第十五話 帰る 一
一 皇帝の顔
「これも、印だよな」
リュウが皇帝の印を指した。
ハクヨウが見る。
「印です」
「だったら、ここに預けられない?」
少し間があった。
シエンが皇帝の印を見る。
次に、リュウを見る。
「……できますね」
「やっぱり?」
「おそらく」
ガクも立ち上がった。
「皇帝という役目へ、ですか」
「ああ」
リュウが印を持ち上げる。
重い。
「地方官と同じだろ」
「規模が違います」
シエンが言った。
「天下からあなたへ集まっている力です」
「でも、できるんだろ?」
「理屈では」
リュウは印を卓へ戻した。
「じゃあやろう」
「今ですか」
「今あるだろ」
「ありますけど」
ハクヨウが言った。
「少し準備を――」
「また増えるぞ」
皆が黙った。
リュウへ伸びる紐は、今も増えていた。
地方から報告が届く。
皇帝として命令を出す。
それを聞いた者が、またリュウへ紐を伸ばす。
「早くしたほうがいいだろ」
シエンがため息をついた。
「それは、そうですね」
「じゃあやる」
リュウは皇帝の印へ手を置いた。
*
庭へ出た。
念のためである。
何が起こるか分からなかった。
「ずいぶん離れてない?」
リュウが言った。
皆、少し遠くにいる。
「これまでを見るとな」
バンが答えた。
「爆発したことはないだろ」
「今まで天下を印につないだこともねえだろ」
「それはそうだな」
リュウは納得した。
「もう少し近くてもいいんじゃない?」
誰も動かなかった。
「まあいいか」
皇帝の印は、庭の中央に置かれていた。
リュウには、自分へ集まる無数の紐が見える。
皇帝の印へ伸びる、細い紐もある。
その一本を選んだ。
自分へ来ている紐から、能力の側をほどく。
皇帝の印へ伸びる細い道へ重ねた。
するりと流れた。
何も起こらない。
「どう?」
レイカが聞いた。
「何もない」
「珍しいわね」
「これなら楽だな」
二本目。
三本目。
十本。
百本。
束になっていた能力の紐が、皇帝の印へ流れていく。
シエンとガクが見ていた。
「入っています」
シエンが言う。
「かなり」
「じゃあ、このまま」
さらに流した。
そのとき。
レイカが眉を寄せた。
「リュウ」
「何」
「ちょっとこっち向いて」
リュウが向いた。
レイカが黙った。
「何だよ」
バンも見る。
「……誰だ、お前」
「俺だよ」
ハクヨウが近づいてきた。
顔を見る。
「鼻が高くなっています」
「は?」
「顎も」
シエンも振り返った。
「目元も変わっていますね」
「何でみんな顔見てるんだよ」
レイカがリュウの頬を両手で挟んだ。
右を見る。
左を見る。
「整ってる」
「元からだろ」
「違う」
「即答するなよ」
ガクも見た。
「ずいぶん凛々しくなりましたね」
「そう?」
「皇帝らしい顔です」
バンが笑った。
「今までで一番似合ってるぞ」
「今だけ?」
「たぶんな」
リュウはまた皇帝の印を見た。
「まだある?」
「かなり」
「じゃあ続ける」
*
さらに紐を流した。
一本ずつ。
束ごと。
リュウを経由していた能力の紐が、皇帝の印へ移っていく。
途中で、また顔が変わった。
「まだよくなってる」
レイカが言った。
「どこが」
「全体」
「雑だな」
ハクヨウが少し離れて眺めた。
「肖像を残すなら今ですね」
「じゃあ急いで描いて」
「残したいのですか」
「今しかないんだろ?」
「気に入ってるじゃねえか」
バンが言った。
「もったいないだろ」
最後の大きな束が、皇帝の印へ入った。
その瞬間。
リュウの顔が元に戻った。
「あ」
レイカが言った。
「何」
「戻った」
バンも見る。
「戻ったな」
ハクヨウも頷く。
「戻りました」
「何でちょっと残念そうなんだよ」
「別に」
「今の間に描かせればよかったな」
バンが言った。
「やっぱり残念なんじゃないか」
リュウは自分の頬を触った。
「これが最後?」
シエンは紐を見ていた。
「能力のほうは、ほぼ印へ入りました」
「じゃあ終わり?」
「いえ」
シエンがリュウを見る。
「信頼の紐は、ほとんどあなたへ残っています」
リュウも見た。
確かに。
皇帝の印には、大量の力が預けられている。
しかし天下から伸びる細い紐は、今もリュウへ向かっていた。
「能力だけ?」
「今のところは」
リュウは皇帝の印を見る。
次に、自分へ伸びる無数の紐を見る。
「じゃあ、まだ俺が皇帝なんだ」
「当然です」
ハクヨウが答えた。
「そうか」
少し残念そうだった。
今日、天下で最も皇帝らしい顔になった男は、まだ皇帝だった。
*
「じゃあ、誰にすれば俺じゃなくなる?」
リュウが聞いた。
「何がです」
「皇帝」
ハクヨウが黙った。
「さっきから、その話をしていたのですが」
「聞いてなかった」
「知っています」
卓へ戻った。
皇帝の印も戻した。
リュウの顔も戻っていた。
「普通は、陛下のお子でしょう」
ハクヨウが言った。
「なんで?」
「なんで、と言われましても」
「子どもが皇帝に向いてなかったら?」
「そのために教育を――」
「教育しても向いてなかったら?」
ハクヨウが止まった。
「俺みたいになるよ」
レイカがリュウを見た。
ハクヨウも見た。
「困るでしょ」
「……かなり」
シエンが口を開いた。
「補佐する者を置く方法もあります」
「誰が?」
「我々のような者が」
「じゃあ、そいつがやればいいだろ」
少し間があった。
「皇帝をですか」
「ああ」
ガクが腕を組んだ。
「血筋を無視すると、後継争いが起きます」
「子どもに決めても起きるだろ」
「起きます」
「じゃあ同じじゃないか」
「同じではありません」
「どっちも起きるんだろ」
「そうですが」
「なら、できるやつにやらせたほうがいい」
シエンがリュウを見る。
「あなたは、ご自分の家を残したくないのですか」
「家は残ればいいだろ」
「王朝です」
「それは知らない」
ハクヨウが額を押さえた。
「昨日まで、何代先まで残すかを話していたのですが」
「勝手に?」
「あなたの王朝です」
「俺が頼んだ?」
「頼まれてはいません」
「じゃあいいじゃないか」
「よくありません」
リュウは皇帝の印を見る。
「これ、俺の家の物なの?」
「現在は、そういう扱いです」
「でも皇帝の印だろ」
「はい」
「じゃあ皇帝の物だろ」
シエンが顔を上げた。
「俺の子が皇帝なら持てばいいし、違うやつが皇帝ならそいつが持てばいい」
「簡単に言いますね」
「だから、ちゃんと決めればいい」
バンが口を挟んだ。
「誰が決めるんだ」
「お前ら」
「俺ら?」
「ああ」
バンが周りを見る。
「俺、入ってる?」
「入ってる」
「なんでだ」
「治安」
「町の喧嘩止めるのと皇帝決めるのは違うぞ」
「でも、町が荒れたら分かるだろ」
バンが黙った。
「まあ、それは分かる」
「じゃあ入れ」
リュウは指を折った。
「ハクヨウは役人と金」
「行政と財政です」
「それ」
「ガクは軍」
「シエンは、外と話したり、先のこと考えたり」
「外交と国策ですね」
「それ」
「バンは治安」
「俺だけ短いな」
「分かりやすいからいいだろ」
リュウがレイカを見る。
「レイカは暮らし」
「広いわね」
「困ってるやつ見るだろ」
レイカは少し考えた。
「民の暮らしを見る役目なら、必要でしょうね」
「じゃあそれ」
リュウは五人を見る。
「違う仕事のやつらが、こいつなら任せてもいいって思うやつにすればいい」
シエンが口を開いた。
「一人の判断ではなく」
「ああ。軍だけで決めたら軍に都合のいいやつになるだろ」
ガクが頷いた。
「その通りです」
「何人が賛成すればよいかは」
ハクヨウが言った。
「そこはお前らで決めて」
「今、その会議をしているのですが」
「決まったら教えて」
ハクヨウはもう書き始めていた。
*
「ですが」
シエンが言った。
「今回は、私とガクが紐を見ることもできます」
「じゃあ見ればいいだろ」
「今回は」
シエンが言った。
「次の代にも、紐を見る者がいるとは限りません」
「ああ」
「珍しいですから」
ガクが答えた。
「じゃあ、見えないと選べない決まりにはするな」
「そのつもりです」
複数の役目を預かる者が、それぞれの立場から後継を選ぶ。
誰か一人では決めない。
紐を見る者がいなくても、その決め方は残る。
「じゃあ、それでいい」
リュウは皇帝の印を指した。
「子どもでも?」
ハクヨウが聞いた。
「向いてれば」
「ほかの家の者でも?」
「向いてれば」
「本当に、ご自分のお子が継がなくてもよいのですね」
「向いてないなら、やらせないほうがいいだろ」
リュウは当然のように言った。
誰も反対しなかった。
シエンは皇帝の印を見る。
そこには、リュウから預けられた大量の能力の紐が集まっている。
しかし信頼は、まだリュウへ向いていた。
「制度は作れます」
シエンが言った。
「問題は、天下の人々がそれを皇帝だと思うかどうかです」
リュウも印を見る。
「じゃあ、知ってもらおう」
「何をです」
「皇帝は俺じゃなくて」
リュウが印を指した。
「こっちだって」




