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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第一百二話 判決のない銃声



 ソーコル大佐が西玄関に着いた時、視界は十メートルもなかった。


 白煙の中で、鋼板の防火シャッターが銃弾を受けている。


 命中するたび、薄い鋼板が腹の底へ響く低音を返した。削れた塗膜と潤滑油の匂いが煙へ混じり、床にはスプリンクラーの水と細かな大理石片が泥のように溜まっている。


 外側から三点射。


 休止。


 三点射。


 戸惑う乱射ではない。


 攻撃者はシャッターの固定点を数え、同じ位置へ弾丸を重ねている。


 内側へ入った二人は、左右の柱の後ろ。


 ソーコルは衛士二名へ指を二本立て、左へ分けた。


 自分は右。


 ホールの額縁を撃った。


 ガラスと木片が落ちる。


 右柱の後ろから、反射的に銃口が出た。


 ソーコルは二発。


 一発目が自動小銃のハンドガードを打つ。


 二発目が、男の上腕と防弾プレートの間へ入った。


 肩が後ろへ回り、男の指が痙攣して引き金を引いた。弾丸は天井の化粧板を抜き、石膏粉を雪のように落とした。ソーコルの頬へ熱い薬莢が触れたが、瞬きはしなかった。


 銃が大理石を滑る。


 反対側で、公国衛士が二人目の脚を撃ち抜いた。


 十一秒。


 内側へ入った攻撃者は無力化。


 外にはまだ二人いる。


 そして、その四人だけではない。


 地下駐車場から、別の銃声が上がった。


 続けて、建物の東側で変圧器が破裂した。


 青白い閃光が廊下の窓を一枚ずつ染め、直後に焦げた絶縁樹脂の臭気が空調から吹き込んだ。


 照明が一度暗くなり、非常電源へ切り替わる。


 赤い誘導灯だけが床面に残った。


 その赤い線は避難口へ続く。


 敵も同じ線を見る。


 建築基準法が、攻撃者へ要人の逃走方向を教えていた。


 ソーコルは無線を開く。


「玄関内、二名排除。地下班、報告」


『地下二層、警備所喪失。敵は最低十二。警察識別信号を使用』


「司法宿舎は」


『応答なし』


 敵の目的は大公夫妻だけではない。


 帝国軍需網の証人。


 押収した誘導装置の証拠。


 特別法廷の設置文書。


 平和を壊すなら、調印者を全員殺す必要はない。


 平和が手続として成立しないと、世界に思わせればよい。


 中央裁判所には、その夜だけで五種類の国家機密が集まっていた。


 白旗受領時の帝国軍通信記録。


 誘導装置二百十二基の製造番号。


 アルシェール同時攻撃で拘束した工作員の供述。


 共同権限の越権審査記録。


 そして、どの国がどこまで公国へ鍵を渡したかを示す署名簿。


 人間を殺せなくても、紙を燃やせば戦争は戻せる。


 法廷は、兵器庫より燃えやすい軍事目標になっていた。


 ソーコルは、倒れた男の肩を蹴り、体を仰向けにした。


 胸に国籍標識はない。


 黒い七角形を円で囲った小さな徽章。


 現場で識別できる組織章ではなかった。


 弾倉底部には三種類の刻印が混在し、無線機の操作表示はヴァローニュ語、短い命令だけはコドベニア語だった。国籍ではなく、市場から組み立てられた部隊。灰環戦線が売っていたのは兵士ではない。互いを知らない兵士が、同じ時刻に殺せる手順だった。


 彼は写真を撮り、生存している男の武器を外へ蹴った。


「医療班を」


 衛士が耳を疑った。


「話せる口は残す。こちらが誰を撃ったかも記録する」


 後方で、ヴォロディミルが受付台から顔を出した。


 彼の右頬に、大理石の破片でできた浅い切創。


 ペトレンコは無傷。


 ソフィアはシャッター操作盤の前。


 マクレガーはネクタイを引き抜き、負傷した警備員の上腕を縛っていた。


「代表団を第二法廷へ戻します」


 ソーコルが言った。


「外へは」


 ヴォロディミルが聞く。


「出しません。今の民間人流と交通遮断で車列は標的になります」


 ペトレンコが共同回線を見た。


 十四か国の時刻基準は切り離した。


 各国の報告が、別々の時刻と別々の書式で到着している。


 遅い。


 二度と同じ鍵を使わないために、必要な遅さだった。


「公国回線は」


 ヴォロディミルが聞く。


「自主切断中です」


 ペトレンコが答えた。


「いつ戻す」


「信頼鍵の漏洩ではないと確定した後」


「何分かかる」


「わかりません」


 わからないと言うペトレンコの声に、恐怖はなかった。


 焦りはあった。


 彼女は、遅さに耐える習慣を失い始めている。


 第二法廷へ戻る途中、スプリンクラーとは別系統の天井固定式消火ノズルが一斉に作動した。


 水ではない。


 灰色の消火ガス。


 ソフィアが最初に口元を覆った。


 人工心臓は脈拍を上げない。


 生身の肺が、一口目で異常を教えた。


「吸うな。系統が奪われました」


 彼女は壁の非常レバーへ手を掛けた。


 二度引いても、排気ファンは動かない。


 延焼を防ぐはずの設備が、人間を部屋から追い出し始めた。


 建物の規則が、すべて敵の銃弾に変わっていた。


 裁判所の設備主任は、地下監視室で消火設備の系統図を開いていた。


 遠隔停止は拒否。


 排気ファンは制御盤上で運転表示のまま、実際には止まっている。


「表示まで奪われています」


 隣の若い保全員が言う。


「表示は最初から信用するな。羽根を見ろ」


 主任は地下階段を駆け上がった。


 機械室の扉を開けると、排気ファンの羽根は静止していた。制御線だけが運転信号を返している。


 主電源を切る。


 表示は消えない。


「独立電源です」


「なら、敵は機械を回していない。画面だけ回している」


 主任は手動クラッチを入れ、非常用のクランクへ鉄棒を差した。


「人力で回すんですか」


「煙を抜くまでだ」


 二人で鉄棒を押す。


 羽根が一枚ずつ動き、軸受が乾いた悲鳴を上げた。十分な換気量ではない。それでも廊下のガス濃度表示が、実測器側で少しずつ下がる。


「この設備、いつの規格です」


「画面を信じなかった時代だ」


 若い保全員は笑いかけ、呼吸が苦しくてやめた。


 換気量は毎分三千二百立方メートルから、手動で百八十。


 人間が歩いて逃げるための空気だけを作った。


 主任は共同回線へ、排気回復とは報告しなかった。


 《西廊下、退避可能濃度まで推定四分。手動維持者二名》


 自分たちが残っていることも書いた。


 廊下の後方で、警報音声が流れた。


《化学剤を検知。地下二層へ避難してください》


 地下二層は、さきほど警備所が落ちた場所だった。


 音声は女性。


 発音も間も、裁判所の正規放送と同じ。


 マクレガーが口元の布越しに言う。


「この建物は、敵の方が親切だな」


「案内どおりに行けば死ねます」


 ボンダレンコが答えた。


「行政サービスとしては迅速です」


 笑う者はいない。


 笑うための空気が、廊下から減っている。


 ソフィアは壁へ手をついた。


 血中酸素が落ちる。


 人工心臓は、その不足を補おうと出力を上げた。


 足りない酸素を速く回しているだけだった。


 ペトレンコが彼女の肘を持つ。


「歩けますか」


「歩いています」


「質問に答えて」


「止まれば、あなたも止まります」


「私を理由にしないでください」


 ソフィアは一秒考えた。


「では命令してください」


「旧法務省まで歩いて。着いたら酸素を使う」


「了解」


 感情を手順へ変えたのはソフィアだけではない。


 ペトレンコも、彼女を失いたくないという一文を、二つの命令へ変えた。


 第二法廷まで、残り三十メートル。


 後方の防火扉が開く。


 灰色の防弾装備が、ガスの中から三人現れた。


 一人の肩に、黒い七角形。


 ソーコルは一秒で決めた。


「法廷は捨てる。旧法務省へ入れ」


 中央裁判所から新会議棟の地下搬入口まで、廃止された裁判資料運搬路がある。


 その先は、到着初日に監査した新会議棟と旧法務省の地下通路へ繋がっている。


 現行図面に一本。


 古い図面に二本。


 敵が知らない可能性は、ほとんどない。


 それでも、ここで吸わされるよりはよい。


 運搬路の鍵を持っていたのは、裁判資料課の主任書記官だった。


 五十八歳。


 射撃訓練なし。


 避難名簿では、すでに地上南口から退避済みになっている。


 本人は書庫に残り、証拠原本を耐火箱へ移していた。


「なぜ残った」


 ソーコルが聞く。


「持ち出せないなら、焼けない場所へ置きます」


「命と紙の順番を間違えるな」


「紙のために死ぬ気はありません。鍵を持っている人間が先に逃げたら、あなた方が死にます」


 主任書記官は古い真鍮鍵を差し込んだ。


 電子錠は敵に奪われている。


 機械錠は、半年ごとの点検を《不要設備》として三度削減対象にされ、そのたび彼女が却下していた。


「予算を守った甲斐がありました」


 ボンダレンコが言う。


「違います。使わない扉が開くか確認しただけです」


「それを予算では保守と言う」


 扉が開く。


 主任書記官は代表団を数え、最後に自分が入った。


「十八名」


「十七だ」


「負傷警備員を数えていません」


 ソーコルは一秒黙った。


「十八名。移動」


 肩書のない一人を、人数へ戻した。


 ソーコル班が発砲。


 短い連射が三つ重なった。


 一発目の反響で距離が消える。


 二発目の発射炎で、灰色の防弾服が一瞬だけ浮く。


 三発目が天井配管を抜き、熱い水が通路へ噴き出した。


 先頭の衛士が足を滑らせる。


 ソーコルは左手で襟を掴み、倒れる前に壁へ押し戻した。


 右手のHK416Fは動かさない。


 銃口が、手榴弾を持つ指だけを追う。


 先頭の攻撃者が壁へ倒れ、二人目が手榴弾を落とす。


 ソーコルはペトレンコの襟首を掴んで運搬路へ投げ入れた。


 ヴォロディミル、マクレガー、ソフィアが続く。


 ボンダレンコが最後に飛び込み、鉄扉を閉めた。


 手榴弾が通路側の壁で爆発。


 鉄扉が内側へ膨らみ、ボンダレンコの背中を押した。


 彼は前へ二歩よろけ、振り返った。


 爆風で肺の中の空気が一度抜け、背骨の両側へ鈍い痛みが走った。裂けた背広の裏地が熱を持ち、飛び込んだ鉄粉が首筋へ刺さる。


「調印式の二次会は延期だな」


 背広の背中が裂けていた。


 誰も笑わない。


 ボンダレンコは自分で笑った。


 鉄扉の向こうで、負傷した警備員が一人倒れた。


 背中へ扉の破片。


 ソーコル班の衛士が彼を引く。


 ボンダレンコは素手で男のベルトを掴み、爆風の残る通路へ半身を戻した。


 次の銃弾が、裂けた背広の裾を抜く。


 彼は警備員を引きずり込み、鉄扉の脇へ倒れた。


「負債を置いていくな」


 警備員は意識がない。


 それでも、ボンダレンコは本人へ言った。


 ソーコルが鉄扉へ非常錠を落とす。


 錠の受け金が爆発で歪み、半分しか入らない。


「何分持つ」


 ヴォロディミルが聞く。


「扉は三分」


 ソーコルは、負傷者の呼吸を確かめた。


「この人は、それより短い」


 マクレガーが自分のネクタイをもう一本持っていないことに気づき、シャツの袖を引き裂いた。


 代表団の一人が、裁判資料の段ボールを開ける。


 中の防湿袋を胸の傷へ当てる。


 停戦文書のために用意された袋が、警備員の血を止めた。


 法は銃弾を防がなかった。


 法を包んでいた樹脂だけが、一人分の呼吸を残した。


 鉄扉の反対側で、攻撃者が起爆具を取り付け始めた。


 磁石が鋼板へ吸い付く音。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 ソーコルは全員へ手を振った。


「距離を取れ」


 代表団は走る。


 負傷した警備員は走れない。


 シェフチェンコは警備員の背中に手を入れた。


 扉片は肩甲骨の内側へ刺さっている。


 抜かない。


 周囲を圧迫し、呼吸音を左右で比べる。右が弱い。頸静脈の怒張なし。胸郭の左右差は小さい。


「開放性ではない。破片を固定。酸素は」


「携行缶一。ソフィアが必要です」


 医療係が答える。


 ソフィアは首を振った。


「私は歩行可能です」


「人工心臓が補うほど、肺の酸素消費が増えます」


 シェフチェンコが言う。


「警備員は呼吸が不安定です」


「二人で分ける」


 流量を最低へ落とし、携行缶からY字管で二本へ分けた。どちらにも十分ではない。


 警備員は意識の切れ間に酸素マスクを押し返した。


「要人へ」


「あなたも保護対象です」


 シェフチェンコはマスクを戻した。


「話さないで。呼吸へ使って」


 医療物資を平等に分けたのではない。


 次の三分を歩ける側と、歩けない側へ、必要量を変えて渡した。


 マクレガーとボンダレンコが両側から肩を担いだ。


「体重は」


 ボンダレンコが聞く。


「八十二」


 警備員が、意識の切れ間に答えた。


「申告より重い」


「装備です」


「なら経費だ」


 爆発。


 鉄扉の中央が裂け、金属片が運搬路を追って飛ぶ。


 ソーコルは最後尾で伏せた。


 背中の防弾板へ、破片が三つ。


 衝撃が肺から空気を押し出す。


 一つは板で止まり、二つは表面を滑った。止まった一片の力だけが面全体へ広がり、ソーコルの肋骨を鈍器で殴った。息を吸うと、左胸の奥が遅れて痛んだ。


 彼は床へ掌をつき、立った。


 立てるうちに立たなければ、次は誰かに運ばれる。


 護衛が荷物になる瞬間を、彼は何より嫌った。


「大佐」


 ヴォロディミルが戻ろうとする。


「前へ」


「命令するな」


「警護中です」


「俺もだ」


 ソーコルは彼の胸へ片手を当て、前へ押した。


「では、私を守るために先へ行ってください」


 その理屈に反論する時間はなかった。


 ヴォロディミルは警備員の腰を持ち、三人目の担ぎ手になった。


 王族、財務卿、外国政治家が、一人の警備員を暗い運搬路へ運ぶ。


 攻撃者が見れば、射撃優先順位に迷う隊列だった。


 電気の消えた運搬路の先に、旧法務省の黒い輪郭があった。


 逃げ込む先として、裁判所より不吉な建物はなかった。


 後方で、裂けた鉄扉が床へ倒れた。


 白煙の中から、黒い七角形が三つ現れる。


 ソーコルは弾倉を交換した。


 残弾、二十七。


 旧法務省まで、あと九分。


 九分は、平時なら短い。


 撃たれている人間には、一つの時代だった。


     *


 その頃、司法地区から三本離れた通信中継車では、襲撃部隊の作戦画面が二つに分かれていた。


 第一目標、《アルシェール》。表示は赤。


 第二目標、《K-12》。表示は灰色。


 灰色の窓には、キミロフの療養地区を上空から撮った古い画像が出ていた。建物名も、人名もない。搬入口、非常用発電機、医療輸送車の出発時刻だけが記入されている。


「第二目標は」


 運転席の男が聞いた。


「監視を継続。今日は触るな」


「理由は」


「二つを同時に動かせば、逃げ道が一つになる」


 画面の管理者は《K-12》を閉じた。


 閉じただけだった。


 削除はしなかった。

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