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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第二話 防火壁



 午前零時十八分。ルーデニア帝国の皇都では、まだ灯りの消えない窓がいくつもあった。


 皇太子の亡命から一日も経っていない。


 宮殿はイヴァン・ヴォルコフに近い官僚と軍人の拘束を始め、国営放送は彼を国家反逆者と呼び続けていた。キミロフ大公国への侵攻については、先に攻撃された帝国が自衛措置を取ったのだと説明している。


 最初の巡航ミサイルが宣戦布告より前に発射されたことには、触れていなかった。


 アナスタシア・オルロヴァは、邸宅二階の執務室で放送を消した。


 机には帝国財務府から届いた封書が置かれている。翌朝をもってオルロヴァ商会の倉庫、航空機、国外口座を保全措置の対象とする。そう記されていた。


 保全とは、便利な言葉だった。


 皇帝は商会が持つ兵器と輸送網を欲しがっている。アナスタシア本人には、皇太子の亡命へ協力した疑いを認めさせたい。署名すれば帝国軍の調達業者として生き残れるかもしれないが、以後、彼女の品物がどの街を焼くかは選べなくなる。


 署名しなければ、商会ごと反逆者になる。


 卓上端末が一度だけ振動した。


『十五分後、南庭。手荷物一つ。照明を点けないでください』


 送り主の表示はない。キミロフ大公国の第88特務支援群が使う暗号鍵で署名されていた。


 アナスタシアは短い返信を送った。


『二名』


『承知しています』


 机の引き出しから拳銃を取り出し、弾倉を確かめる。持ち出す鞄には着替えより先に、商会の契約台帳と暗号鍵を入れた。武器商人の財産は倉庫の中身だけではない。誰が、何を、いつ、どれだけ必要とするか。その記録と信用こそが本体だった。


 廊下へ出ると、隣室の扉が開いた。


 妹のイリーナが、小型の記憶装置をコートの内側へしまっている。寝間着ではなく外出着を着ていた。


「起こす手間が省けたわね」


「姉上が放送を三度巻き戻したところで、出ると思いました」


「見ていたの?」


「壁が薄いので」


 イリーナは二十四歳で帝国中央大学の准教授になった。理論を話す時には冷静だが、いま唇の色が薄い。平静なのではなく、恐怖を処理するために手順へ置き換えているのだと、姉には分かった。


「大学に残れば、あなたまでは拘束されないかもしれない」


「商会の暗号通信を設計したのは私です」


「研究目的だったと言える」


「姉上は、私だけを残していけますか」


 アナスタシアは答えなかった。


 それが答えになった。


「公国へ行くわ。今夜を逃せば、次はない」


「はい」


「帝国を捨てることになる」


「国境のこちら側にいるというだけで、皇帝の判断まで引き受ける必要はありません」


 確率やゲーム理論を持ち出さない妹を、アナスタシアは初めて少しだけ幼く感じた。


「怖い?」


「怖いです」


「私もよ」


 二人はそれ以上を言わず、灯りを消した。


     *


 南庭には、紋章も部隊章も付けていない装甲車が二台待っていた。


 第88特務支援群の隊長が後部扉を開ける。


「国境まで陸路では間に合いません。郊外の貨物飛行場まで運び、そこから西部州へ飛びます。飛行計画は医療物資の輸送便として登録済みです」


「誰がそこまで?」


「大公陛下の命令です。お二人と、持ち出せる研究資料を確保せよと」


 アナスタシアは一瞬、立ち止まった。


「首都を失った当日に、帝国内の人間を助ける余裕があるの?」


「余裕があるからではありません。必要だからです」


 率直な返答だった。


 二人が乗り込むと、装甲車は音を抑えて邸宅を離れた。


 皇都の大通りには検問が増えていた。だが一行は中心部を避け、商用車の集まる外郭路を進んだ。貨物飛行場では、双発の輸送機がエンジンを回したまま待っている。


 短い飛行の後、西部州の農業飛行場で別の装甲車へ乗り換えた。夜明け前には国境検問所の手前へ到達した。


 遮断機は下りている。


 隊長が時計を見た。


「二分待ちます」


「開かなければ?」


「別の門を作ります」


 冗談には聞こえなかった。


 一分四十秒後、検問所の照明が消えた。遮断機が上がり、詰所の兵士たちは道路と反対側を向いた。帝国財務府に通じる協力者が、最後の仕事をしたのだろう。


 装甲車は速度を落とさず、白線を越えた。


「キミロフ大公国領です」


 隊長の言葉に、イリーナが窓の外を見た。


 景色は変わらない。同じ暗い畑と、同じ舗装路が続いている。国境を越えた実感は、追ってくる車両がないことだけだった。


「姉上。戻りたいですか」


 アナスタシアは、膝の上の鞄を抱え直した。


「戻りたい場所はある。でも、戻れる帝国はもうないわ」


 窓の向こうで、東の空が薄く白み始めていた。


     *


 午前六時。西部臨時政府所在地の郊外にある研究施設では、警戒警報が鳴っていた。


 公国特殊装備調査庁――通称OKB-0。


 表向きは民間の情報技術研究所だが、その地下には実験工房、暗号設備、兵器試験用の演算機が集められている。首都を失ったキミロフ大公国にとって、ここは軍需工場より再建に時間のかかる施設だった。


 コヴァリョフ少将は、作戦室中央で車椅子を止めた。


「もう一度、敵編成を」


「東方百キロ。Su-35四機、Il-76六機。低高度にKa-52八機、Mi-8十二機。複数方向から接近しています」


「輸送機は囮ではないな」


「降下部隊の通信を傍受しています。目標呼称は『炉心』。この施設です」


 帝国はOKB-0の所在地だけでなく、価値まで把握している。昨日今日の偵察で得られる情報ではない。


「内通者がいたか」


 ソフィアが言った。


「その調査は生き残ってからだ」


 コヴァリョフは防衛配置を確認した。


 第88特務支援群の一個中隊と、ヘーチマン社の機甲部隊は昨夜から施設周辺に展開している。Patriot PAC-3の一個射撃隊、AH-64E四機、戦車と歩兵戦闘車。決して小さな戦力ではない。


 だが、首都防衛に兵力を割いた直後だった。追加部隊の到着には、早くても一時間かかる。


「技術者は地下退避区画へ。試作機と研究資料は西側サーバーへ複製。敵が建物へ入った場合、こちらの端末は全消去する」


「先生は?」


「ここで指揮する」


「私も残ります」


「駄目だ。Su-24MPを上げろ」


 ソフィアは返事をしなかった。


 格納庫では、電子戦型Su-24MPの発進準備が進んでいる。敵の捜索レーダーと部隊通信を妨害し、こちらの増援が到着するまで空の回廊を維持する。それが彼女に割り当てられた役目だった。


「地上の妨害装置だけでは、最初の対レーダー攻撃で沈黙する。飛んでいれば妨害源を動かせる」


「理屈は分かっています」


「なら行け」


「先生は、私を施設から遠ざけたいだけではありませんか」


 コヴァリョフは、そこで初めて彼女を見た。


「それもある」


 嘘をつかなかった。


「だが、お前にしかできない仕事なのも事実だ。私を守りたいなら、上で全員を守れ」


 ソフィアは数秒黙り、敬礼した。


「了解しました」


 彼女が作戦室を出ていった後、コヴァリョフは小さく息を吐いた。


「頑固なところだけ、誰に似たんだ」


 オペレーターは聞こえなかったふりをした。


     *


 西部の仮設司令部では、ヴォロディミル大公が同じ航空図を見ていた。


 着替えた黒いスーツの下には、前日の脱出で受けた打撲が残っている。それでも机の上にあるのは自分の身体の診断書ではなく、首都の被害報告と難民輸送計画だった。


「OKB-0の防衛指揮はコヴァリョフが?」


「はい。第88特務支援群とヘーチマン社が配置済みです。シェレメート隊は給油を終え、増援に向かっています」


 ザハルチェンコが答えた。


「私も現地へ行く、と言えば止めるか」


「機体の準備をする前に、この部屋へ鍵を掛けます」


「正しい判断だ」


 大公は航空図から目を離した。


 前日なら、自分で銃を取ることにも意味があった。最後の政府職員を逃がし、自分も首都を脱出するためだ。


 いま現地へ行っても、指揮系統を増やすだけになる。戦えることと、戦うべきことは同じではない。


「現地には手を出さない。コヴァリョフの要求を最優先で通せ。私は首都からの避難民と、西部の防衛線を動かす」


「了解しました」


「ただし、施設を失った場合の撤収案も用意しろ。建物を守るために人間を使い切るな」


     *


 午前六時三十二分。帝国軍の第一波が交戦圏へ入った。


 四機のSu-35が高度を上げ、長距離から対レーダーミサイルを放った。OKB-0外周の囮電波源が次々と破壊される。丘陵の陰に伏せていたPatriot射撃隊は、最後まで主レーダーを沈黙させていた。


 後続する六機のIl-76が降下経路へ入る。


「射撃隊、目標を輸送機へ限定。二斉射後は陣地放棄」


 コヴァリョフの命令でレーダーが起動した。


 帝国側も、そこに防空部隊がいることは予想していたはずだ。それでも輸送機は針路を変えない。防空制圧が成功したと判断したのか、いまさら引き返せないのか。


 PAC-3が発射された。


 一機目のIl-76は右翼から火を噴き、編隊を離れた。操縦者は機体を無人地帯へ向けようとしたが、高度を保てない。遠方の林へ消えた数秒後、黒煙が立ち上った。


 二機目は至近で弾頭が炸裂し、胴体を損傷した。空挺兵を降ろさず東へ反転する。


 残る四機は予定地点へ到達する前に後部扉を開いた。


「降下開始。施設東側、七キロ」


 空に落下傘が広がる。


 風に流され、林へ落ちる者がいた。開傘する前に地上からの射撃を受ける者もいた。それでも大半は着地し、分隊ごとに集まり始める。


 彼らも命令を受けて降りてきた兵士だった。だが、施設へ到達すれば技術者を連れ去り、設備を帝国のものにする。


「第88中隊、東側防御線へ。降下直後を追い回すな。施設へ通じる三本の道路で止めろ」


 敵を殺した数ではなく、何を守れたかで勝敗を決める。


 コヴァリョフは、その原則を繰り返した。


 二斉射を終えたPatriot射撃隊がレーダーを停止する。直後、対レーダーミサイルがレーダー車を直撃した。操作員は退避壕へ入っていたが、射撃隊は目を失った。


 輸送機二機と引き換えに、防空の切り札を一つ使い切ったことになる。


     *


 午前七時。低空から第二波が現れた。


 八機のKa-52が先行し、その後ろを十二機のMi-8が地形に沿って飛んでくる。輸送ヘリは東側防御線を迂回し、施設の南と北へ兵を下ろすつもりだった。


 四機のAH-64Eが二機ずつに分かれ、丘の陰から上昇した。


 空中戦と呼んでも、戦闘機同士の格闘戦とは違う。互いに地形と建物へ身を隠し、センサーだけを覗かせ、先に発見した側が誘導弾を撃つ。


 先頭のAH-64Eが発射したミサイルは、低空を進むKa-52の一機を捉えた。爆発を見た残りの攻撃ヘリが散開し、地上の発射位置へロケット弾を浴びせる。


「レイヴン2、被弾。油圧低下」


『着陸できるか』


「南の畑へ降ろす。後席が負傷」


 一機が煙を引きながら戦列を離れた。


 別方向では、Ka-52の空対空ミサイルが二番機へ向かっていた。警報を受けた操縦者が機体を谷へ落とし、フレアを撒く。ミサイルは外れたが、その間にMi-8の一群が施設北側へ入り込んだ。


 北側道路を守る第88特務支援群のM1A2が砲塔を向ける。だが、建物の陰から上がったKa-52が先に対戦車ミサイルを放った。弾頭は砲塔正面を外れ、履帯と起動輪を破壊する。乗員は脱出したが、道路を塞いでいた車体は動けない。


 Mi-8はその死角へ降りた。


「敵兵、北側資材置き場に降下!」


「予備小隊を回せ。南側はヘーチマン社に任せる」


 施設南側では、ボフダン・マゼパが戦車壕の後ろで無線を握っていた。


 彼の会社が保有する戦車は、T-72、M60A3、Leopard 1と製造国も年代も異なる。整備班は三種類の部品と砲弾を管理しなければならず、同じ隊列で動かせば補給が破綻する。


 だからマゼパは、車種ごとに小隊を分けた。T-72は正面道路、M60A3は南側の農道、機動性の高いLeopard 1は西側予備。無線周波数と射界だけを統一している。


「弾薬を混ぜるな。追うな。自分の道路へ入った敵だけ撃て」


 Mi-8から降りた歩兵が林を抜け、装輪装甲車とともに農道へ出た。


 T-72の主砲が火を噴く。


 先頭車両が止まり、後続が道を外れた。そこへ別の戦車壕からM60A3が射撃する。


「寄せ集めには、寄せ集めなりの戦い方がある」


 マゼパは次の目標を指示した。


 だが、北側へ降りた帝国兵は外周警備を突破していた。


 銃声が、研究棟の中へ入った。


     *


 午前七時二十八分。


「北側防火扉、突破されました。敵二個分隊が研究棟へ侵入」


 作戦室の照明が赤へ変わった。


 コヴァリョフは施設内の映像を切り替えた。帝国兵が二階と三階へ分かれて進んでいる。狙いは技術者と中央サーバーだ。


「作戦室要員は地下へ。複製処理を終了し、地上系統を消去」


「少将も退避を」


「この端末の物理鍵は私が持っている。消去を確認したら下りる」


 部下は何か言いかけたが、廊下の銃声が近づいた。


「命令だ。行け」


 最後の二人が退出すると、コヴァリョフは車椅子を中央サーバー室前の通路へ進めた。


 隔壁を閉め、非常用の操作盤へ物理鍵を差す。西側への複製完了を示す表示が点灯した。


 地上端末の記録を消去する。


 これで敵が建物を取っても、研究成果は奪えない。


 隔壁の向こうから爆破音がした。蝶番が歪み、二度目の衝撃で扉が内側へ倒れる。


 先頭の帝国兵が踏み込んだ。


 コヴァリョフは車椅子の肘掛けに隠していた拳銃を抜き、二発撃った。


 一発目は先頭の胸へ入り、二発目は後ろの兵士の肩を捉えた。三人目が壁際へ伏せ、反撃する。弾丸が操作盤を砕き、破片がコヴァリョフの頬を切った。


「武器を捨てろ!」


 帝国兵が叫んだ。


「殺すな。技術者の居場所を聞く」


 コヴァリョフは残弾を数えた。


 廊下の角に三人。倒れた兵士の後ろにも足音がある。若い頃の腕が残っていても、車椅子と拳銃一挺で勝てる数ではない。


「私は技術者ではない」


「では誰だ」


「この建物で、お前たちが最も生け捕りにしたい人間だ」


 敵兵の動きが止まった。


 時間を稼げればいい。


 防衛線が戻るまで。技術者が地下を抜けるまで。上空の彼女が、自分の沈黙に気づくまで。


     *


 高度百五十メートルを飛ぶSu-24MP。その右席で、ソフィアは施設内通信の途絶を確認した。


「地上指揮所、応答してください」


 返事はない。


 最後に受信したのは、北側防火扉が破られたという報告だった。


 左席の操縦士は機体を地形に沿わせながら、脅威表示へ視線を走らせた。


「滑走路は攻撃下です。いま戻っても降りられません」


 ソフィアの受信画面には、研究棟周辺で急増した敵地上部隊の短距離通信が重ねられている。味方の外周部隊も、北側へ反転を始めていた。


 コヴァリョフの命令は、上空に残って妨害回廊を維持することだ。施設へ戻っても、Su-24MP一機で建物内の兵士を撃ち分けることはできない。


「地上へは戻りません。妨害区域を施設中心へ移します」


「味方通信も巻き込みます」


「事前共有した周波数跳躍表へ切り替えます。敵だけを完全に消すことはできません。ですが、敵の指揮と航空支援は遅らせられます」


 ソフィアは妨害装置の出力制限を解除した。


「左へ。施設北側を回ってください」


「了解」


 操縦士が機体を傾ける。Su-24MPは低高度を保ったまま、施設北側へ針路を変えた。


 帝国軍の戦術無線へ雑音が重なり、Ka-52と地上誘導員を結ぶデータリンクが断続的に途切れ始める。同時にソフィアは、受信した敵レーダーの位置を第88特務支援群と味方戦闘機へ送った。


「先生を見捨てる方が、命令違反です」


 その言葉は、送信回線には流さなかった。


 西から、二つの味方識別信号が高速で近づいてくる。


 シェレメートとソーコルのMiG-29OVTだった。


『こちらジュラーヴリク。遅れた』


「敵Su-35は施設東側。Ka-52は複数機が施設周辺に残存。地上部隊との通信は妨害中です」


『十分。固定翼を東へ押し戻す』


 二機のMiG-29OVTは正面からSu-35へ突っ込まなかった。ソフィアが示したレーダー空白域を使い、輸送機の退路へ回り込む。


 帝国側は、すでに奇襲の利点を失っている。空挺部隊は施設へ入ったが、サーバーを確保したという報告はない。防空部隊は残り、公国側の増援が到着し始めた。そこへ帰路を塞ぐ戦闘機が現れた。


 Su-35隊は追撃より護衛を選び、東へ向きを変えた。


 航空支援を失ったKa-52も低空へ退く。Mi-8は回収できる兵だけを乗せ、散発的に離脱を始めた。


 地上では、第88特務支援群の予備隊が北側資材置き場を奪い返した。研究棟へ入った帝国兵は、無線を失ったまま建物内で孤立する。


 中央サーバー室前の廊下へ閃光弾が転がった。


 コヴァリョフは目を伏せた。


 爆音の後、帝国兵とは異なる短い射撃が続く。


「第88特務支援群です。少将、ご無事ですか」


 味方の声だった。


 コヴァリョフは拳銃を床へ置いた。


「遅い」


「申し訳ありません」


「謝罪は後だ。地下の技術者を確認しろ」


 頬から流れた血が、襟へ落ちていた。


     *


 午前八時三十分。


 戦闘が終わっても、研究施設の警報は止まらなかった。


 格納庫前には応急救護所が設けられ、負傷者が所属に関係なく並べられている。第88特務支援群十四名、ヘーチマン社八名が死亡。負傷者は合わせて四十二名。AH-64Eは一機を失い、もう一機も不時着で大破した。


 帝国側の損害は、まだ数えられていない。


 撃墜された輸送機にも、林で包囲された空挺兵にも、それぞれの名前がある。捕虜は武装を解かれ、負傷者から先に治療を受けていた。


 技術者は全員、生存している。中央サーバーの記録も西側へ複製できた。


 建物と研究は守られた。


 その一文だけでは、二十二人が帰らないことを説明できなかった。


 Su-24MPが滑走路上で停止すると、ソフィアは整備員が駆け寄るより先にキャノピーを開いた。搭乗梯が掛けられるのを待ち、右席から地上へ降りると、そのまま研究棟へ向かった。


 コヴァリョフは救護所の端にいた。頬の傷を縫われ、右手には発砲時の火傷を覆う包帯が巻かれている。


「先生」


「機体は」


「被弾なし。妨害装置も正常です」


「そうか」


「命令を守りました」


 コヴァリョフは彼女を見上げた。


「半分だけだろう」


「地上へは戻っていません」


「妨害区域を勝手に変えた」


「必要でした」


「結果としてはな」


 叱責されているのか認められているのか、判然としない言い方だった。


「技術者は全員無事だ。私も生きている。お前の仕事だ」


 ソフィアは答えず、彼の車椅子の背へ手を置いた。


 押す必要はなかった。電動機は正常に動いている。


 それでもコヴァリョフは、止めなかった。


     *


 同じ頃、オルロヴァ姉妹を乗せた車両が西部の臨時政府庁舎へ到着した。


 アナスタシアの鞄には、帝国軍へ兵器を納めてきた商社の契約網がある。イリーナの記憶装置には、帝国側へ残せなかった暗号通信の研究が入っている。


 二人は祖国を失ったのではない。


 祖国が何を命じても従うという立場を、自分の意思で捨ててきた。


 ヴォロディミル大公は、OKB-0から届いた損害報告と、姉妹の到着報告を並べて読んだ。


「施設は守りました。しかし、次はさらに大きな戦力が来ます」


 ザハルチェンコが言った。


「分かっている」


 大公は戦況図の南へ目を移した。


 帝国軍の攻撃を受けるたび、防空弾も燃料も人員も減る。守る場所が増えれば、いつか必ず薄い箇所を破られる。


「防火壁は、攻撃を止めるためのものではない。次の手を打つ時間を作るものだ」


「次の手とは」


「守るだけの戦争を終わらせる」


 大公は帝国南部の補給拠点を指した。


「ロドネフを叩く。あそこから来る航空燃料と弾薬を止める」


 昨日まで、キミロフ大公国は首都を守る側だった。


 この朝、生き残った者たちは初めて、帝国領内へ反撃することを決めた。

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