこそ、すぐには喜べなかった。
二日前、自分は味方空母へ四十四発を撃った。事情聴取は暫定のまま、軍法判断も出ていない。大公と婚約すれば、処分を免れるための取引だと見られる。
それは世間の悪意だけではない。制度上、実際に起こり得る疑念だった。
婚約者になった瞬間から、自分の昇進も配置も無罪判断も、本人の能力だけでは説明できなくなる。
嬉しいという感情を手順へ分ける。
軍務。
人事。
司法。
王位継承。
私生活。
分けて確認しなければ、どこかで王の命令と自分の返事が混ざる。
《ヴォルナ》の飛行甲板から回収された鋼を削り、内側へ細い金を入れた指輪だった。正式な王室装身具は、キミロフの宮殿に残っている。
ペトレンコは箱の縁へ指を掛けた。鋼の外周には、旋盤で消しきらなかった浅い筋が一本残されている。
指先に触れた冷たさから、A-22の発射時に《ブレヴィス》の甲板を走った振動が戻った。ロケット弾が離れるたび、船体は横へ半歩ずれ、排気が海面を白く叩いた。四十四発目のあとに来た静けさまで、金属の中へ残っている気がした。
美しいとは思わなかった。
それでも、何もなかった鋼よりは信じられた。
「二日前、俺たちは味方の艦を撃った」
「はい」
「俺は、これからも判断を誤る。お前も誤る」
「はい」
「王の隣は、安全でも正しくもない。俺を無条件に信じる人間ではなく、間違っている時に止める人間が必要だ」
ペトレンコは指輪を見た。
「それは、参謀を雇う言い方です」
ペトレンコは、本気でそう思った。
必要だから選ぶ。能力があるから置く。国家元首としては正しい。結婚の理由としては、任務命令と区別がつかない。
彼女が欲しいのは甘い言葉ではなかった。
自分でなくても成立する理由を、結婚の説明に使わないでほしかった。
「では、言い直す」
ヴォロディミルは彼女の前に立った。
「俺は、お前と食事をしたい。戦争が終わった後も、朝に顔を見たい。報告書ではなく、お前が何を怖がり、何に腹を立てたかを聞きたい」
戦果や血統より口にしにくいことだった。会戦中の命令なら秒で出せた男が、一人へ向けた希望には何度も息を継いだ。
ペトレンコは、初めて箱ではなくヴォロディミルの顔を見た。
王の顔ではなかった。
少なくとも、王として正しい表情を作る余裕はないように見えた。
言葉を選んだ。
命令なら、もっと簡単だった。
「ナターシャ。俺と結婚してくれ」
ペトレンコはすぐに答えなかった。
夜風が書類の端を動かす。
「私が平民だから選んだのですか」
「違う」
「コヴァル提督へ、自分の人生は自分で選ぶと証明するためですか」
「違う、と言いたい」
「言い切らないのですね」
「あの男に奪われたものが、俺の判断へ影響していないとは言えない」
完全に否定してくれれば、返事は簡単だった。
だが、それはたぶん嘘になる。
人は、昨日までの出来事を切り離して今日だけで選べない。コヴァルへの怒りも、空母の死者も、首都へ迫る作戦も、全部を抱えたまま目の前の相手を選ぶ。
混ざっていることと、偽物であることは同じではない。
ペトレンコは少しだけ目を伏せた。
「正直ですね」
「今だけはな」
「では、条件があります」
「言え」
「私を、大公妃にするためだけに海軍から外さないでください。逆に、妻だから昇進させないでください」
「約束する」
「まだあります。私があなたへ反対した時、裏切りと呼ばないでください」
《ヴォルナ》の姿が二人の間へ戻った。
「約束する」
「それから」
「多いな」
「一生分なので」
ペトレンコは初めて、わずかに笑った。
「それから、私を『灰から拾った女』と呼ばないでください。私は、自分でここまで来ました」
その言葉にだけ、声の硬さが戻った。救われた女として王室史へ収められるつもりはない。彼女が欲しいのは恩赦でも物語の役でもなく、選んだ結果への署名だった。
「分かった」
「もう一つ」
「まだあるのか」
「《ヴォルナ》の軍法調査へ介入しないでください。私の処分も含めて」
ヴォロディミルの表情が止まった。
「お前を守れと言われる」
「守らないでください」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません」
ペトレンコは右手首を押さえた。聴取で握りしめた跡がまだ痛む。
「無罪にしてほしいと思う自分はいます。でも、それをあなたへ頼めば、私は次から自分の命令を信じられません」
「処分で海軍を離れることになっても」
「その時は、条件が一つ減ります」
冗談の形にしたが、声は笑わなかった。
ヴォロディミルはしばらく答えず、やがて頷いた。
「調査の独立を文書で保証する。俺は証言者として応じる」
「約束してください」
「約束する」
それでようやく、ペトレンコは自分の返事を職務から切り離せた。
彼女は右手を差し出した。
「なら、はい」
ヴォロディミルは指輪をはめた。
鋼の輪は、指へ少し冷たかった。
《ヴォルナ》の飛行甲板から切り出された鋼。
味方を撃った日の材料を、幸福の証拠に使うことへ抵抗はあった。だが、燃えたものを燃えなかったことにして金だけを嵌めるよりはよかった。
傷を消さず、用途を変える。
それなら、自分たちにもできるかもしれない。
「一つ聞いていいか」
「何でしょう」
「二人きりでも敬語なのか」
「急には変えられません」
「呼び方も」
ペトレンコは少し迷った。
「……ウラル」
戦闘識別名を、命令でも報告でもなく呼んだ。
ヴォロディミルは返事を急がなかった。その二音が私的な呼び名になるまで、四十二日と一隻の空母が必要だった。
テラスの扉が控えめに叩かれた。
「作戦会議まで十五分です」
副官の声だった。
二人は同時に時計を見た。
婚約の直後にも、首都作戦は待ってくれない。
「公表はいつにしますか」
ペトレンコが尋ねた。
「今夜はしない。軍法調査の独立措置を先に出す。婚約が処分へ影響しない順序を作る」
「効率が悪いですね」
「一生分だろう」
ペトレンコは指輪の上から手袋をはめた。
「作戦会議では、いつもどおり少佐と呼んでください」
「了解した、少佐」
扉を開ければ、国家元首と海軍士官へ戻る。
その境目を自分たちで決められたことが、指輪より先に成立した約束だった。
ペトレンコは扉へ向かい、途中で止まった。
「記録装置」
「動いている」
「今の話も、全部ですか」
「調査官へ渡る」
ペトレンコは天井の小さなカメラを見上げた。
「先に言ってください」
「言えば、返事が変わったか」
「条件をもう一つ増やしました」
「何だ」
「私的な話を記録する時は、事前に通知すること」
「採用する」
二人は十五分後、地下作戦室へ入った。
テーブルには首都周辺の地図が広げられ、三本の進撃路が赤鉛筆で引かれている。ホロボロドコ、ソフィア、シェレメート、工兵司令、兵站担当が既に席についていた。
「遅いですよ〜」
シェレメートが言った。
「十五秒だ」
「戦争なら二機落ちてる〜」
ペトレンコはいつもの席へ座り、手袋の下の指輪を机に当てないよう右手を引いた。
ヴォロディミルは国家元首席へ着く。
「首都作戦を始める。進撃路から確認する」
誰も婚約には気づかなかった。
会議の途中、ペトレンコは三度、右手を机の下へ隠した。
指輪を見られたくないからではない。視線が集まれば、作戦会議が私事へ変わる。
ホロボロドコが旧道の地雷密度を説明し、ソフィアが帝国軍の通信量を示す。
ヴォロディミルは一度も彼女の右手を見なかった。
気づいていないのではない。
見ないと決めている。
その距離を守れるなら、王と士官のまま同じ部屋にいられる。
ペトレンコは手を机上へ戻し、補給船団の到着時刻を報告した。
少なくとも、その会議が終わるまでは。
私的な選択を守る最初の方法が、二時間だけ誰にも知らせないことだった。
遠くで、空襲警報の試験音が鳴った。
婚約を祝う鐘ではない。
首都へ進む次の作戦が、二日後に迫っていた。




