第一百三話 予算外のPKM
ボンダレンコは、逃走経路を通路ではなく支出として見た。
正面から旧法務省へ入れば、二分。
地下の記録運搬路では十一分。
増えた九分の代価は、照明と通信と退路。
見返りは、屋外の狙撃線から隠れること。
収支は悪くない。
ただし、退路の相場は移動中に上がる。
後方の鉄扉が、再び三回打たれた。
導爆線と板状炸薬を壁へ貼り付ける、乾いた音。
古い通路には地下水特有の臭いと湿った紙の黴臭さがあった。天井の配管は温度差で鳴り、靴底が踏むたび、何十年分もの紙埃が低い非常灯へ舞い上がる。炸薬の粘着剤だけが新しく、甘い溶剤臭で敵の位置を知らせていた。
「あと三十秒で来るぞ」
ボンダレンコが言った。
ソーコルは先頭で、古い紙図面と非常灯を交互に見ていた。
「二十秒で角を曲がります」
「残り十秒は」
「あなたが稼いでください」
「財務に無理を言う国は滞納するぞ」
右手のペトレンコは咳き込んでいた。
ソフィアよりは軽い。
消火ガスの残留量も少ない。
それでも、代表団十七名のうち五名が、口元を布で覆っている。
武装は回収したソーコル班のHK416F四挺。
拳銃三挺。
弾薬は、銃の数より少ない。
要人の肩書きは多い。
戦闘員は少ない。
平時なら健全な組織だった。
包囲下では、負債へ変わる。
ボンダレンコは後ろを見た。
停戦条項を起草した法学者。
海上封鎖の解除を決めた海軍司令官。
都市爆撃の証言を持つ元市長。
誰を失っても、銃一挺より高くつく。
人命を金へ換算するのは下品だった。
換算しない者ほど、平気で人命を使い切る。
「一番高い荷物から中央へ入れ」
マクレガーが振り返る。
「誰だ」
「自分で安いと思う奴から壁際へ行け」
全員が中央へ寄った。
「政治家は健全だな」
ボンダレンコは言った。
「自己評価だけは高い」
ソーコルが古い証拠品仕分け室の扉を開けた。
中にはスチールキャビネット。
赤いシールの貼られた回収品ロッカー。
《二〇一七年・武装立てこもり事件》。
ヴァローニュの司法警察が押収し、判決確定後も廃棄手続を忘れた武器が入っていた。
MP5F二挺。
FAMAS G2三挺。
旧型のPA MAS G1四挺。
弾薬箱は封印済み。
管理状態は、押収された犯人より長く忘れられていた。
「裁判所が武器庫になるとは」
マクレガーがMP5Fを取った。
「裁く前に処分すべきだったな」
ザハルチェンコ海軍元帥はFAMASのボルトを引き、薬室を見た。
ヴォルコフは残りの一挺。
ベルグ大将はPA MAS G1を取り、弾倉を二度叩いた。
シェフチェンコ外務卿は銃へ手を伸ばさない。
代わりに救急箱を取った。
「撃てません」
「正直で結構」
ボンダレンコが言う。
「撃てない人間が撃てるふりをすると、味方の背中に穴が開く」
若いヴァローニュ議員が、PA MAS G1を見た。
「私は射撃場で二回」
「二回なら、弾倉を運べ」
「侮辱ですか」
「役割分担だ。侮辱は生き残ってから無料でしてやる」
議員は弾薬箱を抱えた。
自分より若い警備員が血を流しているのを見て、それ以上は言わなかった。
彼の名はジュール・マレ。
二十九歳。
都市再建区から初当選し、委員会では三度しか発言していない。今日の起草会合へ出たのも、党内の年長者が襲撃を恐れて欠席したからだった。
弾薬箱は十五キロを超える。
議員章より重い。
「これを運んだと、後で話してよいですか」
マレはボンダレンコへ聞いた。
「生きて出たら、好きに話せ」
「戦闘参加になりますか」
「弾薬を渡せば参加だ。撃っていないなら、撃ったとは言うな」
「選挙では違いが伝わりません」
「では、伝わる言葉を考えろ。政治家だろう」
マレには、逃げたと思われたくない理由があった。選挙区の集合住宅は二度砲撃され、兄は避難誘導中に片耳を失っている。自分だけ法廷へ隠れたという記事が出れば、再選以前に家へ帰れない。
同時に、弾倉を持って走る写真があれば支持率が上がるとも考えた。
どちらも本当だった。
彼は弾薬箱の封印番号を声に出した。
「七一四九。受領者、ジュール・マレ」
「なぜ記録する」
「後で、使った数を誤魔化したと思われたくない」
ボンダレンコは一度だけ頷いた。
「政治家にしては見込みがある」
「褒めていますか」
「利息付きで保留だ」
ヴォロディミルが三挺目へ手を伸ばした時、ソーコルは手首を掴んだ。
「殿下は拳銃を」
「理由は」
「抱えて運ぶ人間に小銃は要りません」
王を荷物と呼んだ護衛は、ソーコルが初めてだった。
ヴォロディミルはソーコルの手を見た。
振りほどくことはしない。
「今は従う」
ボンダレンコはPA MAS G1を一挺取り、弾倉を入れた。
「何か扱いが慣れていませんか」
ペトレンコが聞いた。
「帝国で財務をやると、債権者が銃を持って来る」
答えになっていない。
ボンダレンコは説明しなかった。
帝国情報調整局にいた頃、帳簿は人を撃つ順番を決める道具だった。
資金源。
受取人。
秘密口座。
口座名義人が消えれば、銃弾も止まる。
止まらない時だけ、会計担当が現場へ出た。
その説明をすれば、ペトレンコは次から彼を会議室へ入れないかもしれない。
だから黙った。
移動を再開。
前方にソーコル班。
中央に代表団。
後方にヴォルコフ、ザハルチェンコ、マクレガー。
ボンダレンコは最後の角まで拳銃を下げていた。
角の先で、ベルト給弾の金属音。
PKMの機関部を開け、弾帯を送り込む音だった。
鋼製リンクが受け皿へ触れる、軽く、規則的な音。ボンダレンコは型式を見る前に分かった。帳簿の頁を繰る音より、ずっと正直だった。
ボンダレンコは拳銃をホルスターへ戻した。
壁の消火器を外す。
前の三人に、指を二度曲げた。
ヴォルコフはその合図を知らない。
ザハルチェンコは知っていた。
帝国情報調整局が使っていた、狭い通路用の待機合図。
ボンダレンコは消火器のホースを握った。
角から黒い銃身が出る。
PKM。
銃口がボンダレンコの胸高へ上がる。
彼はレバーを握り、消火剤を射手の視界へ吹き付けた。
射手が目を閉じ、引き金を絞る。
銃弾が天井を破る。
七・六二ミリ弾が蛍光灯を粉砕し、配線用トレイを千切った。
火花が射手の肩へ落ちる。
PKMの銃口は連射の反動で右上へ走った。
ボンダレンコの耳元を、熱い薬莢が掠める。
左頬に一本、赤い線。
ボンダレンコは銃身の下へ入り、銃床を壁と肩の間へ挟んだ。
左手で弾帯箱を引く。
スリングが射手の首へ掛かり、体勢が前へ崩れる。
右肘。
下顎。
右膝。
肘頭へ硬い骨が当たり、ボンダレンコの腕にも熱い痺れが返る。膝を入れた瞬間、革靴の縁が男の装具へ引っ掛かり、右足首が捻れた。技術は痛みを消さない。どちらが先に痛みを手順へ戻せるかを決めるだけだった。
射手の脚が折れ、背中が床を打った。
ボンダレンコは男の喉へ前腕を押し付けた。
殺すためではない。
呼吸へ割く力を増やし、武器を掴む力を減らすためだった。
男の右手が腿のナイフへ動く。
ボンダレンコは手首を踏む。
刃が床へ落ちた。
ボンダレンコはPKMをスリングごと奪い、銃床を肩へ入れる。
長いガスピストンと弾帯箱の重さが、肩へ馴染んだ。銃身はまだ冷たい。奪った兵器が新品同然であることへ、彼は敵の兵站だけを評価した。
後から追いついた二人目が、小銃を向けた。
ボンダレンコは半身のまま、三発だけ撃った。
一発目は扉枠。
二発目は胸部プレート。
三発目は腿。
男が壁の後ろへ退く。
胸部プレートへ当たった一発で、男の呼吸が止まる。
腿へ入った一発が、脚を折る。
彼は倒れながら、無線の送信キーを押した。
『西運搬路。重火器』
ボンダレンコは送信中の無線機を蹴り上げた。
「重火器ではない」
拾い、送信キーを押す。
「財務だ」
敵回線の向こうで、誰かが黙った。
「未納分を取りに来た。代表者を出せ」
返答はコドベニア語の短い罵倒だった。
ボンダレンコは笑った。
「利息も付ける」
無線機を壁へ投げる。
ボンダレンコは追わない。
角を押さえ、後方へ怒鳴った。
「今のうちに行け!」
マクレガーが、代表団を前へ通す。
ベルグ大将が最後に角を越え、PKMを持つ財務卿を見た。
「お前、本当に財務屋か」
マクレガーは倒れた射手の手首と、ボンダレンコの立ち位置を一度見比べた。
「いまの崩し方は、クラヴ・マガか」
「名前を付けると訓練費を請求できる」
「答えになっていない」
「正しい質問には予算が要る」
「弾薬も人命も、減ったら数える」
ボンダレンコは弾帯の残りを見た。
「似た仕事だ」
ベルグが笑った。
ソーコルは笑わない。
「財務卿、あなたが殿です」
「死んだら残業代はどこに請求する」
「生きて戻れば、付けます」
「うちの予算にか」
「敵の損害賠償へ」
その案に、ボンダレンコは満足した。
鉄扉の向こうで導爆線が発火した。
運搬路へ爆風と白い埃が流れ込む。
後方の闇から、攻撃者の足音。
一行の中で、一番大きな銃を持つ人間が入れ替わった。
それが財務卿であることに、誰も異議を唱えられなかった。
後方の白煙から、影が二つ出た。
ボンダレンコはPKMを腰だめにしない。
床へ片膝をつき、二脚を開く。
銃床を肩窩へ押し込み、頬を離す。PKMの反動は一発ごとではなく、重い機関部が前後する連続した打撃として鎖骨へ来る。短く撃っても、耳の奥には金属の残響が残った。
照準線を人間の胸ではなく、通路の天井へ置いた。
四発。
吊り下げられていた資料棚が落ちる。
鋼製の箱と紙束が通路を塞ぎ、二人を向こう側へ分けた。
殺すより、時間を買う方が安い。
買った時間、十二秒。
ボンダレンコはPKMを持ち上げ、最後尾のベルグへ追いついた。
マレは角の内側で待っていた。
「弾帯は」
「まだ渡すな」
ボンダレンコは受領したPKMの機関部を一度だけ開いた。
薬室。
給弾爪。
弾帯の向き。
敵の武器には、証拠番号がない。いま使えば味方の残弾になり、後で押収品へ戻る。誰が何発撃ったかを残さなければ、回収された薬莢が攻撃側の射撃として鑑定される可能性がある。
「時刻」
ボンダレンコが言う。
「二十時〇九分十四秒」
「直前射撃、四発。射線、天井。目的、障害物落下」
マレは弾薬箱の紙帯へ書いた。
「戦闘中に必要ですか」
「必要ないと思う時に、一番必要になる」
「あなたは財務ではなく、証拠係では」
「金も弾も、消えた場所を問われる」
後方から銃弾が資料棚へ当たる。
マレは身を縮めたが、紙帯を落とさなかった。
「撃ち返さないんですか」
「射線の先に鉄扉がある。跳ねる」
「なら、いまの仕事は」
「待つ」
マレは、その言葉も書いた。
後の会見では使えない。
それでも、最も長かった時間は射撃ではなく、撃たずに聞いていた七秒だった。
「それは財務の仕事か」
ベルグがまた聞いた。
「払えない国は、現物で回収する」
「何を回収した」
「機関銃一。弾薬百二十七。生存時間十二秒」
ボンダレンコは頬の血を袖で拭いた。
「最後のが一番高い」
前方で、負傷した警備員の呼吸が不規則な喘ぎへ変わった。
シェフチェンコが頸動脈を探す。
触れない。
彼女は直ちに胸骨圧迫を始めた。
担架代わりの扉板が、押すたび床を擦った。
ボンダレンコはPKMをベルグへ一瞬預け、警備員の靴を脱がせた。
靴紐を二本繋ぎ、点滴袋を通路の配管へ吊るす。
「財務屋は医療もやるのか」
「払った保険を使うだけだ」
警備員が咳き込み、シェフチェンコは圧迫を止めて頸動脈を再確認した。
弱いが、脈が触れた。
浅い自発呼吸も戻る。
ボンダレンコはPKMを取り返した。
「一件回収」
シェフチェンコは圧迫を続けたまま、彼を見る。
「人を債権みたいに言わないで」
「債権なら期限がある。人はない」
「それ、慰めているの」
「苦情は窓口へ」
「あなたでしょう」
後方から銃弾が来た。
ベルグが二人の頭を下げさせる。
紙埃の中で、ボンダレンコは笑った。
豪快な笑いだった。
笑えるから笑ったのではない。
黙れば、昔の自分が戻ってくる。
帳簿の名前へ赤線を引き、次の口座へ進んでいた男。
今夜は赤線の代わりに、人間を一人ずつ前へ送る。
違いは小さい。
小さくても、十分だった。
マレは最後まで弾薬箱を手放さなかった。
地下通路を出た時、掌の皮が二か所剥け、背広の右肩は箱の角で裂けていた。
報道班はその姿を撮った。
「武器を手に抵抗した若き議員」と、速報見出しが付いた。
マレは訂正を求めた。
《武器》を《弾薬箱》へ。
《抵抗》を《運搬》へ。
広報担当は止めた。
「見出しが弱くなります」
「撃った人間が別にいる。私が奪えば、次は本当に銃を持たされる」
「有権者は勇敢さを評価します」
「なら十五キロを十一分運んだ、と書いてくれ。それも十分に重かった」
訂正は通った。
彼はその記事を選挙事務所へ送った。
勝ち馬へ乗ることをやめたわけではない。
馬上で、自分がしていない射撃まで奪わなかっただけだった。
*
療養施設の警戒が解除されるまで、ルツェンコはアレクセイを救護準備室から出さなかった。
少年は棚に並ぶ止血帯を見ていた。
「昨日の人形には、これを使わなかった」
「心臓を押す前に、血が全部なくなったら意味がねえからな」
ルツェンコはゴム製の訓練肢を机へ置いた。
「傷より体幹側。関節は避ける。出血が止まるまで締める。締めた時刻を声に出せ」
アレクセイは止血帯を通した。
小さな指では締結棒が重い。
両手を使い、最後まで回す。
「十四時十二分」
「もう一度」
「十四時十二分!」
「それでいい。痛がっても緩めるな」
「手や足が駄目になったら?」
ルツェンコは訓練肢を指で叩いた。
「手足より先に、そいつを帰す。残りは医者と機械屋の仕事だ」
アレクセイは時刻を記入した。
自分の名前より、大きな字だった。




