↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王冠の亡命――八百日の建国戦争  作者: シルヴァン・レーデル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
104/251

第九十五話 動かない船



 アンバー海沿岸には、動かない船が百八十四隻あった。


 機関故障。


 係争中。


 解体待ち。


 差押え。


 船主破産。


 乗員逃亡。


 港は、死んだ船を墓地へ運ばない。


 岸壁使用料を払い続ける限り、死体にも場所を貸す。


 朝の港は、小雨と石炭粉で色を失っていた。係留索は潮を吸って黒く膨らみ、使われないクレーンの滑車が風のたび一度だけ軋む。海面には軽油の虹が薄く広がり、岸壁の古い魚箱と錆の匂いを覆えずにいた。


 ロマネンコは衛星画像を三日前まで戻した。


「動いた船を探すな」


 彼が言う。


「昨日と同じ場所にいて、昨日より深く沈んでいる船を探せ」


 喫水線の比較。


 係留索の角度。


 岸壁と舷側の高さ。


 潮位補正。


 一隻だけ、船体が二十七センチ下がっていた。


 元自動車運搬船ヴェラ・ノーチェ


 機関撤去済み。


 二年前から解体待ち。


 電力契約なし。


 昨夜、岸壁の変圧器が通常の十九倍を消費している。


「二百十二基を起こす試験場」


 分析官が言った。


「かもしれない」


 ロマネンコは船体図を開いた。


「自動車甲板が五層。電源車を入れられる。海側のランプは溶接したことになっている」


「なっている?」


「溶接会社は倒産。作業写真は別の船だ」


「また使い回しか」


「帝国の書類は環境に優しい」


     *


 臨検には港湾国の令状が必要だった。


 令状申請は午前九時十二分。


 裁判官の審査開始は九時十九分。


 《ヴェラ・ノーチェ》の船腹で、九時二十一分に排水口が開いた。


 冷却水が海へ流れ出す。


 九時二十三分、上部甲板の通風機が停止。


 九時二十四分、岸壁監視カメラが映像を失った。


「証拠を壊し始めています」


 ソフィアが言った。


「令状は」


 ペトレンコが聞く。


「審査中」


「港湾消防の立入権限は」


「火災または有害物質漏洩の兆候が必要です」


「冷却水の成分」


「採取に十五分」


 船体が、もう一センチ沈んだ。


 海水を注入している。


 自沈準備。


 中に人間がいるかは分からない。


 誘導装置があるかも分からない。


 分からないまま、船は沈み始めている。


「港長へ、曳航準備を勧告」


 ペトレンコが言った。


「令状前です」


「曳航索を掛ける準備です。乗船はしません」


「相手が拒否すれば」


「動かない船は、返事をしません」


     *


 ヘーチマン社の港湾曳船ハイダマクが、船尾から近づいた。


 全長三十四メートル。


 黒い船体。


 前部甲板に大型ウインチ。


 砲はない。


 装甲もない。


 あるのは太い曳航索と、他人の失敗を引きずるための馬力だった。


『ヴェラ・ノーチェ、こちら港湾曳船。船体傾斜を確認。応答せよ』


 無線は沈黙。


 曳船が二百メートルまで入る。


 自動車運搬船の舷窓が一つ開いた。


 銃口が出る。


『射撃!』


 7.62ミリ弾が《ハイダマク》の操舵室を叩いた。


 防弾ガラスではない。


 一発が窓を抜け、後壁へ突き刺さる。


 安全ガラスの粒が船長の頬を削り、右耳のすぐ横を弾丸が通った。操舵室の気圧が変わったように音が遠のき、次にディーゼル機関の振動だけが歯へ戻ってくる。甲板員は腹這いのまま、切れかけた投射索を手繰った。


 船長は伏せながら右舵を取った。


 曳船の船尾が振れ、曳航索の投射器が海へ落ちる。


『負傷一。操船継続』


 港湾警備艇が警告射撃を返した。


 20ミリ弾が《ヴェラ・ノーチェ》上部甲板の手すりを切り飛ばす。


 錆びた鉄片が雨のように落ちる。


 その時、船尾ランプの溶接線が内側から爆ぜた。


 鋼板がゆっくり外へ倒れる。


 暗い車両甲板から、電源車が一台飛び出した。


 タイヤがランプを滑り、岸壁へ着地する。


 続いて二台目。


「逃走車両」


 分析官が叫ぶ。


「追跡を」


「港門を閉鎖しますか」


 ペトレンコは港全体図を見た。


 退勤中の作業員。


 冷凍倉庫のトラック。


 燃料車。


 港門を閉じれば、電源車は止まる。


 後続車両も、作業員も同じ場所へ詰まる。


 敵が爆薬を積んでいれば、門が殺傷箱になる。


「閉めません」


「逃がしますか」


「空いている門を一つだけ残す。南三番門。そこへ誘導」


 表示板が切り替わる。


 事故のため北門閉鎖。


 東門は危険物車両のみ。


 一般退出は南三番門。


 電源車二台は、迷わず南へ向かった。


 逃げ道を与えられた人間は、罠を疑いながらも速度を上げる。


     *


 南三番門の外には、警察車両がいなかった。


 道路も空いている。


 電源車の運転手は、一台目を時速九十キロまで加速させた。


 上空百五十メートルを、リンクスHMA.8が追う。


 機体は照明を消し、赤外線センサーだけを車両へ向けていた。


『一号車、荷台温度上昇』


『二号車、後部扉開放』


 二号車から小型無人機が二機放たれた。


 翼幅一・二メートル。


 自爆型。


 リンクスは急上昇し、左へ旋回。


 ドアガンのM3Mが短く火を噴いた。


 12.7ミリ弾が一機の翼を折る。


 機体は道路脇へ落ち、土を円形に噴き上げた。


 二機目はリンクスを追わず、南三番門へ戻る。


 門を通過中の冷凍トラックを狙っていた。


『民間車両へ向かう』


 ルツェンコの短SAM車両が、門から一・八キロ離れた倉庫脇にいた。


 9M342《イグラ-S》では近すぎる。


「機関砲、単発」


 照準手がZU-23-2の砲身を上げる。


 連射すれば、外れ弾が港へ落ちる。


 一発。


 無人機の前を抜ける。


 二発目。


 尾部が砕ける。


 無人機は冷凍トラックの二十メートル手前へ落ち、爆発した。


 衝撃で後部扉が開き、冷凍食品の箱が道路へ散る。


 運転手は止まらなかった。


「いい判断だ」


 ルツェンコが言う。


「魚は後で拾え」


     *


 電源車一号は、ヘーチマン社のオプロート二両に前後を塞がれた。


 二号は、走行中に荷台から白煙を出した。


 運転手が飛び降りる。


 無人の車両は中央分離帯へ乗り上げ、横転した。


 爆発はしなかった。


 内部の自己消去装置が、記憶媒体と試験回路を焼いた煙だった。


 同じ頃、港湾裁判所から令状が届いた。


 申請から二十七分。


 《ヴェラ・ノーチェ》は右舷へ六度傾いている。


 第八十八特務支援群と港湾消防が乗り込んだ。


 先頭は港湾消防の危険物班だった。


 防火服の上へ簡易防弾板を重ね、熱画像装置と四成分ガス検知器を交互に覗く。戦闘員ではない。だが、船が沈めば、弾丸を防ぐ盾より先に呼吸できる空気が必要になる。


「酸素十九・四。硫化水素なし。一酸化炭素、上昇中」


「火源は」


「見えない。電源車の自己消去煙かもしれない」


 第八十八群の隊員が、閉じた防火扉へ鏡を差し込んだ。


 反対側の床に、薬莢が二つ。


「人間がいる」


「生きているかは分からない」


「生きている前提で入る」


 サンソンはガスマスクの吸収缶を締め直した。船内図は二年前の解体申請に添付されたものしかない。電源を失った車両運搬船は、同じ傾斜路と防火扉が何度も現れる巨大な箱だった。


 消防士が蛍光色の誘導索を入口へ結ぶ。


「帰り道です。切らないでください」


「敵が切る」


「では、切られた位置を覚えてください」


「消防は面倒だな」


「生きて帰る部署なので」


 扉を油圧器具で五センチ開く。


 銃弾が隙間を抜けた。


 一発は防弾板へ止まり、もう一発が天井の蛍光灯を割る。第八十八群は撃ち返さず、発煙筒を床へ滑らせた。白煙ではない。赤外線観測を曇らせる金属粒子入りの灰色だった。


「右舷階段へ二人」


「確認できない」


「足音だ」


 消防士には聞こえなかった。サンソンは三歩先へ入り、傾いた床を滑るように右へ寄った。


 二人が階段から下りてくる。


 一人は短機関銃。


 もう一人は、携帯端末と赤い押し釦を持っていた。


 サンソンは一人目の銃身を隔壁へ押し付け、膝を踏んだ。発射音が狭い甲板へ反響する。二人目が釦へ親指を掛ける。


 消防士が消火斧を投げた。


 刃ではなく、柄が手首へ当たった。


 端末が床へ落ちる。


 第八十八群の隊員が男を伏せさせ、釦から指を離す。


「消防士は斧を投げるのか」


 サンソンが聞いた。


「返してください。備品です」


「壊したら弁償か」


「あなたの予算で」


 笑った者はいなかった。


 押し釦の先は爆薬ではなく、右舷注水弁の予備電磁弁へ繋がっていた。押されれば、いま半開の弁が全開になる。船は急には沈まない。ただ、救出に使える時間が短くなる。


 その程度の装置が、いちばん使いやすい。


 船内は、沈めるために区画が繋がれていた。


 通常なら閉鎖される水密扉が六枚、開放固定。


 車両甲板の排水口は布と発泡材で塞がれている。


 右舷バラストタンクの注水弁だけが全開。


 船体はゆっくり傾き続けた。


「曳航索、張力上げろ」


 《ハイダマク》の船長が、割れた操舵室から命じる。


 《ヴォルナ》を砂州から引き剝がした時は、弾薬と燃料を抜き、満潮を待ち、曳船三隻で船体を一度だけ浮かせた。左舷軸は死んだまま、艦橋には仮設指揮所。離礁後も十二ノットが限界だった。


 あれは復旧ではない。沈ませず、再び海へ出しただけだ。


 今日は曳船一隻。潮を待つ時間もない。


 額にガラス片。


 左腕へ包帯。


 操船を代われる者はいる。


 それでも彼は舵輪を離さなかった。


『負傷者は後送を』


 マゼパが無線で言う。


「曳船の船長が、曳航中に船を降りるか」


『会社規程では降ります』


「今作っただろう」


『事故のたび増えます』


 曳航索が張る。


 鋼索ではなく、高強度繊維の束が水を絞りながら太くなった。ウインチの油圧計が赤へ入り、ドラムの制動帯から焦げた樹脂の匂いが立つ。《ハイダマク》の船尾は一度沈み、プロペラが泡を白く掻き回した。


 《ヴェラ・ノーチェ》の船尾が一度止まり、岸壁から離れる。


 沈む船を浅い船渠へ引き込む。


 完全に沈んでも、上部甲板が水面へ残る場所だった。


 第八十八群は最下層へ降りた。


 海水は膝まで。


 照明は消え、携帯灯が隔壁を細く切る。


 車両甲板奥から、金属を叩く音がした。


 三回。


 間を置いて二回。


「人がいる」


 叩く音は、船体の傾きに合わせて少しずつ下へ移っていた。


 閉じ込められた人間が動いているのではない。区画へ入った海水が、浮いた工具箱を隔壁へ運んでいる可能性もある。


 先頭員は耳を扉へ付けた。


 三回。


 二回。


 一回。


「規則性がある」


「生存者なら、こちらの音へ返す」


 サンソンは銃床で扉を二回叩いた。


 向こうから、すぐ三回返った。


 人間だった。


 先頭員が防水扉へ近づく。


 扉の把手には細いワイヤ。


 開けば、上に吊った鋼材が落ちる。


 工兵がワイヤを鏡で追い、天井の滑車を見つけた。


「罠。扉は使えない」


 隣の点検口へ、油圧スプレッダーの爪を入れる。


 鋼板が低く鳴り、内側へ折れた。


 十五分後、区画から三人の作業員が出された。


 一人は左足首を骨折。


 一人は低体温と脱水。


 最後の一人は、両手の指先に細い電撃痕があった。


 港湾消防の救急員が、濡れた衣服を切り、保温布を巻く。酸素投与。心電図。足首は副木固定。電撃痕の男には不整脈が出ていた。


「担架を三つ」


「通路幅が足りない」


「一人ずつ出す」


「船体が持たない」


 サンソンは一人を背負い、隊員二人へ残りを任せた。非常灯の赤が、傾いた壁を床に見せる。帰路の誘導索は途中で水へ沈み、その先だけが暗闇の中で浮いていた。


 上層から、消防士の声が届く。


『一酸化炭素、百二十。吸収缶限界に注意』


「あと何分」


『規程では撤退です』


「質問に答えろ」


『安全側で八分』


「六分で出る」


 安全率から二分を借りた。


 借りた時間は、報告書から消えなかった。


 造船所の電気技師。


 二日前に連れ去られ、試験架台の配線をさせられた。


「装置はどこへ」


 法務官が聞く。


「構内列車」


「何時」


「夜中。時計を取られた」


「何両」


「平床車十六。一本に一つのコンテナ」


「行き先」


 技師は濡れた作業着のまま、船尾方向を指した。


「レールは造船所へ。でも、途中に地下分岐がある。古い軍需線だ」


 紙図面にはない分岐だった。


 帝国時代、潜水艦部品を空襲から隠すために掘られた線路。


 閉鎖記録はある。


 埋め戻した記録はない。


 ロマネンコが言う。


「閉じたことにした扉だ」


 サンソンは応急担架を持ち上げる。


「またか」


 救出された技師が彼のガスマスクを見る。


「あなたは誰だ」


「運ぶ人間だ」


 名前やコードネームを説明するより先に、船体がもう一度傾いた。


 全員が出口へ走った。


 車両甲板五層。


 電源車四台分の接続痕。


 試験架台、二百十二基分。


 誘導装置は、一基もない。


「また外れか」


 司法官が言った。


 ロマネンコは床の固定具を見た。


「昨夜まで、ここにあった」


 床へ残った防湿剤。


 新しいタイヤ痕。


 塩水の付いていない泥。


 装置は船ではなく、陸へ出た。


「何台」


「大型トレーラー十六台」


「港門記録にない」


「門を通っていない」


 ロマネンコは船尾ランプの先を見る。


 対岸の旧造船所まで、閉鎖された構内鉄道が続いていた。


 線路は錆びている。


 その錆が、幅十五センチだけ新しく剥がれていた。


 動かなかったのは船ではない。


 動いたことを、誰も見ようとしなかった記録だった。


 《ヴェラ・ノーチェ》は沈まなかった。


 浅い船渠で右舷を泥へ預け、十三度傾いたまま止まった。


 《ハイダマク》の曳航索は一本切れた。


 破断した索は鞭のように海面を叩き、船尾手すりを二本まとめて折った。退避線の内側に人はいなかった。船長が乗員を下げていたからで、幸運だけではなかった。


 操舵室の窓は四枚交換。


 負傷者二。


 救出者三。


 マゼパは損害票の最後へ、《沈没回避成功報酬》と書いた。


 ボンダレンコが赤線を引く。


「そんな項目はない」


「今から入れればよいのでは」


 以前、ボンダレンコ自身が言った言葉だった。


「人の悪い奴だ」


「契約は記憶力が良い」


 成功報酬は半額だけ認められた。


 残り半額は、作業員三人の治療費と、曳船員の危険手当へ回された。


 会社は不満を記録し、受領した。


 港務局の臨時会計席では、若い主査が別の計算をしていた。


 沈没した場合の航路閉鎖、油濁防除、船体撤去。


 合計見積は、成功報酬の二十三倍だった。


「なら、全額払った方が安いですね」


 隣の係長へ言う。


「安いかどうかと、払ってよいかは別だ」


「次の作戦でも協力が必要です」


「だから規程を作る。今日の請求書を、そのまま前例にはしない」


 主査は不服だった。沈まなかった船の撤去費用は、予算執行率へ現れない。認めた成功報酬だけが監査で問われる。数字の上では、何もしなかった方が彼の経歴には安全だった。


 それでも彼は、《緊急曳航時危険加算》という新しい細目案を起こした。


 会社名も、今回の金額も書かない。


 次に同じことが起きた時、誰かが電話一本で全額を約束しなくて済むようにした。


 草案は承認待ちの箱へ入り、まだ効力を持たなかった。


 国家と企業の友情は、たいてい請求書の余白に書かれる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。