第十三話 帰る港
オスタヴァの沖には、沈んだ船の位置を示す浮標が残っていた。
大型フェリー《オスタヴァの星》。八百四十七人が戻らなかった場所。
浮標の灯は、まだ夜の色をした海面で規則正しく明滅している。死者の数とは無関係に、電池だけは律儀だった。
公国艦隊は浮標の西を通り、夜明け前の港へ向かった。
艦隊の先頭は、クリヴァク級警備艦だった。
「第七埠頭の外側に機雷が二列」
ロマネンコが海図を指で叩く。
「正規の水路は捨てろ。浚渫前の旧貨物水路なら、喫水の浅い船程度は通せる」
「海図では水深不足です」
高速揚陸群の幕僚が言う。
「その海図を作った港湾局長は、数字を少なく書いて浚渫予算を取っていた」
「信用できる話ですか」
「本人に金を渡したのは俺だ」
誰も続けなかった。
オスタヴァを取り返す作戦で、最も正確な情報を持っているのが密輸屋だった。平時には犯罪者、戦時には水先案内人。料金だけは、どちらでも高かった。
*
午前四時四十五分。
公国海軍航空隊が港北側の砲兵陣地を攻撃する。すべてを破壊する必要はない。砲手を退避壕へ入れ、上陸艇へ照準できない時間を作ればよい。
雲底が一瞬ずつ橙色に染まり、遅れて低い衝撃音が艦橋の窓を震わせた。
《ネポコルヌイ》は旧貨物水路へ入った。
船底と海底の余裕は一メートルもない。機関出力を上げれば船尾が沈み、泥を吸い込む。落とせば潮と横風に押され、航路標識へ船腹を晒す。
「右へ二度」
ロマネンコが命じる。
「標識は左です」
「標識は帝国軍が動かした。倉庫の煙突を見ろ」
傷痕のある顔は、海図より窓の外を見ていた。
右舷の水深表示が警報域へ落ちる。《ネポコルヌイ》の船体が鈍く震え、泥を擦る音が足元を通った。
「座礁では」
「港が船底へ挨拶しただけだ。進め」
後続のズーブル級二隻が、南岸壁へ向かう。
最初の艇が埠頭へ乗り上げ、海兵隊と工兵を吐き出した。二番艇は水中障害物へスカートを裂かれ、速度を失う。
『第二艇、航行困難』
「その場で揚陸。艇は後だ」
ペトレンコが即答した。
『回収できなくなる可能性があります』
「港を取れなければ、どのみち回収できません」
艇首扉が途中まで開き、海兵隊員が胸までの海水へ飛び込んだ。曳光弾が水面を横切り、黒い波の上へ白い筋を刻む。岸壁のクレーン群は、夜明けを待つ絞首台のように立っていた。
*
帝国軍は、港湾庁舎と穀物倉庫を陣地にしていた。
倉庫を砲撃すれば早い。だが穀物は、西部州で不足し始めている食料そのものだった。敵兵と一緒にパンまで焼く余裕はない。
海兵隊は岸壁のクレーンを盾にして前進し、建物を一つずつ確保した。割れた窓から撃たれるたび、工兵が壁へ穴を開け、隣室から入る。港湾庁舎の玄関は、最後まで誰も使わなかった。
帝国兵の一部は鉄道駅方面へ撤退し、一部は地下倉庫へ残った。港湾労働者が示した保守通路から公国兵が入り、午後までに抵抗は終わった。
市内すべてが静かになったわけではない。
北部住宅区では銃声が続き、帝国軍が残した治安部隊と、早くも腕章を替えた協力者の区別もつかなかった。昨日まで帝国旗の下で配給を配っていた男が、今日は公国旗を持って案内役を申し出た。
「便利な愛国心だな」
海兵隊員が言った。
「生き残るには軽い方がいいんだろ。旗も、良心も」
港の奪還と、都市の統治は別の仕事だった。
*
正午過ぎ、ヴォロディミルは確保された南岸壁へ降りた。
飛行場が安全ではないため、輸送ヘリを使った。周囲には近衛兵が付き、上陸第一波へ加わることは許されなかった。
「遅かったな、陛下」
ロマネンコが言う。
「国家元首を最初の艇へ乗せない程度の常識は、まだ残っている」
「残念だ。泥水を飲ませてやれたのに」
「請求書だけ送れ」
岸壁には、帰還した避難者が数百人だけ降ろされていた。港湾管制員、機関員、消防隊員。家へ帰すためではない。港を動かすために先行して戻された者たちだった。
歓声は上がらなかった。
自宅が残っているか分からず、帝国軍への協力を疑われる家族もいる。何より、砲撃は市の北で続いていた。
ヴォロディミルは港湾庁舎の壁に貼られた損害表を見た。
公国軍戦死三十七、負傷九十一。帝国軍の死傷者は確認中。民間人の被害は集計不能。
クレーン六基のうち稼働二。燃料桟橋は使用不能。旧貨物水路だけが通航可能。
「解放宣言を出しますか」
ザハルチェンコが尋ねる。
「まだだ。市庁舎も鉄道駅も取っていない」
「港湾地区奪還、で発表します」
「それでいい」
ロマネンコが、海上の浮標へ目を向けた。
「八百四十七人へ、帰ってきたと言わないのか」
「死者へ報告するために港を取ったわけじゃない」
ヴォロディミルは、再び動き始めたタグボートを見た。
「生きている者が、明日からここを使うためだ」
タグボートが汽笛を一度鳴らした。切れかけた曳索が張り、海中へ沈んでいた障害物が泥を噴きながら動いた。岸壁の作業員が誰ともなく手を上げ、次の船へ合図を送る。
帰還とは、旗を掲げることではなかった。
沈んだ船の横を、次の補給船が通れるようにすることだった。




