第十話 半島の空
セヴァル港への攻撃から三十六時間後。
カリナ半島中央部では、帝国占領軍がシメロフへ指揮機能を集めていた。
半島南部の海軍部隊。東岸の航空部隊。沿岸防御部隊。
軍用回線の多くが、シメロフ南軍用飛行場と旧陸軍学校の地下指揮所を経由する。
そこを止めれば、半島の帝国軍は消えない。
互いの位置と命令を、同じ速さでは共有できなくなる。
*
午前二時五十五分。
西部司令部の作戦室で、ヴォロディミルは飛行装具を身につけていた。
戦闘機課程を修了し、空軍パイロット資格を保持している。即位後も資格維持の飛行だけは続けてきたが、実戦出撃は十年ぶりだった。資格があることと、現在の戦場で通用することは同じではない。
「もう一度確認します」
ザハルチェンコが言った。
「陛下は攻撃隊の指揮官ではなく、航空任務指揮官です。目標への投弾はSu-34隊が行う。陛下の任務は、上空で状況を統合し、攻撃継続か中止かを判断することです」
「分かっている」
「被撃墜、通信途絶、機体故障のいずれかが起きた場合、指揮権はシェレメート元帥へ移ります」
「そこまで念を押すか」
「念を押される立場であることを忘れていただくよりは」
ソフィアが卓上端末から顔を上げた。
「大公が飛ぶことで士気は上がります。墜ちれば、それ以上に下がります。収支は理解してください」
「君まで止める側か」
「止めていません。帰還条件を設定しています」
ヴォロディミルは小さく息を吐いた。
「了解した。命令系統に従う」
「記録しました」
「本当に君は」
「離陸前です。苦情は帰投後に」
*
格納庫では、黒に近い濃紺のSu-35BMが待っていた。
機首の下に金色の王冠章がある。
大公専用機という呼び名は、ヴォロディミルの好みではなかった。だが、地上要員は誰も塗り直そうとしない。
シェレメートがMiG-29OVTの脚立から顔を出した。
「久しぶりの空だね〜、大公様」
「観光ではないぞ」
「分かってる〜。だから、帰りの燃料まで入れておいたよ〜」
「それは整備員の仕事だ」
「確認するのは私の仕事〜」
隣のSu-35BMでは、ソーコルが黙って搭乗前点検を終えていた。
「ソーコル」
「はい」
「俺が前へ出すぎたら止めろ」
「止めます」
「即答だな」
「命令です」
シェレメートが笑った。
「今日は逃げ場がないね〜」
ヴォロディミルはヘルメットを被った。
「それくらいでいい」
*
攻撃隊は三層に分かれていた。
前方には、シェレメートとソーコルを含む戦闘機隊。
中央に、精密誘導兵器を積んだ四機のSu-34。
後方にはSu-24MPと、通信中継機が残る。Su-24MPは並列複座で、左席を専任操縦士、右席を航法・電子戦担当のソフィアが占めていた。
《ウラル》は中高度を飛び、各編隊から上がる情報を受け取った。
目標は三つ。
シメロフ南軍用飛行場の滑走路交差部と軍用エプロン。旧陸軍学校地下指揮所の出入口と通信車両区画。市街から離れた長距離防空陣地。
民間空港の旅客ターミナルは奪回後の輸送拠点として残す。市中心部の行政庁舎は帝国軍が退去済みで、撃つ価値がない。どちらも攻撃禁止だった。
『セヴァル外港観測所より、半島西部の低空監視情報を送ります』
ペトレンコの声が通信網へ入る。
確保したレーダー丘では、公国側の移動式監視装置が稼働していた。
彼女は揚陸艇へ戻らず、上陸部隊とともに海上航空路の監視を続けている。
『北東から敵機四。シメロフへ向かっています』
「受信した。時刻と方位、明瞭だ」
『……ありがとうございます』
「礼ではない。評価だ」
一拍置いて、ペトレンコが答えた。
『了解しました』
*
午前四時三十八分。
帝国軍のSu-30SM四機が、半島北東から接近した。
公国側の攻撃機を追い払うには十分な数だった。
『ジュラーヴリク、二機を引き受けるよ〜』
『ソーコル、残り二機』
「ウラルは両隊の中間に残る。攻撃隊との線を切らせるな」
『了解〜』
『了解』
シェレメートは正面から高度を上げ、帝国編隊の注意を引いた。ソーコルは速度を落として雲の縁へ入り、敵のレーダー画面から一度姿を外す。
最初の中距離ミサイルが双方から放たれた。
警報音が《ウラル》の操縦席へ響く。
ヴォロディミルは回避しながら、全体図を見た。
一機を追えば、別の一機がSu-34へ抜ける。
「ジュラーヴリク、右の一機を押し下げろ。ソーコル、攻撃隊へ向かう先頭機を止めろ」
『任せて〜』
『捕捉』
ソーコルが雲から出た。
攻撃隊へ機首を向けていたSu-30SMの側面を取り、ミサイルを発射する。帝国機は回避したが、破片で左エンジンを損傷し、北東へ離脱した。
シェレメートは二機を低空へ押し込み、旋回戦へは入らない。
『大公様、一機そっちへ行ったよ〜』
「見えている」
ヴォロディミルは敵機の前方へ一発を放った。
撃墜を狙う角度ではない。
Su-30SMは攻撃隊への直線を捨て、ミサイルを避けて東へ旋回した。その先にはソーコルがいる。
『挟みます』
「深追いするな。時間を買えばいい」
『了解』
敵編隊は一機が損傷、一機が燃料とミサイルを消費し、残る二機も攻撃隊との距離を失った。
公国側は空戦に勝ったのではない。
投弾までの六分を確保した。
*
『防空陣地、捜索開始』
ソフィアが告げた。
『妨害を開始します。北側に偽航跡。攻撃隊は南西から進入してください』
長距離防空陣地が北へレーダーを向ける。
その側面から、先行機の対レーダーミサイルが飛び込んだ。
帝国側は送信を停止する。射撃管制を失った発射機は陣地内に残ったが、Su-34を追尾できない。
第一小隊はシメロフ南軍用飛行場へ向かった。
誘導爆弾二発が滑走路の交差部を穿つ。別の二発が軍用エプロンと燃料供給設備へ命中した。
滑走路全体を耕す必要はない。交差部を壊せば、修復するまで同時運用はできなくなる。
格納庫脇に並ぶ航空機の一部は掩体へ逃れた。
第二小隊は旧陸軍学校へ接近する。
『目標区域に車列』
偵察装置の映像が《ウラル》へ転送された。
正門前に、窓を塞がれた三台のバスが停まっている。周囲を帝国兵が固め、乗降口から私服の人々が降ろされていた。
占領軍が拘束者を地下区画へ移している。
『第二小隊、投下まで二十秒』
「投下禁止」
ヴォロディミルは即答した。
『地下指揮所は主目標です』
「投下すれば人質ごと埋まる。抵抗組織からの情報も、帝国が人質を置けば攻撃を止められるという事実だけが残る」
『代替目標を要求』
ソフィアが別の映像を開く。
『指揮所から東へ移動中の通信車両三。軍用道路上、周囲に民間車両なし』
「第二小隊、通信車列へ変更。識別後に攻撃」
『了解』
二機のSu-34は旧陸軍学校上空を通過した。
爆弾倉を閉じたまま旋回し、郊外へ向かう通信車両を追う。
先頭のアンテナ車と中継車へ、それぞれ一発。
最後尾の車両は道路を外れて停止した。アンテナを畳み、乗員は林へ退避する。追加攻撃へ使える誘導弾は残り二発しかなく、放棄車両へは使わなかった。
地下指揮所は残った。
人質も残った。
外部へ命令を送る車列は止まった。
*
午前五時十二分。
攻撃隊は半島西岸から離脱した。
帝国戦闘機は追ってこなかった。損傷機の救援と、飛行場の復旧へ向かったためだった。
『全機、応答』
ヴォロディミルが呼ぶ。
一機ずつ、帰投可能の返答が入る。
『ジュラーヴリク、異常なし〜』
『ソーコル、異常なし』
『電子支援隊、異常なし。陛下の帰還条件も満たしています』
ソフィアが言った。
「まだ着陸していないぞ」
『では、余計な機動をせず帰ってください』
「了解した」
空は、飛び始めた頃と同じ色をしていた。
違うのは、下にある土地を、ただの地図として見られなくなったことだった。
*
シメロフは、その朝に解放されたわけではない。
南軍用飛行場は運用を停止し、半島占領軍の主通信回線は途切れた。
地下指揮所は予備設備で命令を出し続けたが、各部隊への到達には数時間の遅れが生じた。
その間に、市内では公国旗がいくつかの建物へ掲げられた。
占領軍が残る通りでは、すぐに降ろされた。
掲げた者のうち四人が拘束され、一人は逃走中に撃たれた。旗が見えた時間と、占領が緩んだ時間は同じではなかった。
拘束者を乗せた三台のバスは、地下指揮所へ入る前に現地抵抗組織によって追跡された。
救出には、まだ時間が必要だった。
*
帰投から二時間後。
ソフィアが復号した帝国軍通信を作戦室へ持ち込んだ。
「半島から後退する部隊の再編先が判明しました」
地図上で、ドレナ川東岸の一点が赤く灯る。
ザポリナ原子力発電所。
「帝国軍は発電所の管理棟へ通信中継班を入れ、周辺に防空部隊を配置しています。敷地内へ拘束者を移送したとの断片通信もあります」
ザハルチェンコの表情が硬くなった。
「軍事拠点にすれば、こちらが撃てないと考えたか」
「撃てない。原子炉を損傷すれば、奪回する土地と西方連合の支援を同時に失う」
ヴォロディミルは答えた。
「原子炉のそばでは、命中精度を自慢する者から死ぬ」
地図を見下ろす。
空から届く牙を示した直後に、空からは触れられない場所が現れた。
「別の入り方を探す」
カリナ半島の空は開きかけていた。
次の扉には、鍵が必要だった。




