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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第一話 夜明け前の亡命



 国境まで、あと二十分だった。


 イヴァン・ヴォルコフは、手元の時計から顔を上げた。


 窓の外には夜明け前の空が広がっている。雲の切れ間に細い光が滲んでいたが、地上はまだ闇に沈んでいた。Il-96-300PUは機体をわずかに震わせながら、ルーデニア帝国西部の上空を飛び続けている。


 皇帝の移動司令部として造られた機体だった。暗号通信設備、作戦指揮区画、皇族用の居室を備え、戦時には空中から帝国軍を動かせる。


 今朝、その機能のすべてが帝国から持ち去られようとしていた。


「針路に変化は?」


 イヴァンが尋ねると、壁際の通信士が振り返った。


「ありません。予定航路を維持しています。国境までは十九分です」


「追跡は」


「管制からの呼びかけが増えています。まだ飛行中止命令だけですが、応答しなければ迎撃機が上がります」


「応答するな」


 短く命じてから、イヴァンは客室を見渡した。


 帝国皇太子イヴァン・ヴォルコフ。四十二歳。つい昨日までなら、この機内で最も安全な人間だった。


 今は違う。


 通信を切り、父である皇帝の許可なく国境へ向かっている。法の文言をいくつ重ねても、最後に残る罪名は一つだった。


 反逆。


「後悔してる?」


 向かいの席に座るタチアナが訊いた。愛称はシーリン。皇太子妃であり、かつては帝国空軍の戦闘機操縦士だった。厚い窓の向こうへ目を向ける仕草には、操縦席にいた頃の癖が残っている。


「していない」


「まだ訊き終わってない」


「君が何を訊くかは分かっている」


「そういうところ、陛下に似てきたわね」


 父を示す称号が出ても、イヴァンは表情を変えなかった。


 皇帝は止まらない。このまま権力を握らせておけば、周辺国だけでなく帝国の民まで戦争へ引きずり込む。宮廷で諫める時間は終わった。軍の中枢と証拠を持ち出し、外から止めるほかない。


 そう判断したのは自分だ。


 妻と子を同じ機体へ乗せたのも、自分だった。


「父上」


 小さな声に呼ばれ、イヴァンは隣を見た。


 八歳のアレクセイが、安全帯を握り締めている。眠れなかったのだろう。目の下には薄い隈があった。


「怖いか」


 アレクセイは少し考えてから、うなずいた。


「少しだけ」


「私もだ」


「父上も?」


「怖くない人間は、何を失うか分かっていない。怖くても進むと決めることはできる」


 以前なら、もっと勇ましい言葉を選んでいただろう。男なら進め、皇族なら恐れるな、と。


 だが、自分の決断で故郷を捨てさせた子供に、恐怖まで禁じる資格はなかった。


「国境を越えたら、もう帰れないの?」


「すぐには帰れない」


「いつ帰れる?」


「分からない」


 嘘だけは言わなかった。


 窓の外で航法灯が明滅した。機体の左右を、十二機の戦闘機が固めている。皇太子直属の黒刃隊。彼らもまた、家族や基地や軍歴を帝国側へ残してきた。


 これは皇族一家の逃亡ではない。


 空中指揮機の後方には、暗号要員、参謀、整備員を乗せた三機の大型機が続いている。帝国軍の神経を一部切り取り、編隊ごと国外へ運び出す亡命だった。


 計画を伝えた時、全員が賛同したわけではない。父への忠誠を選んだ者もいれば、家族を残しては行けないと断った者もいた。イヴァンは彼らを拘束しなかった。ただ職務から外し、作戦開始まで通信できない部屋へ集めた。


 それでも、この四機へ乗った者は百人を超える。


 彼らは命令されたから来たのではない。皇帝の下へ残るより、祖国を裏切る汚名を選んだ。その判断が正しかったかどうかを、今後の行動で証明しなければならない。


 通信士がヘッドセットへ手を当てた。


「殿下。管制から最終警告です。直ちに東へ反転せよ。従わない場合、敵対行動と見なす、と」


「現在の針路を維持」


「了解」


 タチアナが静かに息を吐いた。


「これで、本当に裏切り者ね」


「帝国に対してはな」


「では、誰の味方?」


 イヴァンは答えるまでに数秒を要した。


「生き残らなければならない者の味方だ」


 それが皇族らしい答えなのかは分からない。少なくとも、父なら決して言わない答えだった。


     *


 午前五時十五分。


 国境の西側では、二機のMiG-29OVTが編隊を組んで待っていた。


 推力偏向機構を備えた実験改修機である。量産には至らなかった二機をキミロフ大公国が引き取り、実戦運用できる状態へ仕上げていた。


「見えた?」


 先頭機のシェレメートが、いつもの間延びした調子で尋ねた。


『大型機を確認。先頭はIl-96、後続三機。護衛十二』


 僚機のソーコルは、対照的に抑揚がない。


「黒刃隊も全部来たんだ。皇太子、本気だね」


『遊びでは国を捨てません』


「それもそうか」


 二機は国境線と平行に飛んでいた。レーダー画面の東端から、大型機の編隊が近づいてくる。


 予定どおりなら、越境と同時にキミロフ側の管制へ引き渡し、西部前線基地まで護衛する。問題は、ルーデニア帝国がそれを黙って見送るかどうかだった。


「亡命編隊へ。こちらジュラーヴリク。応答できる?」


 短い雑音の後、低い男の声が返ってきた。


『こちらヴォルク。感度良好。迎えに感謝する』


「あと二分で国境。越えたら、私たちの後ろについて」


『大公はキミロフに?』


「まだ首都にいる。受け入れを確認したら西部へ移る予定」


『最後まで残るつもりか』


「そういう人だからね」


 午前五時十九分。


 Il-96-300PUが国境を越えた。


 通信士がトランスポンダーの識別符号を切り替える。帝国軍機を示していた表示が消え、事前に通知された亡命編隊の符号へ変わった。それだけの操作で、追う側と迎える側が確定した。


 続いて三機の大型機と、黒刃隊の十二機がキミロフ大公国領空へ入る。管制権の移管を示す短い交信が続き、二つの編隊が一つになった。


「ようこそ。ここから先は――」


 警報音がシェレメートの言葉を切り裂いた。


『高速目標、三。東から接近』


 ソーコルの声と同時に、レーダー画面へ三つの光点が現れた。


 MiG-31。帝国の迎撃機だった。


『亡命編隊へ。直ちに反転せよ』


 無線へ割り込んだ声は、命令というより最後通牒だった。


『皇太子殿下。これは皇帝陛下の勅命です』


 イヴァンの返答に迷いはなかった。


『拒否する』


『ならば、武力をもって連れ戻す』


 黒刃隊がIl-96の周囲で陣形を狭めた。


 シェレメートは操縦桿を倒し、MiG-29OVTを東へ反転させる。ソーコル機も遅れず続いた。


『二機で迎撃するつもりか』


「十二機は、その大きな機体を守って。追ってきた三機は私たちが止める」


『敵はMiG-31だ』


「知ってる」


『勝算は』


「国境を越えさせない。それで十分」


 二機のMiG-29OVTが夜明けの光を背に、帝国から来る三機へ正面から向かっていった。


     *


 最初の警報は、ミサイル発射の十秒前に鳴った。


「散開」


 シェレメートは機体を急降下させた。長距離戦ではMiG-31が優位に立つ。速度もレーダーも、こちらより上だった。正面から撃ち合えば、二機の実験機に勝ち目はない。


 だから、相手の目的を利用する。


 追撃隊は皇太子を生かしたまま連れ戻さなければならない。大型機へ無差別に撃ち込むことはできない。二機が低空へ逃げれば、追撃隊は上空へ残るか、編隊を分けるしかなかった。


 警報音が連続音へ変わる。


 シェレメートはチャフを放ち、飛来方向へ機体の腹を向けないよう針路を折った。直後、ミサイルが右後方を抜けた。爆発の衝撃が翼を殴り、計器が一度だけ暗転する。


『一機、降りてきます』


「食いついたね」


 三機のうち一機が高度を捨て、シェレメートを追っていた。残る二機は大型機へ向かう。ソーコルがその中間へ割り込み、敵レーダーの視線を奪った。


 シェレメートは地表すれすれまで降り、谷筋に機体を滑り込ませた。後方のMiG-31は速すぎた。狭い空域では、その速度を持て余す。


 岩稜を越えた瞬間、シェレメートは推力偏向ノズルを使って機首を跳ね上げた。速度を失った機体が空へ立ち、追い越したMiG-31の腹が視界を横切る。


 物理法則を無視したわけではない。速度と高度を代価に、通常機より早く機首を向けただけだ。失敗すれば、再加速する前に撃ち抜かれる。


「一機目」


 短距離ミサイルがMiG-31を追った。敵機はフレアを撒きながら旋回したが、低高度へ降りすぎていた。爆発が左翼の付け根を包み、機体は谷の向こうへ消えた。


 脱出は見えなかった。


『こちらソーコル。二機目、兵装投棄。操縦者は射出しました』


「あなたが落とした?」


『右エンジンを損傷させました。継戦不能と判断したようです』


 残る光点は一つ。


 そのMiG-31は追撃を続けているように見えた。だが照準レーダーを大型機へ向けず、国境沿いの無人地帯へ針路をずらしている。


 無線に、雑音混じりの短い送信が入った。


『雪は、西へ降る』


 作戦計画に一度だけ書かれていた言葉だった。


「確認した。回収地点まで四十秒」


『了解』


 敵機の操縦者――ニコライは、帝国側に残って追撃命令を受ける役目だった。彼まで事前に亡命すれば、計画は離陸前に潰されていた。


 MiG-31の片側エンジンから炎が噴いた。機内に仕込んだ小さな破壊装置だ。機体が煙を引いて降下し、数秒後に射出座席が飛び出す。


 無人になった迎撃機は丘陵へ落ちた。


 落下傘の下で、救難発信器が予定の識別信号を送り始める。シェレメートはその位置を西部前線基地へ転送した。


「回収班、お願い。追撃三機は排除。亡命編隊は?」


『針路を維持。基地まで二十二分です』


「なら、帰ろうか」


 そう答えた時、東の空が完全に明るくなった。


 夜は越えた。


 だが、追っ手を振り切っただけで戦争が終わるはずもなかった。


     *


 午前五時四十分。ルーデニア帝国の宮殿では、参謀総長が皇帝の机の前に立っていた。


「越境を確認しました。皇太子殿下のIl-96-300PUほか大型機三機、黒刃隊十二機。搭乗者には参謀、暗号要員、整備班が含まれます」


 皇帝は報告書へ目を落としたまま、動かなかった。


「追撃隊は」


「三機とも喪失。一名死亡、五名は所在を確認できません」


「イヴァンは国境を越えたのだな」


「はい」


 沈黙が落ちた。怒号も、物が壊れる音もなかった。その静けさの方が、参謀総長には恐ろしかった。


「では、あれはもう私の息子ではない」


 皇帝は報告書を閉じた。


「第三号計画を発動。キミロフの防空網を潰し、政府中枢と飛行場を制圧せよ。大公は生死を問わない。皇太子と持ち出された暗号資料は回収する」


「第三号計画を、今ですか」


 参謀総長は訊き返してしまった。


 第三号計画は、今朝作られた報復案ではない。巡航ミサイル部隊も空挺軍も、数週間前から発進待機に置かれている。残っていたのは、皇帝が発動を命じることだけだった。


「何か問題があるか」


「……ありません。ただ、市街地への被害は避けられません」


「避ける努力はしろ」


 慈悲を示すような言葉だった。


 続いた一言が、その錯覚を消した。


「それで作戦を遅らせるな」


 参謀総長は敬礼した。


「御意」


 退室しようとした背中へ、皇帝が声を投げた。


「宣戦布告は、第一波の着弾後に出す」


 奇襲ではないと主張するための宣言を、奇襲の後で出す。


 参謀総長は振り返らなかった。


     *


 午前六時過ぎ、亡命編隊は西部前線基地へ着陸した。


 Il-96のタラップを降りたイヴァンを、冷たい風と燃料の臭いが迎えた。滑走路脇には、車椅子のコヴァリョフ少将と若い女性士官、その後ろに記章を外した兵士たちが並んでいる。


 兵士たちは第88特務支援群。キミロフ大公国の正規軍名簿には存在しない部隊だった。


「皇太子殿下。コヴァリョフです」


 少将は座ったまま敬礼した。


「公国を代表し、亡命を受け入れます。同行者の身分と意思は個別に確認します。武装は確認終了まで我々が管理する。それでよろしいか」


「従う。特権は求めない」


 皇族だからという理由で検査を省かれれば、受け入れる側の兵士は納得しない。イヴァンが手を差し出すと、コヴァリョフは一拍置いてから握り返した。


「大公は?」


「キミロフに残っています。政府機能の退避が終わり次第、こちらへ向かう予定です」


「帝国軍は動く。すぐに呼び戻した方がいい」


「すでに進言しました」


「聞かなかったか」


「あの方は、最後の公務員が首都を出るまで残ると」


 タチアナがタラップの途中で足を止めた。


「最後まで、という言葉は好きではないわ」


「私もです」


 コヴァリョフの隣にいた女性士官が、携帯端末へ手を当てた。顔色が変わる。


「少将。早期警戒網から緊急報。東方で多数の巡航ミサイル発射を探知しました。推定目標はキミロフ。後続に大型輸送機群」


 滑走路にいた者たちが一斉に東を見た。


 ここから首都は見えない。朝の空が、何事もないように明るくなっているだけだった。


「到達予想は?」


「第一波まで一時間弱」


 コヴァリョフは車椅子の肘掛けを強く握った。


「ソフィア。首都へ警報。防空司令部に迎撃権限を移譲。基地は第二級戦闘配置」


「了解」


 イヴァンは、自分たちを運んできた空中指揮機を振り返った。


 父は息子を取り戻すために追撃機を出したのではない。亡命を口実に、すでに用意していた戦争を始める。


 その可能性を知りながら、ここへ来た。


「少将。帝国の防空識別符号と第一線部隊の暗号更新規則を渡す。今朝のうちは使える」


 コヴァリョフはイヴァンを見上げた。


「それを使えば、あなたは完全に祖国の敵になる」


「もうなっている」


「違う。越境は皇帝への反逆で済む。軍事機密を渡せば、帝国の兵士を死なせる側へ回る」


 その区別を口にする男を、イヴァンは信用しようと思った。


「分かっている。だから私が説明する。使うかどうかは、あなた方が決めてくれ」


 遠くで警報が鳴り始めた。


     *


 午前七時二十七分。キミロフ全市に空襲警報が響いた。


 歴史地区の地下へ市民が押し寄せ、駅員が防爆扉を閉めていく。橋には西へ逃れようとする車列が詰まっていた。朝の通勤時間だった街は、三十分で避難経路へ変わっていた。


 大公ヴォロディミル三世は、政府庁舎地下の指揮所で防空画面を見上げていた。


 軍服ではなく、黒いスーツを着ている。非常時にも服装を変えないのは虚勢ではない。軍を指揮する将軍と、退避の責任を負う君主を混同させないためだった。


「第一波、二分。確認できた飛翔体は二百以上」


 防空司令官が報告した。


「迎撃優先は軍施設ではなく、人口密集区へ向かうもの。政府庁舎は最後でいい」


「陛下、指揮機能を失えば――」


「代替指揮所は西にある。市民の代わりはない」


 地上レーダーの情報に、先ほど西部から届いた帝国軍の識別符号が重ねられていた。亡命した皇太子が渡したものだ。すべてを信用はできない。それでも、囮と実弾を選り分ける時間を数秒ずつ稼いでいる。


「S-300、交戦開始」


 画面上で迎撃弾の軌跡が伸びた。続いて外周のS-400部隊が発射する。地上では遅れて、腹へ響く轟音が続いた。


 迎撃表示が一つずつ増える。


 だが、飛来する印は減り切らなかった。


 最初の着弾で指揮所の照明が消え、非常灯へ切り替わった。二度目の衝撃は天井から細かな埃を降らせた。通信卓の一つが沈黙する。


「東部変電所に被弾。二地区で停電」


「中央官庁街、火災」


「南部の集合住宅に着弾。救難要請多数」


 ヴォロディミルは目を閉じなかった。数字だけを聞けば、救える者と救えない者を同じ欄へ置いてしまう。


「消防と救急は民間地区を優先。政府職員の退避状況は」


「最終便が西門を通過しました。残っているのは指揮所要員と近衛隊だけです」


「公文書庫は」


「搬出不能分を処分中。通信記録は消去済みです」


 その時、航空管制卓から新たな声が上がった。


「大型輸送機群、東方から接近。Il-76、三十機以上。先行する攻撃隊が外周レーダーを制圧しています」


 画面の端に太い帯が現れた。輸送機は市街中心を避け、東と南の外縁へ広がっている。空挺部隊で飛行場と幹線道路を押さえ、地上部隊の到着前に政府地区を包囲するつもりだ。


「降下を確認。東部飛行場周辺、南部環状道」


「大公閣下」


 近衛隊長のザハルチェンコがヴォロディミルの前へ進み出た。


「これ以上は退路を失います。CV-22Bを屋上へ回しました。今出なければ、西へ抜けられません」


「地下に残っている者は」


「我々だけです」


 ヴォロディミルは防空画面を見た。赤い印が首都を囲みつつある。


 最後まで残ることと、最後まで生きることは両立しなければならない。ここで死ねば、市民を守った君主ではなく、後を託さず逃げ遅れた男になる。


「分かった。三分で上がる」


 彼は机上の端末から認証鍵を抜き、床へ落として靴底で踏み砕いた。


「首都指揮所を放棄。指揮権を西部へ移す」


     *


 午前八時。政府庁舎の屋上では、CV-22Bが二基のローターを回していた。


 傾けられたローターが巻き起こす風の中を、ヴォロディミルは近衛隊員に囲まれて走った。背後の街から黒煙が上がっている。空襲警報に、遠い銃声が混じっていた。


「陛下、こちらへ!」


 ザハルチェンコに押し込まれるように機内へ入る。側面銃座にはM134が据えられ、射手が弾薬箱との接続を確認していた。


 ハッチが閉じきる前に機体が浮いた。


「西へ抜ける。建物の陰を使う」


 操縦士の声が機内通話へ流れた。


 CV-22Bは屋根の高さまで沈み込み、川沿いに機首を向けた。高速で飛べる機体でも、転換飛行へ移るまでが最も脆い。近衛隊は窓とセンサー画面を交互に見張った。


「後方、高度差二百メートル。Ka-52、二機」


 警告とほぼ同時に、曳光弾が機体の左を走った。操縦士が急旋回し、全員の身体が安全帯へ押しつけられる。


 次の連射が胴体後部へ当たった。金属を叩く音が機内を駆け、側面銃手が床へ崩れた。


「衛生兵!」


「肩だ、生きてる!」


 M134だけが無人になった。


 ヴォロディミルは負傷者から射撃ハーネスを外し、自分の身体へ掛けた。


「陛下、何を」


「見れば分かるだろう。代わる」


「あなたを逃がすための機です」


「だから落とさせるな」


 ザハルチェンコが一瞬だけ彼を見た。反論を飲み込み、背後からハーネスを締めた。


「射界は後方百二十度。撃ち続ければ旋回時に自分の翼を削ります」


「了解した」


 ハッチが開き、風と硝煙が機内へ吹き込んだ。


 最初のKa-52が、川沿いの建物を回り込んで正面へ出た。都市上空では互いに長い射線を取れない。攻撃ヘリは近距離から確実に仕留めるため、速度を落として機首を向けている。


 ヴォロディミルは照準環の中へ敵機を入れ、M134の引き金を絞った。


 六本の銃身が回転し、途切れない発射音が機内のすべてを押し流す。曳光弾の帯がKa-52の機首を横切った。


 撃墜を狙う射撃ではない。照準を外させるための弾幕だった。


 Ka-52は機首を振り、建物の陰へ逃れようとした。曳光弾に視界を埋められた操縦者が、回避を急いだ。横滑りした機体のローターが河岸倉庫の荷役クレーンへ触れ、破片を撒き散らす。Ka-52は姿勢を崩し、黒煙を噴きながら地面へ滑り込んだ。


「一機、墜落!」


「二機目、右後方!」


 残るKa-52が距離を取り、誘導弾を撃つ位置へ上がろうとする。


「今だ。近衛二班、射撃」


 地上に残っていた近衛隊の携行ミサイルが、屋上の間から白煙を引いて昇った。Ka-52はフレアを放出して急降下する。ミサイルは外れたが、敵機は追撃針路を失い、そのまま東へ離脱した。


「転換飛行へ移る。全員、固定!」


 ローターが前へ傾き、CV-22Bが加速する。傷ついた首都が後方へ流れていった。


 ヴォロディミルは引き金から指を離した。銃身から熱気が立ち、黒い上着には薬莢の細かな傷と硝煙が残っている。


「陛下」


 ザハルチェンコが、煤けた服を見た。


「何だ」


「西部へ着いたら、まず着替えてください」


 ヴォロディミルも自分の袖を見た。


「この服はもう無理だろうな」


 それだけ言って、負傷した銃手の横へ膝をついた。


     *


 午前八時半、帝国空挺軍はキミロフ政府地区へ入った。


 政府庁舎では小規模な銃撃があったが、組織的な抵抗はすでに終わっていた。守備隊の主力は市民の避難路を確保しながら西へ退き、残った近衛隊も大公の離脱を確認すると戦闘を打ち切った。


 帝国兵が地下指揮所へ踏み込んだ時、通信卓は沈黙し、端末の記録は消去されていた。紙の公文書は持ち出され、運べなかったものは焼却炉で灰になっている。


 確保できたのは建物だけだった。


 首都は陥落した。


 だが、それは無血ではなかった。巡航ミサイルに撃ち抜かれた集合住宅では救助が続き、停電した病院では非常電源が唸っていた。政府地区を短時間で占領したという軍の言葉は、そこで死んだ者の数を消してはくれない。


     *


 午前九時、西部前線基地。


 イヴァンは滑走路の端で、着陸してくるCV-22Bを見ていた。


 機体側面には弾痕があり、片方の外板がめくれている。接地すると同時に救急車両が走り寄った。開いたハッチから担架が運び出され、その後に黒いスーツの男が降りてくる。


 上着は煤で汚れ、袖には細かな裂け目があった。白いシャツにも血が付いている。しかし歩き方に乱れはない。


「あの方が?」


 タチアナが小声で尋ねた。


「ヴォロディミル大公です」


 コヴァリョフが答えた。


 大公は救急隊へ短い指示を出し、担架が格納庫へ入るまで見送った。それからようやく、イヴァンたちの方へ歩いてきた。


「待たせたな、ヴォルコフ殿下」


「陛下。その血は」


「私のではない。銃手が負傷した」


 ヴォロディミルは差し出しかけた右手を見て、硝煙で汚れていることに気づいた。上着で拭おうとしたが、そちらも同じような有様だった。


「失礼。この格好で客を迎える予定ではなかった」


「私も、亡命者として迎えられる予定はありませんでした」


 イヴァンはその手を握った。


 二人の間に、歓迎の笑みはなかった。イヴァンは父の軍を連れてきた。ヴォロディミルは、その代償として首都を失った。どちらも、相手へ軽々しく礼を言える立場ではない。


「キミロフは」


「政府地区は占領された。政府機能は西へ移した。市民の被害は、まだ分からない」


「私の亡命が引き金です」


「引き金と、撃つと決めた者は別だ。だが、お前が無関係ということにもならない」


 厳しい言葉だった。


 イヴァンは、わずかに頭を下げた。


「承知しています」


「なら、話は早い。持ち出したもの、人員、帝国軍の配置。すべて聞かせてもらう。こちらも失ったものを隠さない。その上で、次を決める」


「処遇は?」


「それも決める。お前は客人である前に、百人を率いてきた軍人だ」


 皇太子という称号で判断しない。その言葉に、イヴァンは初めてわずかな安堵を覚えた。


 アレクセイがタチアナの陰からヴォロディミルを見上げていた。


「大公様」


「何だ」


「銃を撃ったんですか」


 ヴォロディミルは自分の服を見てから、うなずいた。


「撃った」


「僕も、いつか戦いますか」


 周囲の大人が黙った。


 ヴォロディミルは膝を折り、少年と目の高さを合わせた。


「戦い方を覚える日は来るかもしれない。だが、子供を戦わせずに済む国を作るのが、先に生まれた者の仕事だ」


「国は、なくなったんでしょう?」


「首都を取られただけだ」


 大公は立ち上がり、西の空を見た。


「人が生きて、法と約束を手放さない限り、国は運べる」


 基地では、すでに次の移動準備が始まっていた。暗号機材が車列へ積み替えられ、負傷者が後方病院へ送られ、黒刃隊の機体へ燃料が入れられている。


 キミロフは陥落した。


 それでも、王冠は奪われなかった。


 王冠は人と共に、西へ移った。

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