第二十二話 園丁の射線
味方艦へ主砲を向けるには、いくつもの安全装置を外さなければならない。
射撃管制装置の識別を切り、発砲権限を上書きし、砲側の要員へ命令を通す。
空母では、それが三十秒で終わった。
偶発ではなかった。
四十年分の信用が、安全装置の一つとして組み込まれていた。コヴァルの命令だから通った。味方だから疑われなかった。その二つが、同じ三十秒で裏返った。
《スヴィターナ》から見れば、空母は味方識別のままだった。
戦術表示の記号は青い。射撃管制装置も、接近する巨体を迎撃対象へ切り替えない。艦橋の監視員が異常を報告し、人間が識別を上書きするまでに、八秒を使った。
八秒あれば、海では針路が変わる。
十二秒あれば、砲塔が回る。
三十秒あれば、四十年の忠誠を裏切りへ変えられる。
*
『《ヴォルナ》、針路を戻せ』
ヴォロディミルは呼びかけた。
『コヴァル。応答しろ』
雑音の後、提督の声が返った。
『終わりだ、陛下』
いつもの声だった。
その平静さが、怒鳴られるよりも深く刺さった。
ヴォロディミルは《ウラル》を旋回させながら、二隻の間隔を見た。七・四キロ。空母の砲にとっては近い。航空機にとっては、近すぎて撃てない。
味方艦へ照準を合わせる手順はある。交戦規則にも、乗っ取られた艦艇を無力化する項目がある。
だが、そこには自分を育てた男が乗っている場合の注記はなかった。
「何をしている」
『四十年待った。庭を作り、土を替え、必要な枝を残した。お前が王冠へ届くところまでな』
《ヴォルナ》の砲塔が《スヴィターナ》を追う。
『帝国国家保安総局、庭園計画。俺の識別名は園丁』
「俺を帝国へ渡すつもりか」
『最初はそうだった』
コヴァルは少し笑った。
『だが、お前は育ちすぎた。帝国へ返せば、皇帝の玩具になる。公国へ残せば、あの女と王朝を作る。どちらも気に入らん』
「俺はお前のものではない」
『子供は皆そう言う』
最初の砲撃が来た。
《スヴィターナ》は転舵していたが、避け切れない。砲弾が艦橋下の通信区画へ入り、内部で爆発した。
照明が消える。
戦術回線が一つ、二つと落ちた。
非常灯が点き、《スヴィターナ》の応急班が自艦の内側へ戻った。
爆煙の中から、ザハルチェンコの声が戻る。
『《スヴィターナ》、通信区画被弾。主回線断。死傷者多数。操舵可能』
「コヴァルを敵性目標へ変更しろ」
ヴォロディミルは命じかけ、言葉を止めた。
《ヴォルナ》には千人を超える乗員がいる。コヴァルと同じ意志を持つ者が何人か分からない。命令へ従っている者、拒否している者、何も知らず持ち場を守る者。その全員を、一つの赤い記号へ塗り替えることになる。
「《ヴォルナ》を識別保留。全艦、射撃は個別許可制。乗員へ艦内放送で退避と命令拒否を呼びかけろ」
『二射目が来ます』
ソフィアの報告だった。
『前部砲塔、装填動作。推定五十二秒』
五十二秒。
人間を敵と味方へ分けるには短い。指揮艦をもう一度撃つには十分だった。
ヴォロディミルは操縦桿を倒した。《ウラル》が高度を捨てる。
自分で撃つか。
撃てば、コヴァルだけを殺したとは書けない。撃たなければ、《スヴィターナ》の次の死者は、自分が迷った秒数だけ増える。
決断を遅らせる者は、何も選ばなかったことにはならない。
『大公様、東から四機戻ってきたよ〜』
シェレメートの声が割り込んだ。
『対艦兵器は捨てたけど、機関砲と短距離弾は残ってる。空母の上で揉めてるなら、今が刺し時だね〜』
帝国航空隊は、公国艦隊の異常に気づいている。通信量が急増し、空母が隊形を外れ、指揮艦から煙が上がった。遠くから見ても、指揮系統が壊れたことは分かる。
「第二隊を艦隊東側へ。敵を射程外へ押し出せ」
『大公様は』
「ここに残る」
『コヴァル提督を撃つの〜』
問いではなかった。
「まだ決めていない」
『じゃ、決めるまでの空はこっちで買うよ〜。高いから、あとで払ってね〜』
回線が切れた。
シェレメート隊が東へ向かい、戻ってきた敵四機の前へ薄く広がる。数で押し切るのではなく、正面から撃ち合えると思わせて時間を使わせる形だった。
ヴォロディミルはその時間を受け取った。
誰かが稼いだ秒数で、自分は味方を撃つか決める。
最高指揮官という言葉は、もっと堂々とした仕事を指すものだと思っていた。
*
《スヴィターナ》の艦橋では、ザハルチェンコが片膝をついていた。
最初の砲撃で床が傾いたわけではない。爆風に倒された航海長の頸動脈を確かめるためだった。
脈はない。
「艦橋要員、損害」
「戦死四、重傷三。通信区画は火災。主回線復旧見込みなし」
「予備回線を補給艦経由で繋げ。航海長代理は」
「私です」
二等航海士が答えた。顔の右半分に細かな切創がある。
「操艦を取れ。左二十、最大戦速」
「防空艦が間へ入ろうとしています」
「止めろ。味方の盾になるために味方へ体当たりするな」
ザハルチェンコは立ち上がった。
命令を出すたび、死んだ航海長の身体を跨ぐ。応急班が来るまで動かせない。艦橋は狭く、戦死者のために通路を空ける余裕もなかった。
「《ヴォルナ》の二射目まで」
「四十一秒と推定」
「こちらの主砲は」
「射撃可能です」
「撃てるか、ではない。どこを撃てば止まる」
砲術士官は答えなかった。
《ヴォルナ》の艦橋を撃てば止まる可能性がある。同時に、命令拒否を始めた乗員も殺す。機関区を撃てば艦を止められるが、原動機と火災がどう連鎖するか分からない。飛行甲板を撃てば航空運用は止まる。主砲は止まらない。
照準できる場所と、撃つべき場所は一致しなかった。
「主砲、追尾のみ。発砲は私の命令を待て」
「了解」
決められないのではない。
決めるための情報が足りない。それでも時間切れになれば、情報不足のまま撃つ。
ザハルチェンコは倒れた航海長の拳銃を抜き、安全装置を確認して自分の腰へ差した。
艦内にコヴァル側の人間がいない保証はなかった。
味方識別が壊れると、最初に失われるのは火力ではない。背中を向けられる相手だった。
*
被弾した《ブレヴィス》では、ペトレンコが状況図を睨んでいた。
空母まで七・八キロ。
指揮艦まで九・一キロ。
《ヴォルナ》は二射目のため、砲塔を戻している。
ペトレンコには、その砲塔がこちらを向いているように見えた。
実際の照準は《スヴィターナ》だ。だが二射目が指揮艦を潰せば、艦隊回線はさらに崩れる。《ブレヴィス》は防空圏外に近く、右舷機関を失い、単艦で敵航空隊と潜水艦の間に残される。
自分が撃たれるのと、命令を受け取れなくなるのは、結果がよく似ていた。
「使える兵器は」
「A-22発射機、艇首両舷に一基ずつ。上陸支援用の一四〇ミリロケットです」
「増程弾なら九・五キロ。射程は足りる」
「艦を撃つ兵器ではありません。誘導もできない。散布界の中に《スヴィターナ》が入ります」
艦長の指摘は正しい。
A-22《オゴン》は沿岸の面目標へロケット弾をばら撒くための兵器だ。動く艦の特定区画を精密に撃つようには作られていない。増程弾は届く。届くことと、当てたい場所だけへ当たることは別だった。
海況三。横風は西から毎秒七メートル。《ブレヴィス》自身も二十六ノットで南へ流れている。射撃盤が出した散布楕円は、《ヴォルナ》の飛行甲板を覆い、その端が《スヴィターナ》の退避針路へ触れていた。
安全な射角はない。
安全な不射撃もなかった。
撃てば味方へ当たる。
撃たなければ、空母の二射目が指揮艦へ当たる。
「《スヴィターナ》へ退避警報。散布界を送って」
「発射許可は誰が出します」
艦長は責任を問うたのではない。
この命令の後で、誰が軍法会議に立つかを確かめた。
「私が出します」
ペトレンコは言った。
「航海日誌へ記録してください。ナターシャ・ペトレンコ少佐の単独命令。艦長は反対した、と」
「私はまだ反対していません」
艦長は射撃盤を見た。
その声で、ペトレンコは初めて艦長の意図を理解した。責任を一人へ集めるための質問ではない。撃った後も艦を動かすため、命令と異議を記録へ残そうとしていた。
「照準は飛行甲板前部。艦橋を散布界の端へ置く。沈めるのではなく、撃たせない」
ペトレンコは頷いた。
「実行」
艦長が射撃盤へ手を置いた。
「右へ三度。速度を二十二ノットまで落とす。艇体の揺れを一周期待て」
「近づけば、空母の近接火器圏へ入ります」
「だから一周期だけだ。二周期待てば、こちらが標的になる」
操舵員が復唱する。
ペトレンコは発射承認欄へ自分の識別符号を入力した。画面に確認表示が出る。
――味方識別目標への射撃。
解除には二段階の承認が必要だった。
彼女は一段目を入れた。
二段目で指が止まる。
《ヴォルナ》の乗員名簿を知っている。オスタヴァ避難で一緒に船を動かした機関士も、セヴァル港で負傷者を運んだ甲板員もいる。散布楕円の中では、名前は意味を失う。
二射目まで、三十四秒。
ペトレンコは二段目を入れた。
後悔は後からできる。発射時刻は待ってくれない。
*
《ブレヴィス》が煙の中で艦首を振った。
A-22発射機が仰角を取る。
装填されていた四十四発のロケット弾が、数秒で吐き出された。
海へ落ちるものがあった。
《スヴィターナ》の後方へ落ち、破片を浴びせた弾もあった。
残りは《ヴォルナ》の飛行甲板と艦橋周辺へ降った。
一発が駐機中の艦載機へ入り、燃料に火をつける。二発が前部飛行甲板を裂く。艦橋の窓が砕け、射撃管制アンテナが倒れた。
味方の水兵がいる艦だった。
警報と悲鳴が、共通救難周波数へ流れ込む。
《ヴォルナ》の二射目は発射されなかった。
《ブレヴィス》の戦闘指揮所では、誰も歓声を上げなかった。
四十四発中、命中と推定されたのは十九発。海面落下十一。残りは観測不能。《スヴィターナ》の後部甲板でも小火災が発生し、負傷者が出ている。
「味方損害」
ペトレンコが求めた。
「《スヴィターナ》、負傷六。うち重傷一。《ヴォルナ》は不明です」
「不明のまま記録。命中十九も推定と付けてください」
都合のよい数字へ確定させたくなかった。
砲撃を止めた。それは事実だ。
味方を撃った。それも同じ強さの事実だった。
艇内放送へ、甲板班から報告が入った。
『発射機一番、再装填不能。二番は旋回架損傷。残弾なし』
「了解。近接火器を防空へ戻してください」
『右舷機関室、温度再上昇』
「固定消火を追加。左舷吸気へ煙を入れないで」
一つの判断を終えても、戦闘は終わらない。
味方空母を撃ったという事実は、機関室の火を消してくれない。軍法会議を考える時間も、泣く時間も、戦争の側からは支給されなかった。
ペトレンコは状況図を更新した。
《ヴォルナ》の砲塔は停止。
《スヴィターナ》は左へ退避中。
《ブレヴィス》は残弾なし、機関一基、速力二十二ノット。
空には敵機四。
それが、いま責任を取るべき範囲だった。
『何をした、ペトレンコ!』
コヴァルの声が初めて崩れた。
「砲撃を止めました」
『俺の艦だぞ』
「公国の艦です」
『あの王のために、味方を撃ったのか』
「あなたも、同じことをしました」
声が震えた。
それでも送信キーを離さなかった。
「違いは、撃った後に裁かれるつもりがあるかどうかです」
言葉にしてから、ペトレンコはそれが正義ではないと気づいた。
裁かれる覚悟があれば、何をしてもよいわけではない。後で責任を取るという約束は、今撃たれた水兵の傷を浅くしない。
それでも送信キーを離さなかった。
ここで自分を弁護し始めれば、次の命令が遅れる。
返答の代わりに火災警報が重なった。何発が人へ当たったか分からないまま、次の射撃を止める必要があった。
*
《ヴォルナ》の火災は広がった。
飛行甲板上の弾薬へ火が近づき、乗員の一部が消火に走る。別の一部は、コヴァルの命令を拒んで艦内放送を切った。
機関科から反乱の報告が入る。
だが、艦橋と操舵区画は園丁の側が押さえていた。
コヴァルは割れた表示器の前で、右耳から流れる血を袖で拭った。
艦橋の床には二人倒れている。一人は呼吸していた。もう一人は、さっきまで射撃諸元を読み上げていた男だった。
「消火班を飛行甲板へ。砲側は非常電源へ切り替えろ」
「機関科が命令を拒否しています」
「機関長を拘束しろ」
「艦内保安班の半数が応答しません」
四十年かけて築いた艦内の秩序が、四分で剥がれていく。
コヴァルは不思議と怒りを感じなかった。庭師が鋏を入れれば、枝は折れる。折れた枝がどちらへ落ちるかまで支配できると思う方が傲慢なのだ。
ただし、《ヴォルナ》だけは自分の手に残す。
この艦も、あの子供も、自分が形を与えた。
任務はとうに終わっている。帝国の指令など、もう意味はない。最後に誰の手で幕を引くか。それだけが残っていた。
「主砲、手動照準。目標」
「提督、飛行甲板で弾薬火災です。誘爆の危険が」
「三十秒あれば撃てる」
部下は動かなかった。
コヴァルは拳銃を抜き、射撃長の机へ置いた。銃口は向けない。それで十分だった。
「三十秒だ」
射撃長が手を動かした。
従った理由が忠誠か恐怖か、コヴァルにはもう興味がなかった。
『《ヴォルナ》、再び砲塔を動かしています』
ソフィアが告げる。
『非常系統。照準は《スヴィターナ》』
ソフィアは推定射撃時刻を表示した。
二十七秒。
《ヴォルナ》の艦内放送から、命令拒否を呼びかける声が流れている。飛行甲板では消火班が燃える艦載機を海へ押し出そうとしていた。あの者たちまで敵ではない。
だが、ミサイルは人間の意図を選り分けない。
ヴォロディミルは機首を下げた。
「《ウラル》、対艦攻撃へ移る」
『陛下、空母には抵抗している味方乗員が残っています』
「分かっている」
『Kh-38を艦橋へ入れれば、その区画の生存は期待できません』
「分かっている」
同じ言葉を二度言った。
理解したことと、受け入れたことは同じではなかった。
『最終照合。目標、《ヴォルナ》上部艦橋。味方艦です』
「照合した」
ヴォロディミルは照準点を艦橋上部から右へずらした。
射撃管制レーダーと非常指揮所の間。爆風は艦橋を破壊する。飛行甲板の消火班からは、わずかに遠ざかる。
ソフィアが新しい着弾予測を計算した。
『照準変更を確認。主砲停止確率は低下します』
「何パーセントだ」
『推定不能です。艦内損傷図がありません』
彼女は安心できる数字を作らなかった。
「そのまま行く」
ミサイルを一発だけ切り離す。
Kh-38は海面へ降りず、空母の上部構造へ一直線に入った。
爆発で艦橋上部が消える。
爆炎の中から、短い無線音声が漏れた。
『……ヴォロディミル』
名前だけだった。
命令か、罵倒か、別れの言葉かは分からない。続きは爆発音に消えた。
《ヴォルナ》の砲塔は、動きを止めた。
コヴァルの声も、戻らなかった。
ヴォロディミルは操縦桿から手を離さなかった。引き金を引いた手に震えが来るのは、着陸してからでよかった。
《ヴォルナ》はなお十二ノットで進み続けている。
撃つべき相手を失った砲身が、揺れる艦首と一緒に海を横切った。
戦術表示では、空母の記号はまだ青かった。
誰も、それを何色へ変えるべきか決められなかった。
敵航空隊はなお東にいた。
『《ウラル》、敵四機が反転。追いますか〜』
シェレメートが尋ねた。
ヴォロディミルは燃える《ヴォルナ》と、損傷した《スヴィターナ》を見比べた。潜水艦の位置は不明。帝国水上艦隊も完全には退いていない。空母の飛行甲板には、発艦できない機体が並んでいる。
ここで敵機を追えば、勝利らしい映像は撮れる。
戻って艦隊を守れば、何も起きないかもしれない。
軍事的に価値があるのは、たいてい後者だった。
「追うな。艦隊上空へ戻れ」
『了解〜。今日の撃墜記録、寂しいね〜』
「生きて帰れば余白に署名できる」
『それ、慰め方としては零点〜』
シェレメート隊が旋回した。
ヴォロディミルはA-50へ回線を開く。
「艦隊指揮権を《スヴィターナ》へ再集中。ザハルチェンコが負傷または通信不能なら、次順位を自動適用。全艦へ《ヴォルナ》乗員の救難準備を命じろ」
『《ヴォルナ》を救助対象として扱いますか』
「そうだ。交戦は終了した」
『コヴァル提督の生死は未確認です』
画面の空母はまだ動いている。砲塔も機関も、再び息を吹き返す可能性があった。
「再照準が確認された場合だけ、火器管制装置を攻撃する。それ以外は救助対象だ」
『了解』
敵性目標と救助対象の間に、数分前まで父親に近かった男がいる。
ヴォロディミルは、それを命令文へ入れなかった。
国家の回線で私情を説明しても、誰の弾道も変わらない。
《ヴォルナ》の航跡は北へ伸びていた。
艦橋を失い、命令を失い、それでも機関だけが艦を運んでいく。
その先には、カリナ半島の浅瀬があった。




