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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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閑話 段ボールの心音



 ※本稿は、戦後に公開された公国特殊装備調査庁の調達記録、試験報告書および事故調査資料をもとに再構成した技術史資料である。後年の制式名称については、別項に譲る。


概要


 「段ボール無線機」とは、建国戦争中に公国特殊装備調査庁――OKB-0で試作された、低帯域戦術通信端末群の非公式な呼称である。


 名称から、段ボール製の筐体を持つ無線機が想像されることがある。これは正しくない。


 段ボールだったのは、無線機ではなく調達経路だった。


 小型演算機、低消費電力無線モジュール、測位受信機、リチウム電池、配線材。部品の多くは軍需工場ではなく、民生市場から宅配便で届いた。専用の輸送箱も、封印された軍用コンテナもなかった。電子工房の机に積まれた箱を開け、使えるものを選び、壊れたものは別の箱から交換した。


 軍用装備としては、あまり威厳のある誕生ではない。


 しかし公国には、威厳より先に必要なものがあった。


 誰が生きているのか。


 どこにいるのか。


 そして、無線が途切れた後もそれを伝えられるのか。


一 「心音」は音を聞いていない


 初期試作機の一部には、後に「心音センサ」と呼ばれる非接触生体検知器が接続されていた。


 この呼称も、厳密には正しくない。


 装置は心臓の音をマイクで拾うのではない。広い周波数帯へ短い電波パルスを送り、その反射波の遅延と位相変化を観測する。人間の胸郭は呼吸によって周期的に動き、心拍もそれより小さな変位を生む。反射波に含まれる微細な揺らぎを分離すれば、対象が動いていなくても、生体活動の存在を推定できる。


 受信信号を簡略化すると、次のように表せる。


 z(t) = r(t) + h(t) + m(t) + n(t)


 ここで、r(t)は呼吸による低周波成分、h(t)は心拍に伴う微小変位、m(t)は装置自身の移動や姿勢変化、n(t)は反射物や電子回路から生じる雑音である。


 問題は、h(t)が最も小さいことだった。


 机上では人間が静止し、センサも静止している。戦場では両方が動く。装備を着けた兵士が走れば、検出したい胸郭の変位より、センサ自身の揺れの方が何桁も大きくなる。


 そこで試作機は、慣性センサから得た加速度と角速度を参照し、m(t)に相当する成分を差し引いた。完全には消せない。壁の材質、入射角、金属家具、複数人の重なりでも結果は変わる。厚い石壁の向こうでは呼吸を拾えても、心拍までは安定しない場合があった。


 したがって、初期型が答えられたのは「この方向に、生きた人間がいる可能性が高い」という問いまでである。


 誰であるかは分からない。


 敵か味方かも分からない。


 負傷者か、息を潜めた兵士か、眠っている住民かも分からない。


 センサが示すのは判決ではなく、捜索すべき場所だった。


二 十二バイトの無線


 生体反応を検出できても、その結果を音声で報告し続ければ通信路が埋まる。


 低出力無線には、映像を送る余裕も、長い会話を運ぶ余裕もない。電波が遠くまで届くほど、一般に通信速度は低下する。遮蔽物を避けるため再送を増やせば、同じ周波数を使う端末同士が衝突する。


 OKB-0が選んだのは、観測値を送るのではなく、観測値の意味だけを送る方法だった。


 試験用パケットは十二バイト前後で構成された。


 端末識別子。時刻差。位置の差分。生体反応の有無。移動状態。センサの信頼度。誤り検出符号。


 心電図も音声も入らない。


 そこに入るのは、「三番端末の北二十メートル、呼吸様反応一、信頼度低」といった、機械が扱える短い意味である。


 情報を削ったのではない。現場で次の判断に必要な部分だけを残した。


 各端末は受信機であると同時に、中継器でもあった。直接届かない相手へのパケットは、途中の端末が保持して転送する。ある端末が失われれば、残った端末が別の経路を探す。大出力の基地局一基に全員を従属させるより遅いが、その一基を破壊されて全員が沈黙することもない。


 これが「段ボール無線機」の本体だった。


 安価な部品ではない。


 壊れることを前提にした構造である。


三 沈黙は死亡を意味しない


 試験報告書でもっとも多く修正されたのは、探知距離でも通信速度でもなく、表示文だった。


 初期画面は、一定時間応答のない端末を赤く表示した。


 現場から苦情が出た。


 通信不能と死亡を、同じ色で表示するな。


 端末が沈黙する理由はいくつもある。地下へ入った。建物の陰へ回った。電池が切れた。アンテナが折れた。電源を意図的に落とした。妨害を受けた。あるいは、本当に装着者が死亡した。


 無線から観測できるのは「パケットが来ない」という事実だけであり、その理由ではない。


 以後、表示は少なくとも三つに分けられた。


 生体反応あり。


 生体反応なし。


 観測不能。


 最後の二つを分けることは、電子工学上の小さな変更だった。救助に向かう人間にとっては、まったく異なる命令になった。


四 性能と限界


 段ボール無線機は、妨害電波を無効化する装置ではない。


 十分に強い妨害を受ければ通信は止まる。金属船体や地下構造物では電波が閉じ込められ、地形によっては数十メートル先へも届かない。中継する端末が増えるほど遅延は伸び、短時間に多数が送信すれば衝突も増える。


 心音センサも、壁越しに人間を透視する装置ではない。


 呼吸と心拍は非常に弱い周期運動であり、走る人間、回転する機械、振動する車両の近くでは容易に埋もれる。複数の反応が同じ距離に重なれば分離は難しい。検出結果には必ず信頼度が付され、低い値は低いまま表示された。


 それでも、従来の無線にはなかった性質が一つあった。


 声や座標だけでなく、生体反応という不完全な証拠を通信網そのものが運べたことである。


 兵士が無線機を持つのではない。


 兵士一人ひとりが、通信網の一部になる。


 その発想は後に何度も改修され、別の装備、別の名称、別の目的へ枝分かれしていった。最初の試作機に、後世語られるような能力の大半はなかった。


 あったのは市販の基板、剥き出しの配線、熱を持つ電池、誤判定の多いセンサ、そして部品を入れてきた段ボール箱だけだった。


 戦争はしばしば、巨大な兵器の名で記録される。


 だが、後に公国軍の戦い方を変えたものの一つは、兵器に見えなかった。


 それは敵を殺した数ではなく、まだ生きている者を捜すために作られた。


 電子工房の試験記録には、設計思想を示す一文だけが残されている。


 ――応答がないことを、死と決めつけてはならない。

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