第二十一話 海の間合い
ヴェルナ海には、逃げ場が少ない。
海峡へ抜けるには沿岸国の許可が要る。北へ戻れば公国航空隊の作戦圏に入る。東へ寄れば、帝国艦隊自身が敷設した機雷原が待っている。
広い海は、地図の上でだけ広かった。
Day 40、午前五時五十八分。
高度九千メートルを飛ぶSu-35BMの右下に、夜明け前の海が鈍く光っていた。雲は薄い。水平線に沿って赤みが差し、その下を公国艦隊が南東へ進んでいる。
ヴォロディミルには、艦影の一つ一つが鉛筆で引いた線に見えた。
空母。指揮艦。防空艦二、警備艦三、補給艦二。上陸支援から戻ったズーブル級揚陸艇は最後列だった。
作戦図では九隻。
だが補給艦一隻は機関出力を七割に制限され、警備艦一隻は前日の対潜任務で魚雷を半数使っている。《ブレヴィス》の右側スカートには応急補修の鋼板が当てられ、全速を出せない。
動けない艦も、撃てない艦も、戦況表示では同じ大きさの記号になる。
記号は都合がよかった。機関員の睡眠時間も、弾庫の空隙も、甲板で煙草を吸う水兵の手の震えも描かなくて済む。
『敵南方艦隊、針路二八〇。速度十八ノット』
A-50の管制官が告げた。
帝国南方艦隊の残存部隊は、カリナ半島南東沖を西へ進んでいる。巡洋艦一、駆逐艦三、警備艦四。水上艦の後方には、キロ級潜水艦が少なくとも二隻。
公国艦隊との距離は百八十キロ。
航空基地を失い、港を奪われても、海へ出ている艦は弾薬を撃てる。国家が崩れかけても、発射筒の中のミサイルは政治状況を気にしない。
「敵沿岸航空隊は」
『二か所で発進準備を確認。攻撃機八、護衛戦闘機六と推定』
「推定根拠」
『滑走路上の熱源、燃料車の移動、地上通信量。機種識別は未了です』
「未了のまま残せ。確定表示へ塗り替えるな」
『了解』
ヴォロディミルは多機能表示器の縮尺を切り替えた。
敵艦隊を沈めれば、海上補給路は大きく開く。半島の帝国軍は海からの増援を失い、オスタヴァ港の価値は倍になる。
ただし、ここで艦隊を使い切れば、その港へ運ぶ船を守る者がいなくなる。
勝利は、次の請求書を必ず連れてくる。王冠を被ってから覚えた数少ない法則だった。
その請求書には、金額だけが書かれているわけではない。
オスタヴァの造船所では、損傷した警備艦を直すために民間船の修理を二週間遅らせている。空軍が優先して使った燃料は、冬になれば発電所へ届かなくなる。今日ここで失った対潜ヘリ一機は、明日の輸送船団一つを裸にする。
戦争は未来を担保にして現在を買う仕事だった。
ボンダレンコなら、もっと正確な数字を出すだろう。そして最後に、利息は死人で払え、とでも言う。
ヴォロディミルは艦隊をもう一度見下ろした。今朝、使ってよい担保がどこまでなのか。それを決める者は、結局、自分しかいなかった。
『《ヴォルナ》より《ウラル》。コヴァル提督が回線に入ります』
「繋げ」
『陛下』
聞き慣れた低い声がヘッドセットへ入った。
『海の上は俺が見る。空を頼む』
「敵の射程へ入る前に、航空隊を剥がす」
『そうしてくれ』
通信は切れた。
短いやり取りだった。コヴァルは昔から、必要な言葉しか使わない。ヴォロディミルが十代の頃、艦橋で余計な報告をした士官候補生へ、海は話を最後まで聞いてくれない、と言ったことがある。
その教えは正しかった。
正しい教えをくれた人間が、正しい人間であるとは限らない。それもまた、王冠を被ってから覚えたことだった。
ヴォロディミルは指を操縦桿へ戻した。
「全航空隊へ。敵攻撃機の発射阻止を第一目標とする。撃墜数は競うな。対艦兵器を捨てさせれば仕事は終わりだ」
『大公様〜、朝から夢のない話だね〜』
シェレメートだった。
「夢は帰投してから見ろ」
『燃料が残ってたらね〜』
軽口の向こうで、彼女は既に自隊の高度を千メートル上げていた。敵護衛機へ位置エネルギーの差を作り、攻撃機の退路へ斜めに入る軌道だった。
ヴォロディミルは命令を重ねなかった。
理解している者へ説明を足すのは、信用ではない。自分の不安を相手の回線へ流しているだけだ。
*
《ヴォルナ》の戦闘指揮所には、夜も朝もなかった。
赤い照明。空調の低い唸り。海図台と表示器の光。乗員の顔色は、疲れていても負傷していても同じ灰色に見えた。
「敵巡洋艦、針路変わらず。速度十八ノット」
報告を聞きながら、コヴァル提督は海図上の距離環を見ていた。
「潜水艦の位置は」
「一隻は昨日の探知点から不明。もう一隻は半島南岸沿いと推定」
「推定で航路を変えるな。対潜ヘリを先へ出せ。ソナー投下点は六キロ間隔」
「了解」
若い対潜士官が指示を復唱した。
声が少し高い。昨日の任務で同僚を一人失っている。悲しみを処理する時間は与えられていない。軍隊は感情を否定しない。ただ、当直表の空いている欄へ押し込む。
コヴァルは士官の顔を見なかった。
四十年、そうしてきた。
港へ入る角度、潮汐、艦隊の燃料、砲身の摩耗。数字で扱えるものだけを扱い、それ以外は命令で切り捨てる。海軍では、それを冷静と呼んだ。
「敵巡洋艦、射撃管制レーダー照射」
「方位」
「本艦ではありません。《スヴィターナ》を追尾しています」
「当然だ。向こうも頭を潰したい」
コヴァルは指揮艦の記号を見た。
《スヴィターナ》は艦隊中央にいる。その東を防空艦、西を《ヴォルナ》が並走していた。通常なら、空母は指揮艦との間隔をさらに広く取る。飛行甲板へ風を入れる必要もある。
だが今は、まだその時ではない。
コヴァルは袖口の内側へ指を入れた。皮膚には、古い火傷の引き攣れがある。何もない場所を確かめる癖だけが残っていた。
「航空隊、第一波の発艦完了。第二波は甲板待機」
「第二波は動かすな」
「しかし、敵航空隊が接近中です」
「陛下が止める」
飛行長が一瞬だけ黙った。
「……了解」
不満は声に出なかった。命令系統はまだ生きている。
コヴァルはそれを確認した。
庭を刈る前には、鋏が自分の手にあるか確かめなければならない。枝の美しさを眺めるのは、その後でいい。
四十年前に拾った子供は、命令を待つ少年ではなくなった。
軍を集め、港を取り戻し、壊れた国へ別の骨組みを入れ始めている。剪定するたびに枝は太くなり、支柱を外すたび、自分で風へ向くようになった。
それを失敗と呼ぶべきか、成果と呼ぶべきか。
コヴァルには、もう区別がつかなかった。
だから今日終わらせる。帝国へ引き渡すためでも、公国を救うためでもない。自分が育てたものの最後を、他人の手へ渡さないために。
所有欲を忠誠と呼び替えるには、四十年は少し長すぎた。
「帝国巡洋艦、発射筒開放」
「数」
「八」
「沿岸通信量、急増」
壁面表示へ赤い線が十二本現れた。
「《スヴィターナ》へ警報。全艦、一斉対処」
コヴァルは平板な声で命じた。
この斉射を防げなければ、後の予定は消える。
長い時間をかけた仕事ほど、最後はつまらない故障や一発のミサイルで終わる。人間も艦も、その点では安物だった。
*
午前六時三十七分。
《ブレヴィス》の戦闘指揮所で、ペトレンコ少佐は十二個の赤い記号を見た。
巡洋艦から八発。沿岸の移動発射機から四発。
対艦ミサイルは高度を落とし、海面反射の中へ沈んだ。高度表示の数字が下がるほど、迎撃に使える時間が減る。
『一斉対処。電子妨害開始。外周艦は囮を散布』
《スヴィターナ》から命令が入る。
《ブレヴィス》は艦隊最後列にいた。右側スカートの応急補修と、上陸作戦で消耗した機関を抱えている。防空の傘へ入るには速力が足りず、外へ逃げるには旋回半径が大きすぎた。
「近接火器、自律交戦。機関、出せるだけ出して」
「六十五ノットは無理です。五十二、短時間なら五十五」
「五十五で十分。壊れたら、当たらなかった後で直します」
「了解」
艇体が震え、床が後方へ傾いた。
防空ミサイルが五発を落とした。二発は欺瞞装置へ引かれ、一発は海へ墜ちた。
残り四発。
一発が警備艦の艦尾へ命中した。表示上の艦影に損傷記号が重なり、格納庫からの映像が黒煙で潰れる。
「警備艦、格納庫火災。対潜ヘリ一機喪失」
「人員」
「確認中」
確認中。
軍隊が死者をまだ数えられない時に使う言葉だった。数分後には戦死何名、重傷何名という欄へ分かれ、その数だけ補充要員と遺族通知が必要になる。
ペトレンコは表示器から目を離さなかった。
二発目が補給艦近くで炸裂した。破片が燃料配管を裂き、白い航跡の上へ黒煙が広がる。
三発目は《スヴィターナ》を狙った。近接防御火器の弾幕が百メートル手前で弾頭を砕く。破片が指揮艦の甲板を叩き、アンテナ一本を折った。
四発目が消えた。
「撃墜確認は」
「ありません。海面反射に紛れました」
「未処理です。後方監視を切らないで」
ペトレンコは答え、自分の声が震えていないことを確認した。
怖くないわけではない。
怖さは役に立たない。未確認の一発、使用可能な火器、残った秒数へ分ければ、ようやく命令に使える。
「右後方、低空目標!」
探知員が叫んだ。
三十秒前に消えたミサイルが、隊列後方から現れた。
「左急旋回。近接火器、右舷!」
《ブレヴィス》の機首が振れる。速力の高いエアクッション揚陸艇は、海面を滑る代わりに、低速の艦ほど素直には曲がらない。
機関砲が火を噴いた。
曳光弾がミサイルの進路を横切る。弾頭の外板から火花が散ったが、軌道は変わらなかった。
衝撃は音より先に来た。
右舷後部が持ち上がり、ペトレンコの肩が座席ベルトへ食い込む。次いで爆発音が艇内を走り、照明が消えた。非常灯が赤く点く。
「損害報告!」
「右舷機関室火災!」
「機関一基停止、二番吸気系統圧力低下!」
「右側スカート、後部二隔室喪失!」
「負傷者、機関室に複数!」
報告が重なる。
ペトレンコは指を一本立てた。
「順番に。航行、消火、防空、人員」
それだけで声が整理された。
「航行可能。速力二十六ノットへ低下」
「機関室、固定消火装置作動。延焼区画を閉鎖」
「近接火器、右舷一基停止。左舷は使用可能」
「戦死二、重傷七。機関室に未回収三名」
死者二。重傷七。未回収三。
数は合計してはいけない。未回収者は、まだ死者ではない。
「未回収者を出して。機関を止める必要は」
「右舷区画へ入るなら、吸気を閉じます。左舷機関だけで維持可能」
「実施。上陸支援ロケットの状態は」
「弾庫異常なし。A-22二基、使用可能」
上陸支援用の火器が生き残り、機関員が倒れている。
兵器は時々、人間より運がいい。
ペトレンコは《ヴォルナ》へ報告を送った。
「《ブレヴィス》、被弾。機関一基停止、火災は隔離中。航行可能。A-22は使用できます。救助作業を継続します」
『隊列から離れろ』
コヴァルの声だった。
「離れれば、次の攻撃で単艦になります」
『燃える艇を空母の横へ置けない』
正しい命令だった。
艦隊全体を守るなら、《ブレヴィス》を防空隊形から外すしかない。残れば、次のミサイルを空母へ引き込むかもしれない。
正しい命令は、実行する者の損失を軽くしてくれない。
ペトレンコは損傷図を見た。左舷機関、二十六ノット。近接火器一基。負傷者七。未回収三。
まだ動ける。
動ける艦を、沈んだ艦として数える必要はない。
「了解。《ブレヴィス》、南へ五キロ離隔します」
操舵員が針路を入力した。
艇は黒煙を曳きながら隊列を外れた。海図上で、味方の記号が少しずつ遠ざかる。
「救助班、右舷機関室へ。制限時間四分。再着火したら扉を閉めます」
自分で口にした四分が、三人の生死を決める。
責任とは、立派な言葉ではなかった。誰かを助けるために、別の誰かへ扉を閉める時刻を決めることだった。
三分十二秒後、救助班が最初の機関員を引きずり出した。顔は煤で黒く、左腕が不自然な角度に曲がっていたが、自分で咳をした。
三分四十六秒。二人目が隔壁を越えた。意識はない。衛生兵が頸動脈へ指を当て、そのまま担架を要求した。
四分。
区画内には、あと一人残っている。
「温度上昇。燃料蒸気を検知」
機関長が報告した。
ペトレンコは時計を見た。救助班をもう一度入れれば、助かる人間が一人増えるかもしれない。同時に、救助班四人と左舷機関を失う可能性がある。
「区画閉鎖」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
防火扉が降りる。金属の重い音が、戦闘指揮所まで届いた。
戦死二という数字は、やがて三へ直される。その修正欄へ署名するのは自分だった。
「救助した二名を医務区画へ。火災監視を継続。左舷機関は二十六ノットを維持」
命令を止めれば、閉じた扉の向こうを考えてしまう。
だからペトレンコは次の数字を求めた。
*
公国側の反撃は、午前六時四十四分に始まった。
ヴォロディミルの表示器に、味方の攻撃経路が青い線で重なる。
艦載攻撃機は西から、オスタヴァ基地を出た陸上攻撃機は南西から海面へ入った。艦艇から放たれた対艦ミサイルは二十四発。搭載弾をすべて吐き出す四十発斉射案は退けた。
この一戦だけを勝つなら、四十発でいい。
明日も国家を続けるなら、撃たずに残す弾が要る。
帝国艦隊の防空火器が一斉に開いた。
海面近くで光が続き、探知記号が一つずつ消える。電子妨害で画面に細かな乱れが走った。
『外周突破、十二』
A-50の管制官が報告する。
巡洋艦の前部甲板に二発。駆逐艦一隻の機関区へ一発。別の駆逐艦は至近弾で舵を損傷し、航跡が半円を描き始めた。警備艦一隻が速度を落とし、僚艦の陰へ入る。
それでも帝国艦隊は沈黙しなかった。
損傷した巡洋艦の発射筒から、二度目の斉射が上がる。
『敵航空隊、南東八十。攻撃機八、護衛六。こっちは十四機』
シェレメートの声が入った。
『大公様〜、海ばっかり見てると上から刺されるよ〜』
「第一隊は攻撃機、第二隊は護衛機を止めろ。撃墜より発射阻止を優先」
『了解〜。じゃ、荷物を捨ててもらおうか〜』
レーダー上でシェレメートの四機が東へ割れた。敵攻撃隊の正面ではなく、対艦ミサイルを抱えた機体が針路を変えにくい斜め前へ入る。
敵護衛機が二機、彼女を追った。
シェレメートは逃げない。速度を落とし、追わせ、もう二機を敵攻撃隊の下へ回す。
軽口の間にも、シェレメートは距離と角度を外さない。ヴォロディミルには、恐怖へ渡すはずの思考まで照準へ回しているように見えた。
『フォックス・スリー。二発』
声から間延びが消えた。
R-77が二本の白煙を曳く。敵護衛機は回避へ入り、攻撃隊との間隔が開いた。
「今だ。攻撃機へ圧力をかけろ」
『見えてるよ〜』
シェレメート隊が降下した。
敵攻撃機の一機が対艦ミサイルを海へ投棄し、東へ旋回する。二機目も続いた。三機目は投棄せず、発射姿勢へ入ろうとする。
ヴォロディミルは機首を向けた。
距離五十二キロ。相対速度は毎秒六百メートルを超える。
撃墜する必要はない。
だが、撃たせないためには、撃たれると理解させなければならない。
「《ウラル》、フォックス・スリー」
R-77を一発放つ。
敵機のレーダー波が乱れ、機首が下がった。数秒後、翼下の大型ミサイルが切り離され、海面へ落ちる。敵機はチャフを撒いて離脱した。
ヴォロディミルは追わなかった。
一機を落とすために艦隊上空を空ければ、戦果表は増えて国が減る。
『敵攻撃隊、六機が兵器投棄。二機は東へ離脱中。護衛隊、再編しています』
「深追いするな。艦隊防空線へ戻れ」
『夢がないね〜』
「さっき聞いた」
『じゃ、帰ったら別の悪口を考えるよ〜』
シェレメートの機影が西へ戻る。
ヴォロディミルは艦隊表示へ視線を移した。
警備艦一隻が炎上。《ブレヴィス》は南へ離隔し、黒煙の帯を引いている。補給艦は速度を落とした。《スヴィターナ》の通信能力は低下しているが、指揮系統は維持されている。
帝国側は巡洋艦と駆逐艦二隻が損傷。だが潜水艦二隻の位置は不明のまま、沿岸発射機も全てを撃ち終えたとは確認できない。
勝ってはいない。
負け方が、相手より少しましなだけだった。
『《ウラル》、こちら《スヴィターナ》。味方隊形に異常』
ザハルチェンコの声が入った。
「どこだ」
『《ヴォルナ》が北へ寄っています。転舵量、右八度。速度上昇』
ヴォロディミルは表示を拡大した。
空母の艦首が、帝国艦隊ではなく北西へ向いている。《スヴィターナ》との距離は縮まり続けていた。
「敵の第二斉射を避けた可能性は」
『回避なら、護衛艦と同じ方向へ切るはずです』
ソフィアが別回線から答えた。
『海況と風向を補正しました。飛行甲板へ風を入れる針路でもありません。《ヴォルナ》は意図的に《スヴィターナ》との交差針路へ入っています』
彼女は「おかしい」とは言わなかった。
位置、風向、針路、意図。ヴォロディミルには、それがソフィアのいつものやり方に聞こえた。感情を口へ出す前に、確認可能な手順へ変えてしまう。
「コヴァルへ呼びかけろ」
『三回実施。応答ありません。艦隊指揮回線からも離脱しています』
「《ヴォルナ》飛行長、航海長へ個別回線」
『接続を拒否されました』
拒否。
故障ではない。
画面上で、《ヴォルナ》と《スヴィターナ》を結ぶ予測線が交差した。
ヴォロディミルは、コヴァルの最後の声を思い返した。
海の上は俺が見る。
あれは役割分担ではなかったのかもしれない。
「《スヴィターナ》、左へ最大回避。防空艦は指揮艦との間へ入るな。射線を塞ぐだけだ」
『了解。左最大』
「全航空隊、《ヴォルナ》を監視。ただし発砲禁止。識別は味方のまま維持」
『発砲禁止を確認』
ザハルチェンコが復唱した。
ヴォロディミルの喉が乾いた。
敵なら撃てる。味方なら命令できる。
そのどちらでもない相手が、最も扱いにくい。
「コヴァル。聞こえているなら、針路を戻せ」
返事はなかった。
《ヴォルナ》の前部砲塔が動いた。
砲身が帝国巡洋艦を外れ、海面を横切り、味方の指揮艦を追い始める。
海の上では、針路を数度変えるだけで意思を示せる。
砲口は、それより露骨だった。
ヴォロディミルはようやく理解した。
コヴァルは艦隊の間合いを測っていたのではない。
四十年かけて、自分を殺せる距離まで近づいていた。




