第十五話 帰る 二
二 いらなくなる
翌日から、その意味を文書にする作業が始まった。
皇帝は、特定の家のものではない。
皇帝の子も、後継候補の一人にすぎない。
行政、軍事、外交、治安、民政。
それぞれを預かる者たちが、天下を任せられる人物を選ぶ。
選ばれた者が、正式に皇帝の印を受け継ぐ。
その者が、次の皇帝となる。
ハクヨウが文を整えた。
シエンが意味を確認した。
ガクが軍の扱いを加えた。
レイカが、地方の暮らしに勝手に口を出せないよう線を引いた。
バンは途中で寝た。
「治安のところ終わったから」
起きたバンが言った。
「最後までいろ」
ハクヨウに怒られた。
リュウはもっと早く聞いていなかった。
*
文書は各地へ送られた。
地方官へ。
軍へ。
旧領主へ。
町へ。
市場へ。
「皇帝が替わるのか」
「今すぐではないらしい」
「リュウ陛下の子ではないのか」
「なるかもしれない」
「ならないかもしれない」
「よく分からんな」
「俺もだ」
だいたい、その程度であった。
天下の制度は、作った者が期待するほど丁寧には理解されない。
それでも少しずつ広まった。
皇帝は、一人の男の名前ではない。
天下の最後を預かる役目である。
*
数日後。
地方から来た役人が、皇帝の印へ頭を下げた。
「あ」
リュウが言った。
細い紐が一本、伸びていた。
役人から。
リュウではない。
皇帝の印へ。
「シエン」
「見えています」
細い。
まだリュウへの信頼のほうが、ずっと太い。
能力の紐もリュウへ来ている。
それでも確かに、皇帝という役目への信頼だった。
「一本来た」
「一人ですから」
その日の午後。
もう一本増えた。
翌日は三本。
リュウは三日目から、
「まだ?」
と言い始めた。
「天下ですので」
ハクヨウは毎回答えた。
文書が届く。
人から人へ伝わる。
地方官が新しい制度で仕事をする。
皇帝の名ではなく、皇帝という役目の名で命令が出る。
ひと月ほど経つころには、印へ伸びる細い紐も珍しくなくなっていた。
それでもリュウへ伸びる紐のほうが、まだ多い。
「全部来るまで待つの?」
「全部である必要はありません」
シエンが言った。
「次の皇帝を置けば、もっとはっきりするでしょう」
「じゃあ決めよう」
「誰をです」
「次の皇帝」
ハクヨウが固まった。
「もうですか」
「ひと月待ったぞ」
「短いです」
「長かったよ」
リュウは皇帝の印を持ち上げた。
「誰に渡す?」
*
三人まで絞るのに、七日かかった。
リュウはほとんど参加しなかった。
ハクヨウが行政の実績を調べた。
ガクが軍との関係を見た。
シエンが諸侯や周辺国との交渉歴を確認した。
バンが、その人物の治めた土地を歩いた。
レイカは、そこで暮らす人間に話を聞いた。
三人とも有能だった。
一人は役人からの信頼が厚かった。
一人は軍に強かった。
最後の一人は、どれも一番ではなかった。
だが、どの分野でも大きく欠けてはいなかった。
五人からも、その男へ信頼の紐が伸びていた。
「これじゃない?」
リュウが言った。
「まだ何も説明していません」
ハクヨウが答えた。
「でも、お前ら全員から出てるぞ」
シエンとガクも見ている。
太さは違う。
それぞれ、もっと強く信頼している者はほかにいる。
それでも五つの役目すべてから、この男へ紐が伸びていた。
「一番じゃなくてもいいんだな」
「皇帝自身が、すべてで一番である必要はありません」
シエンが言った。
「そうだろ」
リュウが妙に嬉しそうだった。
「俺でもできたんだから」
「それを基準にしていいのでしょうか」
ハクヨウが言った。
「実績あるだろ」
「ありますが」
候補の男は、何とも言えない顔をしていた。
「本当に、私でよろしいのでしょうか」
「俺もそう思った」
「陛下」
「でも、こいつらがお前に任せてもいいって思ってるんだろ」
男は五人を見る。
五人とも、否定しなかった。
リュウがシエンを見る。
「この人、紐見える?」
「見えません」
「大丈夫?」
シエンは皇帝の印を見た。
「今の仕組みなら、見る必要はありません」
「じゃあいいな」
それで決まった。
*
数日後。
庭に人が集まった。
地方官。
将軍。
役人。
各地の使者。
リュウの前には、皇帝の印がある。
隣には、次の皇帝になる男が立っていた。
「本当に渡すのですね」
ハクヨウが聞いた。
「そのために決めたんだろ」
「そうですが」
リュウは皇帝の印を持ち上げた。
重い。
「これ、重いから」
男が両手を出した。
「気をつけて」
「はい」
「落とすとたぶん怒られる」
「誰にですか」
「ハクヨウ」
「怒ります」
すぐ横から返ってきた。
リュウは印を渡した。
男が受け取る。
何も起こらない。
新しい皇帝が、一歩前へ出た。
地方官の任命。
倉の移管。
北の守備。
すでに各役目で決められたものを、最後に承認する。
ハクヨウが頭を下げた。
ガクも。
シエンも。
バンも。
レイカも。
周囲の者たちが続いた。
一本の信頼の紐が太くなった。
皇帝の印へ伸びていたものだった。
さらに太くなる。
リュウへ伸びるものよりも。
その瞬間。
能力の紐が動いた。
リュウへ向かっていた道を離れる。
皇帝の印への信頼の紐へ重なった。
そのまま、印へ流れた。
「今の」
「はい」
シエンが言った。
「あなたを通っていません」
「次もです」
ガクが言った。
もう一本。
今度は、もっと遠くから来た。
リュウの前を通り過ぎ、皇帝の印へ入る。
印へ入った力は、そこで止まらなかった。
行政へ。
軍へ。
治安へ。
各地の役目へ。
すでに作られていた道を通って、また流れていく。
また一本。
リュウの前を通り過ぎた。
「俺、いらなくなってない?」
ハクヨウが黙った。
シエンが笑った。
「皇帝としては」
「やった」
また一本、横を通った。
「じゃあ帰れるな」
今度は、誰もすぐには否定しなかった。




