第十四話 皇帝の印 二
二 人じゃなくて
五日後。
広い庭に人が並んでいた。
領主。
将軍。
役人。
各地から来た使者。
そのさらに後ろにも人がいる。
リュウは高い場所に座っていた。
「まだ?」
小声で聞いた。
隣に立つハクヨウが答える。
「まだです」
「長くない?」
「即位ですので」
「座るだけだと思ってた」
「その前に説明しました」
「聞いてなかった」
「知っています」
前では、知らない老人が何かを読み上げていた。
長い。
リュウのまぶたが落ちた。
老人がこちらを見た。
リュウはしっかりと前を見た。
老人はまた読み始めた。
*
しばらくして、箱が運ばれてきた。
蓋が開く。
中に印があった。
大きい。
「これ何?」
「皇帝の印です」
ハクヨウが答えた。
「押すの?」
「必要な文書には」
「重そうだな」
印がリュウの前へ置かれた。
周囲の人間が一斉に頭を下げた。
その瞬間。
リュウは目を細めた。
紐が見える。
庭にいる者たち。
その後ろ。
さらに遠く。
無数の細い紐が、自分へ伸びていた。
戦の前より多い。
コウガと争っていたころよりも、ずっと多い。
「増えてる」
「何がです」
シエンが聞いた。
「紐」
「当然でしょう」
「当然なの?」
「皇帝になるのですから」
「ならないほうがよかったかな」
「もう遅いです」
老人が最後の言葉を読み上げた。
皆がもう一度頭を下げる。
リュウも何となく頭を下げかけた。
ハクヨウに袖を引かれた。
「あなたは下げません」
「ああ、そうか」
皇帝になった。
*
翌朝。
リュウは卓の前に座った。
「増えてない?」
「増えています」
昨日までより大きな木簡の山があった。
「皇帝になったら仕組みを作れるって言ったよな」
「言いました」
「減るって」
「最終的には、と言いました」
「いつ?」
「これからです」
リュウは山を見る。
「騙された気がする」
「説明しました」
「聞いてなかった」
「知っています」
ハクヨウが一番上を取った。
「まず、任命と承認です」
「何人」
「本日は二百七十件です」
リュウが顔を上げた。
「何件?」
「二百七十です」
「二十七?」
「二百七十」
「多くない?」
「天下ですので」
「皇帝やめようかな」
「一日目です」
ハクヨウが一枚目を置いた。
「東の地方官です。候補者はこちらで確認しています」
「じゃあいいよ」
「印を」
皇帝の印が置かれる。
リュウは持った。
重い。
一枚目に押す。
二枚目。
三枚目。
十枚目。
「これ、俺じゃなくてもよくない?」
「今は、あなたが押す必要があります」
二十枚目。
三十枚目。
五十件を越えたところで、右手が震え始めた。
止まるまで待った。
また押した。
昼には百件を越えた。
今度は腹が痛くなった。
少し休んだ。
また押した。
午後には頭痛もした。
それも治るまで待った。
また押した。
二百七十件目を押したころには、右腕がひどく痛んでいた。
「これは副作用?」
腕を揉みながら聞いた。
「印の押しすぎでは」
ハクヨウが答えた。
「なんか損したな」
「終わりましたよ」
「今日の?」
「任命は」
リュウは卓へ突っ伏した。
*
夕方。
目の前では、ハクヨウとシエンが話していた。
地方官。
将軍。
税。
倉。
裁判。
街道。
誰がどこまで決めるか。
誰の命令を誰が受けるか。
誰がいなくなったとき、代わりをどう置くか。
リュウは最初のうちは聞いていた。
途中から聞いていなかった。
「陛下」
ハクヨウが呼んだ。
「ん?」
「聞いていましたか」
「途中まで」
「どこまでです」
「地方官のところ」
「最初です」
「そうか」
シエンがため息をついた。
「少なくとも、地方官については仕組みを決めなければなりません」
「ハクヨウが選んで、そいつにやらせればいいだろ」
「私が一生、すべての地方官を選ぶのですか」
「無理?」
「天下に何人いると思っていますか」
「知らない」
「でしょうね」
リュウは卓を見る。
皇帝の印。
その横に、もう一つ小さな印が置かれていた。
「それ何?」
ハクヨウが見る。
「これですか」
「ああ」
「明日、交代する地方官の印です」
「地方官にも印があるの?」
「あります」
「ふうん」
リュウはそれを見た。
小さな印だった。
皇帝のものとは比べものにならない。
それでも、その印へ。
細い紐が何本か伸びていた。
*
「これ、人じゃないよな」
ハクヨウが眉を寄せた。
「印ですが」
「そうじゃなくて」
リュウが指を差す。
「紐が伸びてる」
シエンが立ち上がった。
「どこからです」
「何本か。外から」
シエンが印を見る。
しばらく黙った。
「あ」
「見える?」
「はい」
細い。
人へ伸びるものより、ずっと弱い。
それでも確かに、何本かの紐が地方官の印へ伸びていた。
ハクヨウには見えない。
「どういうことです」
「知らない」
「知らないのですか」
「今見つけたんだから」
シエンが印を手に取った。
紐が動く。
卓の反対側へ置く。
紐もそちらへ動いた。
「私についてきません」
「物についてる?」
「そのように見えます」
ハクヨウが印を見る。
「この印は、昨日まで前任の地方官が持っていました」
「その人は?」
「病で退きます」
「みんな、その人を信じてたんじゃないの?」
「それだけではないのでしょう」
シエンが言った。
「地方官だから任せていた」
「人じゃなくて?」
「役目を、です」
リュウは印を見る。
「役目に紐ってつくのか」
「今、ついています」
「変なの」
「あなたが言いますか」
「俺は人だぞ」
「一応」
「一応って何だよ」
*
翌朝。
地方官を交代させることになった。
前任の男が印を返す。
新しく任じられる男が、その前に座っていた。
ハクヨウが印を新任の男へ渡す。
男が両手で受け取った。
印へ伸びていた細い紐は、そのままだった。
前任の男が離れる。
それでも消えない。
「変わらない」
リュウが言った。
背中の手が届かないところをかこうとしていた。
シエンも見ている。
「本当に、人ではありませんね」
リュウが自分へ来ている紐を一本つまんだ。
能力の側をほどく。
印へ伸びる信頼の道へ重ねた。
するりと流れた。
新任の男が顔を上げる。
「何か?」
「いや、こっちの話」
ハクヨウが帳面を渡した。
「昨日までの徴税と倉の状況を確認してください」
男が開く。
一枚。
二枚。
三枚。
途中で手が止まった。
「北の村ですが」
「はい」
「税が重複しています」
ハクヨウが帳面を取った。
確認する。
「確かに」
「前任の記録と、戦時中に置いた臨時の徴収が重なっています」
ハクヨウが男を見る。
「昨日、気づきましたか」
「いいえ」
男自身も驚いていた。
シエンがリュウを見る。
「流れています」
「ああ」
リュウは柱へ背中をこすりつけていた。
*
「じゃあ返して」
新任の男が戸惑う。
「何をでしょう」
「印」
ハクヨウが受け取った。
卓へ置く。
男が帳面を見る。
少し間があった。
「あれ」
「どうしました」
「先ほどまで頭に入っていた数字が」
リュウが印を見る。
能力の紐は印に残っている。
「印のほうに残ってる」
ハクヨウがもう一度、男へ渡す。
男の目が変わった。
「戻りました」
しばらく誰も話さなかった。
バンが言う。
「便利だな」
「それで済ませますか」
シエンが言った。
「便利だろ」
「かなり大きなことです」
「でも便利だろ」
「そうですが」
リュウが言った。
「だったら、交代するたびに俺がつなぎ直さなくていいんじゃない?」
ハクヨウが見る。
「誰を地方官にするかは決める必要があります」
「ああ」
「誰でも印を持てばよいわけではありません。元の能力も必要です」
「そこは選ぶのか」
「当然です」
「でも、毎回俺が選ばなくてもいい?」
「仕組みを作れば」
「それがいい」
リュウの顔が明るくなった。
シエンが印を見る。
「ほかの役目でも同じなら、かなり変わります」
「試そう」
リュウがすぐに言った。
「仕事減るんだろ?」
「減る可能性はあります」
「じゃあ試そう」




