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王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


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第一百一話 十八秒のあと



 歓声の前に立った十八秒から、四日が過ぎていた。


 ヴォロディミルとペトレンコは、特別法廷設置条約の第一回起草会合を終え、アルシェール中央裁判所の西玄関へ戻った。


 正面階段の外では、採択の日から通い続ける市民と記者が、まだ解散していない。


 子供を肩車した父親。


 四発の巡航ミサイルで割れた窓を、今日も交換していたガラス屋。


 避難誘導の蛍光ベストを脱ぐ暇がなかった警察官。


 平和は調印紙の上では始まっていた。


 街は、まだそれを信じきれずに残っていた。


 雨は上がっていたが、石畳の目地には黒い水が残っていた。新聞売りの電熱器から焦げた埃の匂い。対面のカフェからバターと珈琲。裁判所の補修足場には、夕方の風が薄い金属音を鳴らしていた。


 この街は、平和と戦争を別々の匂いで持っていた。


 ソフィアは玄関内側の警備端末を見た。


 時刻表示、午後七時四十二分十一秒。


 手元の診断端末、十二秒。


 一秒の差。


 市内の同期攻撃では、敵が時刻を武器にした。


 その後、会議区の全時計は《スティナ》と五秒ごとに照合されている。


 一秒もずれる理由はない。


「立ち止まってください」


 ソフィアが言った。


 ヴォロディミルは、自動ドアの敷居を跨いだところで止まった。


「何がある」


「時計が遅れました」


 後ろで、マクレガーが大きく息を吐いた。


「今日はそれでも銃殺未遂の理由になるのか」


「数学は動機を選びません」


 ソフィアは玄関ホールのカメラ一二台を一画面へ並べた。


 九台が正常。


 三台は、同じ一秒を繰り返している。


 録画映像の差し替え。


「ソーコル大佐、西玄関を閉鎖」


『理由を』


「カメラ三系統が反復映像です」


『了解。車列は地下へ』


 警備員が自動ドアの手動閉鎖へ走った。


 間に合わなかった。


 公用文書庁の標章を付けたアーカイブ輸送車が、交差点から時速八十キロで進入した。


 街路樹の陰で一度沈み、前輪が縁石を越える。


 警察車両の右側面へ衝突。


 警察車は二メートル横滑りし、ボンネットが持ち上がった。


 鋼板が潰れる音は爆発より長かった。警察車のサイドガラスが粒になって歩道へ散り、車内で膨らんだエアバッグから火薬臭い白粉が噴き出す。運転席の警察官は肩をドアへ打ちつけ、鎖骨の下で何かが鳴るのを聞いた。


 輸送車は減速しない。


 銅製の車両阻止柱へ、前面ごと噛み付いた。


 阻止柱の根元が石畳を持ち上げ、輸送車のラジエーター液が蒸気になった。甘い冷却液の匂いとディーゼル油が、雨上がりの空気を一瞬で上書きした。


 車体後半が浮く。


 止め金が裂け、輸送車は西玄関まで残り十二メートルで止まった。


 荷室の扉が内側から開く。


 四人。


 灰色のボディアーマー。


 標識なし。


 一人が回転式擲弾発射器を構えた。


「伏せろ!」


 ヴォロディミルがペトレンコの肩を押した。


 二人の身体が受付台の裏へ落ちる。ヴォロディミルの右肩が大理石の角を受け、腕の先まで痺れた。ペトレンコの後頭部を自分の掌で庇ったため、掌底の皮膚が石粉で裂けた。


 六発。


 白煙弾。


 ガラス外壁の手前で破裂し、ホール全体を乳白色へ変えた。


 白煙の中で、小銃弾が三発、同じ高さを通った。


 亜音速弾ではない。銃口音のあとから、割れたガラスと石片が頬へ届いた。白煙弾の刺激剤が喉を焼き、呼吸を浅くした。


 一発目が自動ドアの制御盤を割る。


 二発目が玄関警備員の防弾板を打つ。


 三発目は、ヴォロディミルが半秒前まで立っていた柱へ入った。


 彼はペトレンコを大理石の受付台の後ろへ引きずる。


 自動小銃の弾丸が、受付台上の記名台を粉砕した。


 羽ペン。


 砂と化した白い紙。


 《停戦延長九十日》の複写が、煙の中へ舞った。


 対面のカフェで、コーヒーカップが一斉に割れた。


 銃声に一拍遅れて、人々が走り始める。


 転んだ子供の赤い靴が、片方だけ歩道に残った。


 父親は子供を抱き上げようとして、肩を撃たれた。


 弾は上腕を抜け、背後のメニュー看板へ入る。


 子供が泣いた。


 父親は左腕だけで抱き上げようとした。


 警察官が二人の間へ入る。


 防弾盾は車内。


 拳銃では、輸送車の陰にいる攻撃者へ届かない。


 警察官は横転した屋外テーブルを蹴り倒し、その薄い天板の後ろへ親子を押した。


 防弾性能はない。


 見えなくなる効果しかない。


 その程度の効果でも、人間一人が次の判断をする時間にはなった。


「地下鉄入口へ! 壁沿いに!」


 警察官が叫ぶ。


 カフェの店員が裏口を開けた。


 記者がカメラを捨て、転んだ老女を引き起こした。


 平和の到着を撮りに来た人間が、戦争の出口を作り始めた。


 外側に残った攻撃者の一人が、白煙の向こうから銃口を向ける。


 西玄関警備所のP90が応射した。


 九ミリではない甲高い発射音。


 街灯の支柱へ二発。


 輸送車の前輪へ三発。


 攻撃者は車体後部へ戻った。


 警備員は追わない。


 赤い靴を拾い、地下鉄入口へ投げた。


 子供が、泣きながらそれを受け取った。


 ソフィアはホールの防火シャッターを手動発令。


 西玄関が二枚の鋼板で分断された。


 敵の先頭二人は内側。


 残り二人は外。


 四秒遅れていれば、全員が内側へ入っていた。


 時計のずれは、攻撃開始の前触れだった。


 一秒の不正を止めた報酬は、敵を半分しか閉じ込められなかったことだった。


 異常は、それだけではない。


 市政庁舎。


 アルシェール警察本部。


 国営放送センター。


 首都航空管制所。


 四か所の時計が、同じ一秒で止まった。


 続けて通信量が平時の九倍へ上がる。


 市政庁舎では、避難指示の文案が七種類届いた。


 北へ逃がせ。


 南へ逃がせ。


 地下へ入れ。


 地下には化学剤の危険がある。


 すべて正規書式。


 すべて異なる発令時刻。


 アルシェール警察本部では、パトカー三十二台の端末へ同じ事件番号が配信された。


 目的地だけが違う。


 国営放送センターでは、緊急字幕の自動挿入装置が《停戦合意破棄》を表示しようとした。


 夜勤者が送出ボタンを抜き、黒い画面へ切り替えた。


 首都航空管制所では、二機の救難ヘリへ着陸禁止が出た。


 発令者は、十六分前に勤務を終えた管制官の識別番号だった。


 敵は命令を作っていない。


 正しい人間が昨日まで使った言葉を、正しい順番から外して並べている。


 偽物は、文法まで本物だった。


 アルシェール警察本部の通信席では、新任巡査エティエンヌ・ロークが三十二台の行き先を紙へ書き写していた。


 端末上では、全車両が同じ事件番号。


 声紋認証も、当直司令官と一致。


 違ったのは呼出符号だった。


 当直司令官は、部隊番号の前に必ず地区名を付ける。端末の音声は番号だけを読み上げていた。


「全車、停止を」


 エティエンヌが上席へ言う。


「本物なら、司法地区への増援が遅れる」


「偽物なら、三十二台が別々に消えます」


「根拠は呼び方だけか」


「はい」


 上席は三秒迷った。


「全車へ旧式照合。今日の認証句」


 デジタル鍵ではない。


 朝礼で黒板へ書き、昼に消す二語だった。


『街路樹』


 各車から返答を求める。


 偽の指令系は、昨日の記録なら持っていた。


 今日の黒板は見ていない。


 返信のない端末を切り離し、三十二台は最寄りの警察署へ一度戻された。司法地区へ向かったのは、現場無線で銃声を確認した五台だけ。


「私の発見として報告しますか」


 エティエンヌは聞いた。


 見抜いたのは事実だった。正規採用の面接は来月。今夜の記録があれば、臨時巡査から抜けられるかもしれない。


「呼出符号の異常を発見した、と書け」


 上席が言う。


「攻撃を阻止した、ではなく?」


「止めた車両が正しかったかは、まだ分からん。結果まで盗むな」


 エティエンヌは書き直した。


 翌朝までに、五台は負傷者搬送と外周封鎖へ使われた。戻した二十七台のうち一台には、司法地区へ入るべき爆発物処理班が乗っていた。


 正しい検知にも、遅れの費用は残った。


 攻撃者はアルシェール全土を占領する必要がない。


 十五分だけ、本物の命令が分からなくなればよい。


 前回は、一地区を混乱させた。


 今回は、一地区が習得した防ぎ方そのものを狙っていた。


 ペトレンコの共同回線に、白い文字が一行だけ現れた。


《今度は、お前たちの時計を使う。》


 送信源は、キミロフ共同調整室の緊急認証系と表示されていた。


 鍵まで盗まれたわけではない。


 鍵を信じる人間の順番を、敵が知っていた。


 ペトレンコは一秒だけ、白い文字を見つめた。


 胸の奥で、怒りが先に答えた。


 この回線を切ればよい。


 共同認証を無効化し、全部を公国軍の単独指揮へ戻せば、彼女の知っている速度で動かせる。


 それで救える人間がいる。


 その判断は、たぶん正しい。


 正しいからこそ、怖かった。


 便利な一人の判断へ皆が戻ることを、敵も期待している。


 それから、全参加国回線へ一文を送る。


《時刻基準を分離。各国は自国時計へ復帰。》


 公国が握った最初の王冠を、彼女は自分で外した。


 敵は、固定された一つの時計を攻撃した。


 ペトレンコは、十四の遅い時計を再び選んだ。


 多くの命令は遅れる。


 それでも、偽の一本よりは良い。


 ヴォロディミルは受付台の陰から、彼女の横顔を見た。


「俺たちの時計を捨てたのか」


「一時的に分けました」


「公国が中心ではなくなる」


「中心を狙われました」


「惜しくないのか」


 ペトレンコは一度だけ彼を見る。


「惜しいです」


 否定しなかった。


 自分たちの時刻で十四か国が動く光景を、彼女はもう知っている。


 遅れが消える快感も、死者が減る数字も知っている。


「だから、自分で捨てます」


 切り離しに反対した者もいた。


 ヴァローニュ内務政務官は、専用回線から声を上げた。


『市民へ、誰の命令を聞けばよいと説明するのです』


「各国の法定指揮官です」


『それでは、あなた方を中心へ置いた意味がない』


「中心が汚染されています」


『だから公国軍の別回線へ移せばよい。あなたが認証し、我々が追認する』


 速い案だった。


 救える人間もいる。


 政務官は四日前、停止鍵を増やした男でもある。今夜は、その鍵を使うよりペトレンコ一人へ戻した方が安全だと考えた。


 家族がいる北部病院から、偽の退避命令が出ている。保身と救命はまた同じ声になった。


「追認は承認ではありません」


 ペトレンコが言う。


『死者が出ても手続を守ったと言えますか』


「死者が出ないよう、十四の系統で動かします」


『遅い』


「はい」


 その一語を認めるのに、以前より力が要った。


『次の議会で、統一指揮を求めます』


「審議してください。今夜の非常措置にはしません」


 回線が切れる。


 政務官は敵ではない。


 敵でない者が、自分から権限を差し出そうとする。その方が制度には深く残る。


 ペトレンコは反対発言も記録へ付けた。


 撃たれている最中に遅さを選んだ責任を、後で速さの実績へ書き換えさせないためだった。


 ヴォロディミルは笑わなかった。


 惜しいと思うようになった時点で、王冠は道具ではなくなり始めている。


 ソフィアの視界の端で、診断表示が一回赤く点滅した。


 人工心臓、高負荷。


 一定だった主ポンプの駆動が一段だけ高くなる。胸の内側から指で押されるような圧迫。人工肝臓は煙に含まれる微量化学物質を検知し、腹部ストーマ装具の縁では、伏せた衝撃で皮膚保護材が引かれていた。


 機械は全部を別々の警告へ分けた。痛みだけが、それらを一つの身体へ戻した。


 彼女は警告を消さない。


 正常値へ戻すには、座り、呼吸を整え、負荷原因から離れればよい。


 診断手順は正しい。


 負荷原因が国家元首と銃撃戦である場合の項目だけがない。


 ソフィアは警告画面を縮小し、カメラ映像の横へ残した。


 自分の身体も、建物と同じ監視対象にする。


 無視ではない。


 優先順位を下げた。


「ソフィア」


 ペトレンコが呼ぶ。


「心臓は」


「動作中」


「そういう意味ではありません」


「そういう意味でしか回答できません」


 ペトレンコは何か言いかけ、やめた。


 代わりにソフィアの左肩へ手を置く。


 脈を測る場所ではない。


 それでも接触は、診断端末にない情報を伝えた。


 ここにいる。


 一人で処理するな。


 ソフィアはその二文を、自分の中で《支援あり》へ変換した。


 白煙の向こうで、二人分の足音が左右へ分かれた。


 左は速い。


 右は遅い。


 一人は攻撃するため。


 もう一人は、玄関の内側から何かを開けるために動いている。


 ソフィアは足音の間隔を数えた。


 人工心臓の制御時計が、外の基準を失った建物で唯一、同じ幅の一秒を刻む。


「右を止めてください。制御室へ向かっています」


 ヴォロディミルが拳銃を抜く。


 ソーコルが到着するより先に、彼は煙の中へ一歩出た。


 ペトレンコが上着の背を掴んだ。


「あなたの仕事ではありません」


「俺の建物でもない」


「だからです」


 彼は止まった。


 止まれたことへ安堵し、止められたことへ苛立った。


 その二つが同時にあるのを、ペトレンコだけが見た。


 外では、警察官が赤い靴の子供を地下鉄入口へ押し込んだ。


 内では、ソーコルの足音が白煙へ入る。


 街の時計はばらばらになった。


 人間だけが、同じ一秒へ走っていた。


 法廷はその日、誰の有罪も宣告しなかった。


 最初の判決を言い渡したのは、機関銃だった。


     *


 アルシェールの発砲映像が届いた直後、キミロフ中央療養施設にも警戒警報が流れた。


 防火扉が順番に閉まり、廊下の白い照明が赤へ変わる。


 アレクセイは指定された病室へ戻る途中、歩行器の前で動けなくなった六歳の少年を見つけた。


 抱えようとはしなかった。


 壁の呼出ボタンを押し、看護師を呼び、自分は少年の歩行器を出口へ向けた。


「一緒に行こう。赤い灯りを追えばいい」


 そこへルツェンコが走ってきた。


「坊主。勝手に持ち場を離れたな」


「一人では行ってない。先に人を呼んだ」


 彼女は答えず、二人の位置と閉まりかけた防火扉を見た。


 それから片手で扉を押さえ、もう片方の手で歩行器を引いた。


「順番は合ってる。次は、俺にも言え」


「言ったら来る?」


「呼ばれなくても来る」


 三人が通過した直後、防火扉が床へ落ちた。


 小さな少年は他人を置いていかなかった。


 大きな背中は、その小さな判断ごと扉の内側へ連れ帰った。

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