第九十六話 生身の呼吸
旧造船所へ入る前に、ソフィアは三つの保守を済ませた。
人工心臓の補助電源を交換。
人工肝臓の濾過状態を確認。
腹部ストーマ装具の密着を点検。
最後だけは、装甲車の外で技師に任せる作業ではなかった。
彼女は医療区画のカーテンを閉じ、自分で行った。
皮膚保護材。
交換用装具。
廃棄袋。
軍事作戦表には載らない。
載らなくても、忘れれば任務を止める。
十九歳の身体は、人工臓器と生身の腸と皮膚で同じ時間を生きている。
どれか一つだけを英雄にしても、全体は動かない。
「準備完了です」
カーテンを開けると、サンソンが防毒マスクを二つ並べていた。
「一つはあなた用です」
「見れば分かる」
「肺は人工ではありません」
「それも聞いた」
「密閉検査を」
ソフィアはマスクを着けた。
サンソンが吸気口を掌で塞ぐ。
彼女が息を吸う。
マスクが顔へ張りつき、空気が止まった。
「良好」
「シェレメートなら、今ので噛む」
「酸素供給系へ異物が入ります」
「冗談だ」
「理解しています」
「似ているな」
「誰と」
サンソンは答えなかった。
無線へ、格納庫からシェレメートの声が入る。
『聞こえてるよ〜』
「回線を切れ」
『負傷者の精神衛生に悪い〜』
「負傷者は寝ろ」
『七割は起きてる〜』
ソフィアが通信記録へ《私語》と分類した。
削除はしなかった。
*
午前三時五十一分。
AC-130U《スプーキー01》の機内は、飛行機というより振動する工場だった。
四基のターボプロップが床を細かく揺らし、油圧油、電装品の熱、前回射撃で機内へ残った火薬の匂いが空調へ混じっている。左舷にはGAU-12/U二十五ミリ、L/60四十ミリ、M102百五ミリ。砲尾と弾架の間を、人間が身体の向きを変えて通る。
ボンダレンコの搭乗区分は、《監査官兼補助ロードマスター》だった。
主ロードマスターの監督下で、弾薬架の固定、非常脱出口、重心表、搭乗者名簿を確認する。火器管制権限はない。操縦資格もない。財務卿であることは、機内では何の資格にもならなかった。
「固定索、異常なし。四十ミリ弾薬箱、封印番号一致。百五ミリ弾、搭載数と請求数が一発違う」
主ロードマスターが振り返る。
「訓練用の不発模擬弾です」
「請求書には実弾とある」
「降りてからにしてください」
「飛んでいる間は暇だ」
その暇が、機内乗員には災害だった。
ボンダレンコは、APQ-180表示席の横へ立ち、AN/APQ-180の地上反射除去設定を見た。
「造船所西側の車両反応を三ノッチ下げろ。雨樋の反射と重なっている」
航法士が顔を上げる。
「なぜ分かるんです」
「整備資料に書いてある」
「財務資料を読んでください」
次にFCO席。
火器管制画面には、三種類の射界と、友軍禁止区域、人質推定区域、腐食性薬剤の拡散予測が重なっていた。
「百五ミリを撃つと、一発いくらだ」
「今、それを聞きますか」
「撃たないなら安い」
「撃たない判断にも乗員十三人と燃料が要ります」
「正しい。費目を分けろ」
FCOは泣きそうな顔でスペード・ゼロを見た。
『財務卿を火器管制区画から出してください』
「私は発砲承認鍵を持っていない」
「そういう問題ではありません」
ボンダレンコは今度はTV-OP席の予備表示へ手を伸ばした。電子光学画像のコントラストを調整し、造船所排気塔の基部へ動く影を拾う。
「人間四。いや、二つは配管の熱残りだ」
現職のTV-OPが彼の手首を両手で止めた。
「お願いです。私の仕事を暇つぶしにしないでください」
「合っていたか」
「合っているから困るんです」
スペード・ゼロの命令で、ボンダレンコは飛行甲板後部、操縦席の後ろに設けられた監査員用ジャンプシートへ戻された。
「ここで何をすればいい」
「座っていてください」
「専門外だ」
機内通話へ、何人かの乾いた笑いが漏れた。
GAU-12/Uの給弾張力警告は黄のまま残っている。ボンダレンコはリセットを提案しなかった。初回射撃後の点検が終わるまで、停止させておく方が正しい。知っていることと、触ってよいことは別だった。
《スプーキー01》は造船所の南西で左旋回へ入った。
今夜の任務も、まず見ることだった。
機長席の後ろでは、射撃制限表が紙でも配られていた。
腐食性薬剤貯蔵庫。
人質推定区画。
港湾燃料管。
百五ミリ禁止区域は建屋の七割を覆い、四十ミリも船渠の外側へしか使えない。二十五ミリは敵の射点が屋外へ出た場合に限る。
「空飛ぶ砲台へ、撃つなという命令か」
ボンダレンコが言う。
「撃てる一秒を作るための命令です」
スペード・ゼロが答えた。
地上班が黄色い煙を出させれば、風向と濃度が変わる。人質が南へ移されれば射界も変わる。FCO席では、禁止区域を固定した一枚絵ではなく、三十秒ごとに塗り替えていた。
若い補助員が、百五ミリ射撃承認欄の脇へ鉛筆で丸を付けた。
「何だ」
ボンダレンコが聞く。
「発砲機会です。今回撃てれば、次期派遣枠の実績になります」
「敵が外へ出ることを期待しているのか」
「撃てる時に撃てる乗員である必要があります」
「正しい。だから期待するな。準備だけしろ」
補助員は丸を消した。
妹の学費を払うには、国内勤務より飛行手当が要る。戦争が続けば困る。派遣から外されても困る。その二つを同時に抱えた顔だった。
ボンダレンコは彼の氏名を控えなかった。
代わりに、射撃機会を人事評価へ使わないという一文を、帰投後の精算要領へ入れることにした。
まだ、無駄に撃たない方が評価される仕組みを作れた。
*
突入時刻、午前四時四十分。
造船所西門から第八十八特務支援群。
海側からヴァローニュ国家憲兵特別介入群。
南の構内鉄道をラトヴァ軍警察が封鎖。
ヘーチマン社の装甲回収車は、退路と障害物除去を担当する。
ソフィアは前線へ入らない。
西門から八百メートル離れた移動指揮車で、センサー情報と証拠番号を統合する。
安全な距離ではない。
必要な距離だった。
造船所の建屋は、戦時中に設計変更を繰り返している。
紙図面と実際の壁が一致しない。
地下配線を追うには、現地の電位差を見なければならない。
「西班、進入」
サンソンの声。
「海側班、船渠底へ」
画面上の青い点が、二方向から建屋へ入る。
敵の反応はなかった。
静かすぎた。
「全班停止」
ソフィアが言った。
『理由』
「通風機が動いています。人がいない建屋で、二十秒前に起動」
『毒物か』
「不明。吸気を閉鎖してください」
次の瞬間、建屋北側の排気塔から黄色い煙が噴き出した。
金属腐食性の消火剤。
皮膚へ触れれば化学熱傷。
電子基板にも、肺にも効く。
『全員マスク』
サンソンが命じる。
西班の一人が装着に遅れた。
咳き込み、膝をつく。
隣の隊員が襟を掴み、風上へ引く。
黄色い煙の中で、銃声が始まった。
短い三点射。
火花が梁から散る。
サンソンは倒れた隊員を遮蔽物へ押し込み、HK416Fを排気塔の根元へ向けた。
撃たない。
煙の向こうにいるのが射手か、拘束された作業員か見えない。
『視界なし。熱像も排気で潰れた』
上空の《スプーキー01》からも同じ報告が来た。電子光学像は黄色い噴煙の表面を拾うだけで、建屋内部を透かせない。三火器は施錠されたまま。大口径砲を持つ航空機が、床の小さな振動を待っていた。
「床面振動を送ってください」
ソフィアは建屋の溶接監視センサーへ接続した。
旧式の加速度計。
足音を測るための装置ではない。
だが、床を走る人間は溶接機より軽く、一定の周期を持つ。
六つの移動反応。
うち二つは、歩幅が短い。
「射手四。人質または負傷者二。北から南へ移動」
『確度』
「七十一パーセント」
『十分だ』
「射撃には不足です」
『動くには十分だ』
サンソンは海側班へ、挟撃ではなく退路形成を命じた。
敵を追い込めば、人質と同じ方向へ走る。
空けた道へ逃がし、煙の外で識別する。
*
黄色い煙が移動指揮車まで届いたのは、突入から七分後だった。
外気センサーが警報を出す。
車内は陽圧。
それでも、後部扉を一度開けた時に微量が入った。
ソフィアの人工肝臓が化学物質負荷を検出する。
警告表示。
血中代謝負荷、上昇。
人工心臓、正常。
肺機能、数値なし。
肺は診断端子へ接続されていない。
喉が焼ける。
呼吸が浅くなる。
「交代してください」
医療員が言った。
「五分」
「人工肝臓の警告です」
「濾過は継続しています」
「肺は生身です」
「知っています」
返事の直後、咳が出た。
マスクの内側へ、乾いた音が二回。
人工心臓は動揺を見せない。
その一定さが、かえって身体の異常を目立たせた。
感情も苦痛も、ポンプ回転数へは正しく出ない。
ソフィアは指揮卓の端を掴んだ。
手袋の中で指が震える。
決断に必要なのは、耐えることではない。
判断できる人間を席へ残すことだ。
「交代します」
彼女は副担当へ回線鍵を渡した。
「床面振動の分類式は自動更新しないでください。誤認一件。新規反応は人間が確認」
「了解」
「私の承認を待たないでください」
それを言う方が、咳より苦しかった。
自分がいなくても仕組みが動くようにする。
権限を集める者にとって、最初に必要な自制だった。
*
サンソンは南搬出口で四人の武装員を捉えた。
二人は工具箱を持った作業員を前へ押している。
煙から出た瞬間、輪郭が分かれた。
作業員は両手を拘束。
武装員は防毒マスクと短機関銃。
『武器を捨てろ』
一人が作業員の首へ銃口を当てる。
サンソンは正面に出た。
HK416Fを床へ置く。
『退路はある』
男が叫ぶ。
『車を寄越せ!』
「面倒だな」
サンソンは右手を開いた。
左手は身体の陰。
袖口から、小型の絶縁切断器が落ちる。
工具は床を滑り、作業員の靴へ当たった。
作業員が意味を理解するまで、一秒。
靴底で切断器を踏み、拘束バンドへ刃を入れる。
男の視線が下がる。
サンソンは一歩で距離を詰めた。
銃身を上へ払い、肘を折り、作業員を横へ引く。
海側班が残る三人へ照準を重ねる。
撃ったのは一人だけだった。
弾丸がサンソンの防弾板へ当たり、身体を半歩押す。
彼は倒れない。
次の一発が出る前に、男の手首を床へ固定した。
「拘束」
短い報告。
通信の向こうで、シェレメートが息を吐く音がした。
『心配させないでよ〜』
「寝ていろ」
『七割は――』
「聞いた」
*
造船所から回収された誘導装置は、百九十六基だった。
試験架台に百八十。
搬出直前のトレーラーに十六。
残り十六基。
信管は四百八十六個のうち、四百四十八個。
未回収、三十八個。
誘導装置十六基と同じ便で出た保証はない。別の弾体へ渡った可能性も、どこかの倉庫で次の注文を待っている可能性も残った。
移動式電源装置は三十九基すべて。
押収量だけを見れば、作戦は成功だった。
ソフィアは医療車内で酸素投与を受けながら、誘導装置十六基と信管三十八個の未回収欄を赤くした。
「百九十六を喜ばないのですか」
医官が聞く。
「喜んでいます」
「そう見えません」
「人工心臓に表示機能はありません」
「顔は生身でしょう」
ソフィアは答えなかった。
サンソンが医療車の扉を開ける。
防弾板に、潰れた弾頭が一つ食い込んでいた。
「シェレメートへ、無傷と報告してください」
「自分で言え」
「回線を切られました」
「正しい判断です」
「似ているな」
「先ほども聞きました。比較対象は誰ですか」
サンソンはまた答えない。
代わりに、未回収十六基の搬出記録を渡した。
行き先は、アルシェール。
和平予備会談が開かれる都市だった。
捕らえられた作業責任者は、搬出時刻だけを覚えていた。
「午前二時十三分」
「時計を見たのですか」
「試験装置が全基、同時に時刻補正へ入った。表示が見えた」
「誰が命令した」
「顔は知らない。音声だけだ」
「言語は」
「ヴァローニュ語。訛りはなかった」
外見、宗教句、国籍らしい単語は出ない。
残ったのは、同期時刻と輸送記録と機械の癖だった。
ソフィアは酸素マスクを外さず、供述を聞いた。
「十六基を分けた理由は」
「四台の試験車へ。四基ずつ」
「試験車の標章」
「市の清掃局。電力公社。劇場設備会社」
アルシェールで、誰も疑わず会議区へ近づける車両だった。
作業責任者は最後に聞いた。
「私は、何を組み立てた」
ソフィアは完全な答えを持っていない。
「攻撃に使える同期・誘導系です」
「人を殺した?」
「現時点では確認されていません」
「これからは」
「止めます」
断言してから、彼女は一度咳き込んだ。
人工心臓の回転は変わらない。
作業責任者は、その一定の機械音を聞いた。
「あなたも、あれと同じか」
「違います」
ソフィアは答えた。
「部品ではなく、使い方が違います」
彼女自身にも、その答えが十分かは分からなかった。
少なくとも、身体が機械だから命令に従うわけではない。
命令を選ぶ責任まで、置き換えられた部品は一つもなかった。
*
作戦終了から二時間後、造船所の洗浄区画に黄色い排水が溜まった。
防毒服、吸収缶、汚染された手袋、切断した拘束具。証拠として残す物と、廃棄する物を同じ床で分ける。腐食性薬剤を洗い流した水まで採取され、採取者、時刻、容器番号が付いた。
サンソンは防弾板から潰れた弾頭を抜かせた。
「記念に持っていきますか」
証拠係が聞く。
「要らない」
「あなたへ当たった弾です」
「だから何だ」
「報道班が写真を」
「鑑識へ渡せ」
弾頭には銃身固有痕が残っていた。撃った男の武器と結び付けば、殺人未遂の証拠になる。胸へ当たった物を英雄の記念品へ変えるより、番号を付ける方が役に立つ。
隣では、マスク装着が遅れた隊員が気管支洗浄を受けていた。
化学熱傷は軽度。
観察入院、二十四時間。
防毒マスクの携行はしていた。吸収缶も適合。遅れた理由は、顎紐がヘルメット留め具へ噛んだからだった。
「本人の訓練不足にしますか」
安全官が聞く。
「装着訓練は合格しています」
ソフィアは酸素マスク越しに答えた。
「同じ顎紐と留め具で再現試験を。再現すれば装備。しなければ手順です」
「作戦成功報告を先に出せと言われています」
「負傷原因を空欄にした成功報告は出しません」
広報用の速報には、《誘導装置百九十六基を回収》とだけ書かれていた。
ソフィアは、《十六基未回収、信管三十八個未回収、隊員一名化学曝露》を加えた。
見出しは弱くなった。
記録は強くなった。




