第九十五話 動かない船
アンバー海沿岸には、動かない船が百八十四隻あった。
機関故障。
係争中。
解体待ち。
差押え。
船主破産。
乗員逃亡。
港は、死んだ船を墓地へ運ばない。
岸壁使用料を払い続ける限り、死体にも場所を貸す。
朝の港は、小雨と石炭粉で色を失っていた。係留索は潮を吸って黒く膨らみ、使われないクレーンの滑車が風のたび一度だけ軋む。海面には軽油の虹が薄く広がり、岸壁の古い魚箱と錆の匂いを覆えずにいた。
ロマネンコは衛星画像を三日前まで戻した。
「動いた船を探すな」
彼が言う。
「昨日と同じ場所にいて、昨日より深く沈んでいる船を探せ」
喫水線の比較。
係留索の角度。
岸壁と舷側の高さ。
潮位補正。
一隻だけ、船体が二十七センチ下がっていた。
元自動車運搬船。
機関撤去済み。
二年前から解体待ち。
電力契約なし。
昨夜、岸壁の変圧器が通常の十九倍を消費している。
「二百十二基を起こす試験場」
分析官が言った。
「かもしれない」
ロマネンコは船体図を開いた。
「自動車甲板が五層。電源車を入れられる。海側のランプは溶接したことになっている」
「なっている?」
「溶接会社は倒産。作業写真は別の船だ」
「また使い回しか」
「帝国の書類は環境に優しい」
*
臨検には港湾国の令状が必要だった。
令状申請は午前九時十二分。
裁判官の審査開始は九時十九分。
《ヴェラ・ノーチェ》の船腹で、九時二十一分に排水口が開いた。
冷却水が海へ流れ出す。
九時二十三分、上部甲板の通風機が停止。
九時二十四分、岸壁監視カメラが映像を失った。
「証拠を壊し始めています」
ソフィアが言った。
「令状は」
ペトレンコが聞く。
「審査中」
「港湾消防の立入権限は」
「火災または有害物質漏洩の兆候が必要です」
「冷却水の成分」
「採取に十五分」
船体が、もう一センチ沈んだ。
海水を注入している。
自沈準備。
中に人間がいるかは分からない。
誘導装置があるかも分からない。
分からないまま、船は沈み始めている。
「港長へ、曳航準備を勧告」
ペトレンコが言った。
「令状前です」
「曳航索を掛ける準備です。乗船はしません」
「相手が拒否すれば」
「動かない船は、返事をしません」
*
ヘーチマン社の港湾曳船が、船尾から近づいた。
全長三十四メートル。
黒い船体。
前部甲板に大型ウインチ。
砲はない。
装甲もない。
あるのは太い曳航索と、他人の失敗を引きずるための馬力だった。
『ヴェラ・ノーチェ、こちら港湾曳船。船体傾斜を確認。応答せよ』
無線は沈黙。
曳船が二百メートルまで入る。
自動車運搬船の舷窓が一つ開いた。
銃口が出る。
『射撃!』
7.62ミリ弾が《ハイダマク》の操舵室を叩いた。
防弾ガラスではない。
一発が窓を抜け、後壁へ突き刺さる。
安全ガラスの粒が船長の頬を削り、右耳のすぐ横を弾丸が通った。操舵室の気圧が変わったように音が遠のき、次にディーゼル機関の振動だけが歯へ戻ってくる。甲板員は腹這いのまま、切れかけた投射索を手繰った。
船長は伏せながら右舵を取った。
曳船の船尾が振れ、曳航索の投射器が海へ落ちる。
『負傷一。操船継続』
港湾警備艇が警告射撃を返した。
20ミリ弾が《ヴェラ・ノーチェ》上部甲板の手すりを切り飛ばす。
錆びた鉄片が雨のように落ちる。
その時、船尾ランプの溶接線が内側から爆ぜた。
鋼板がゆっくり外へ倒れる。
暗い車両甲板から、電源車が一台飛び出した。
タイヤがランプを滑り、岸壁へ着地する。
続いて二台目。
「逃走車両」
分析官が叫ぶ。
「追跡を」
「港門を閉鎖しますか」
ペトレンコは港全体図を見た。
退勤中の作業員。
冷凍倉庫のトラック。
燃料車。
港門を閉じれば、電源車は止まる。
後続車両も、作業員も同じ場所へ詰まる。
敵が爆薬を積んでいれば、門が殺傷箱になる。
「閉めません」
「逃がしますか」
「空いている門を一つだけ残す。南三番門。そこへ誘導」
表示板が切り替わる。
事故のため北門閉鎖。
東門は危険物車両のみ。
一般退出は南三番門。
電源車二台は、迷わず南へ向かった。
逃げ道を与えられた人間は、罠を疑いながらも速度を上げる。
*
南三番門の外には、警察車両がいなかった。
道路も空いている。
電源車の運転手は、一台目を時速九十キロまで加速させた。
上空百五十メートルを、リンクスHMA.8が追う。
機体は照明を消し、赤外線センサーだけを車両へ向けていた。
『一号車、荷台温度上昇』
『二号車、後部扉開放』
二号車から小型無人機が二機放たれた。
翼幅一・二メートル。
自爆型。
リンクスは急上昇し、左へ旋回。
ドアガンのM3Mが短く火を噴いた。
12.7ミリ弾が一機の翼を折る。
機体は道路脇へ落ち、土を円形に噴き上げた。
二機目はリンクスを追わず、南三番門へ戻る。
門を通過中の冷凍トラックを狙っていた。
『民間車両へ向かう』
ルツェンコの短SAM車両が、門から一・八キロ離れた倉庫脇にいた。
9M342《イグラ-S》では近すぎる。
「機関砲、単発」
照準手がZU-23-2の砲身を上げる。
連射すれば、外れ弾が港へ落ちる。
一発。
無人機の前を抜ける。
二発目。
尾部が砕ける。
無人機は冷凍トラックの二十メートル手前へ落ち、爆発した。
衝撃で後部扉が開き、冷凍食品の箱が道路へ散る。
運転手は止まらなかった。
「いい判断だ」
ルツェンコが言う。
「魚は後で拾え」
*
電源車一号は、ヘーチマン社のオプロート二両に前後を塞がれた。
二号は、走行中に荷台から白煙を出した。
運転手が飛び降りる。
無人の車両は中央分離帯へ乗り上げ、横転した。
爆発はしなかった。
内部の自己消去装置が、記憶媒体と試験回路を焼いた煙だった。
同じ頃、港湾裁判所から令状が届いた。
申請から二十七分。
《ヴェラ・ノーチェ》は右舷へ六度傾いている。
第八十八特務支援群と港湾消防が乗り込んだ。
先頭は港湾消防の危険物班だった。
防火服の上へ簡易防弾板を重ね、熱画像装置と四成分ガス検知器を交互に覗く。戦闘員ではない。だが、船が沈めば、弾丸を防ぐ盾より先に呼吸できる空気が必要になる。
「酸素十九・四。硫化水素なし。一酸化炭素、上昇中」
「火源は」
「見えない。電源車の自己消去煙かもしれない」
第八十八群の隊員が、閉じた防火扉へ鏡を差し込んだ。
反対側の床に、薬莢が二つ。
「人間がいる」
「生きているかは分からない」
「生きている前提で入る」
サンソンはガスマスクの吸収缶を締め直した。船内図は二年前の解体申請に添付されたものしかない。電源を失った車両運搬船は、同じ傾斜路と防火扉が何度も現れる巨大な箱だった。
消防士が蛍光色の誘導索を入口へ結ぶ。
「帰り道です。切らないでください」
「敵が切る」
「では、切られた位置を覚えてください」
「消防は面倒だな」
「生きて帰る部署なので」
扉を油圧器具で五センチ開く。
銃弾が隙間を抜けた。
一発は防弾板へ止まり、もう一発が天井の蛍光灯を割る。第八十八群は撃ち返さず、発煙筒を床へ滑らせた。白煙ではない。赤外線観測を曇らせる金属粒子入りの灰色だった。
「右舷階段へ二人」
「確認できない」
「足音だ」
消防士には聞こえなかった。サンソンは三歩先へ入り、傾いた床を滑るように右へ寄った。
二人が階段から下りてくる。
一人は短機関銃。
もう一人は、携帯端末と赤い押し釦を持っていた。
サンソンは一人目の銃身を隔壁へ押し付け、膝を踏んだ。発射音が狭い甲板へ反響する。二人目が釦へ親指を掛ける。
消防士が消火斧を投げた。
刃ではなく、柄が手首へ当たった。
端末が床へ落ちる。
第八十八群の隊員が男を伏せさせ、釦から指を離す。
「消防士は斧を投げるのか」
サンソンが聞いた。
「返してください。備品です」
「壊したら弁償か」
「あなたの予算で」
笑った者はいなかった。
押し釦の先は爆薬ではなく、右舷注水弁の予備電磁弁へ繋がっていた。押されれば、いま半開の弁が全開になる。船は急には沈まない。ただ、救出に使える時間が短くなる。
その程度の装置が、いちばん使いやすい。
船内は、沈めるために区画が繋がれていた。
通常なら閉鎖される水密扉が六枚、開放固定。
車両甲板の排水口は布と発泡材で塞がれている。
右舷バラストタンクの注水弁だけが全開。
船体はゆっくり傾き続けた。
「曳航索、張力上げろ」
《ハイダマク》の船長が、割れた操舵室から命じる。
《ヴォルナ》を砂州から引き剝がした時は、弾薬と燃料を抜き、満潮を待ち、曳船三隻で船体を一度だけ浮かせた。左舷軸は死んだまま、艦橋には仮設指揮所。離礁後も十二ノットが限界だった。
あれは復旧ではない。沈ませず、再び海へ出しただけだ。
今日は曳船一隻。潮を待つ時間もない。
額にガラス片。
左腕へ包帯。
操船を代われる者はいる。
それでも彼は舵輪を離さなかった。
『負傷者は後送を』
マゼパが無線で言う。
「曳船の船長が、曳航中に船を降りるか」
『会社規程では降ります』
「今作っただろう」
『事故のたび増えます』
曳航索が張る。
鋼索ではなく、高強度繊維の束が水を絞りながら太くなった。ウインチの油圧計が赤へ入り、ドラムの制動帯から焦げた樹脂の匂いが立つ。《ハイダマク》の船尾は一度沈み、プロペラが泡を白く掻き回した。
《ヴェラ・ノーチェ》の船尾が一度止まり、岸壁から離れる。
沈む船を浅い船渠へ引き込む。
完全に沈んでも、上部甲板が水面へ残る場所だった。
第八十八群は最下層へ降りた。
海水は膝まで。
照明は消え、携帯灯が隔壁を細く切る。
車両甲板奥から、金属を叩く音がした。
三回。
間を置いて二回。
「人がいる」
叩く音は、船体の傾きに合わせて少しずつ下へ移っていた。
閉じ込められた人間が動いているのではない。区画へ入った海水が、浮いた工具箱を隔壁へ運んでいる可能性もある。
先頭員は耳を扉へ付けた。
三回。
二回。
一回。
「規則性がある」
「生存者なら、こちらの音へ返す」
サンソンは銃床で扉を二回叩いた。
向こうから、すぐ三回返った。
人間だった。
先頭員が防水扉へ近づく。
扉の把手には細いワイヤ。
開けば、上に吊った鋼材が落ちる。
工兵がワイヤを鏡で追い、天井の滑車を見つけた。
「罠。扉は使えない」
隣の点検口へ、油圧スプレッダーの爪を入れる。
鋼板が低く鳴り、内側へ折れた。
十五分後、区画から三人の作業員が出された。
一人は左足首を骨折。
一人は低体温と脱水。
最後の一人は、両手の指先に細い電撃痕があった。
港湾消防の救急員が、濡れた衣服を切り、保温布を巻く。酸素投与。心電図。足首は副木固定。電撃痕の男には不整脈が出ていた。
「担架を三つ」
「通路幅が足りない」
「一人ずつ出す」
「船体が持たない」
サンソンは一人を背負い、隊員二人へ残りを任せた。非常灯の赤が、傾いた壁を床に見せる。帰路の誘導索は途中で水へ沈み、その先だけが暗闇の中で浮いていた。
上層から、消防士の声が届く。
『一酸化炭素、百二十。吸収缶限界に注意』
「あと何分」
『規程では撤退です』
「質問に答えろ」
『安全側で八分』
「六分で出る」
安全率から二分を借りた。
借りた時間は、報告書から消えなかった。
造船所の電気技師。
二日前に連れ去られ、試験架台の配線をさせられた。
「装置はどこへ」
法務官が聞く。
「構内列車」
「何時」
「夜中。時計を取られた」
「何両」
「平床車十六。一本に一つのコンテナ」
「行き先」
技師は濡れた作業着のまま、船尾方向を指した。
「レールは造船所へ。でも、途中に地下分岐がある。古い軍需線だ」
紙図面にはない分岐だった。
帝国時代、潜水艦部品を空襲から隠すために掘られた線路。
閉鎖記録はある。
埋め戻した記録はない。
ロマネンコが言う。
「閉じたことにした扉だ」
サンソンは応急担架を持ち上げる。
「またか」
救出された技師が彼のガスマスクを見る。
「あなたは誰だ」
「運ぶ人間だ」
名前やコードネームを説明するより先に、船体がもう一度傾いた。
全員が出口へ走った。
車両甲板五層。
電源車四台分の接続痕。
試験架台、二百十二基分。
誘導装置は、一基もない。
「また外れか」
司法官が言った。
ロマネンコは床の固定具を見た。
「昨夜まで、ここにあった」
床へ残った防湿剤。
新しいタイヤ痕。
塩水の付いていない泥。
装置は船ではなく、陸へ出た。
「何台」
「大型トレーラー十六台」
「港門記録にない」
「門を通っていない」
ロマネンコは船尾ランプの先を見る。
対岸の旧造船所まで、閉鎖された構内鉄道が続いていた。
線路は錆びている。
その錆が、幅十五センチだけ新しく剥がれていた。
動かなかったのは船ではない。
動いたことを、誰も見ようとしなかった記録だった。
《ヴェラ・ノーチェ》は沈まなかった。
浅い船渠で右舷を泥へ預け、十三度傾いたまま止まった。
《ハイダマク》の曳航索は一本切れた。
破断した索は鞭のように海面を叩き、船尾手すりを二本まとめて折った。退避線の内側に人はいなかった。船長が乗員を下げていたからで、幸運だけではなかった。
操舵室の窓は四枚交換。
負傷者二。
救出者三。
マゼパは損害票の最後へ、《沈没回避成功報酬》と書いた。
ボンダレンコが赤線を引く。
「そんな項目はない」
「今から入れればよいのでは」
以前、ボンダレンコ自身が言った言葉だった。
「人の悪い奴だ」
「契約は記憶力が良い」
成功報酬は半額だけ認められた。
残り半額は、作業員三人の治療費と、曳船員の危険手当へ回された。
会社は不満を記録し、受領した。
港務局の臨時会計席では、若い主査が別の計算をしていた。
沈没した場合の航路閉鎖、油濁防除、船体撤去。
合計見積は、成功報酬の二十三倍だった。
「なら、全額払った方が安いですね」
隣の係長へ言う。
「安いかどうかと、払ってよいかは別だ」
「次の作戦でも協力が必要です」
「だから規程を作る。今日の請求書を、そのまま前例にはしない」
主査は不服だった。沈まなかった船の撤去費用は、予算執行率へ現れない。認めた成功報酬だけが監査で問われる。数字の上では、何もしなかった方が彼の経歴には安全だった。
それでも彼は、《緊急曳航時危険加算》という新しい細目案を起こした。
会社名も、今回の金額も書かない。
次に同じことが起きた時、誰かが電話一本で全額を約束しなくて済むようにした。
草案は承認待ちの箱へ入り、まだ効力を持たなかった。
国家と企業の友情は、たいてい請求書の余白に書かれる。




