第十三話 誰もいない英雄 三
三 誰もいない英雄
翌朝。
地図の上では、昨日と同じことが起きていた。
北を塞がれ、南からの荷が遅れ、東では退かせた兵が戻っていた。
コウガは地図を見た。
「リュウは」
「西です」
「ガクは」
「北かと」
「シエンは南におります」
コウガは立ち上がった。
「なら、リュウへ行く」
センリが顔を上げる。
「北は」
「放っておけ」
「南も?」
「ああ」
昨日まで、一つずつ潰してきた。
その間に、別の場所が動いた。
「全部、あいつから始まってる」
コウガは地図を畳んだ。
「リュウを倒せば終わる」
*
「コウガが来る」
報告を聞いて、リュウはバンを見た。
「何人」
「千ほど」
「コウガは?」
「いる」
「じゃあ多いな」
バンが剣を取った。
「狙いはお前だ」
「逃げるか」
「逃げる。ただ、兵を下げるまで待て」
「分かった」
「俺が止める」
「またか」
「まただ」
「死ぬなよ」
「早く行け」
バンは外へ出た。
*
コウガ軍はまっすぐ来た。
道も取らない。
陣も囲まない。
リュウだけを目指した。
バンが前へ出る。
二人がぶつかった。
一度。
二度。
三度目で、バンの剣が大きく弾かれた。
それでも構える。
以前より強い。
リュウから流れた力が来ている。
「どけ」
「嫌だ」
コウガが踏み込んだ。
次の一撃でバンの肩を打ち、地面へ転がした。
後ろから別の隊が来る。
コウガは破った。
また次が入る。
それも破った。
その向こうに、リュウがいた。
「リュウ!」
リュウが振り返る。
「お前を倒せば終わる」
リュウは少し考えた。
「……たぶん、終わらないぞ」
「なぜだ」
「ガクは俺がいなくても動く。シエンも」
少し考える。
「ハクヨウなんか、俺がいても勝手にやる」
「お前の兵だろ」
「そうだけど、俺が全部決めてるわけじゃない」
「リュウ、行け!」
バンが立ち上がっていた。
肩から血が出ている。
その横へ、別の将が並ぶ。
リュウは馬へ乗った。
「じゃあ頼む」
「早く行け」
馬が走り出す。
コウガが追う。
バンが入った。
押し退ける。
まだ届く。
「コウガ様!」
センリが馬で駆けてきた。
「後ろが!」
コウガが振り返った。
後方の道が、リュウ軍の旗で埋まっていた。
「補給隊は」
「まだ守っています。ですが、このままでは」
コウガはリュウを見る。
馬が遠ざかっていく。
もう一度、後ろを見る。
「戻る」
「はい」
コウガは馬を返した。
*
後ろへ入った敵は、コウガが戻ると退いた。
補給隊も守った。
コウガ軍に大きな損害は出なかった。
その日の戦も、コウガは負けなかった。
夕方。
リュウはさらに西へ移っていた。
北の道はガクが押さえている。
南では、また一人、領主が兵を引いた。
リュウを追えば、ほかが動く。
ほかを止めれば、リュウが逃げる。
どこへ行っても、コウガは勝てた。
だから、コウガがいない場所で戦が進んでいた。
*
夜になっても、各地へ出した兵の多くは戻ってこなかった。
逃げたわけではない。
北の道を守っている。
西で敵を見ている。
食料を取りに出ている。
それぞれ、必要な場所にいた。
幕舎の周りだけが静かだった。
コウガは地図を見ていた。
ユラが入ってきた。
「食べた?」
「まだだ」
「また?」
「ああ」
ユラは卓を見る。
地図と帳面で埋まっている。
椀を置く場所がなかった。
「どけて」
コウガが地図を半分畳んだ。
ユラが椀を置いた。
「負けたの?」
「負けてない」
「そう」
ユラは向かいに座った。
しばらく、何も言わなかった。
「人、減ったね」
「ああ」
「帰ったの?」
「帰ったやつもいる」
「そう」
コウガは椀を取った。
まだ温かい。
「明日は?」
「西へ出る」
「また戦う?」
「ああ」
「勝てそう?」
コウガは少し考えた。
「俺がいるところなら」
ユラが顔を上げた。
コウガも、自分で言ってから黙った。
「帰ろう」
ユラが言った。
「どこへ」
「家」
「まだ帰れない」
「どうして」
「リュウがいる」
「いたら帰れないの?」
「ああ」
「ずっと?」
コウガは答えなかった。
ユラは少し待った。
「前に言ったよね」
「何を」
「帰ってきてって」
「ああ」
「勝ってじゃなくて」
「覚えてる」
「じゃあ帰ろう」
コウガは椀を置いた。
「お前は帰れ」
ユラが眉を寄せる。
「一緒に」
「俺はまだ帰れない」
「またそれ」
「ああ」
「いつなら帰れるの」
「終わったら」
「何が?」
コウガは答えなかった。
リュウを倒す。
北を押さえる。
南を戻す。
故国が二度と攻められないところまで取る。
まだ、どれも終わっていない。
外からセンリの声がした。
「コウガ様」
「入れ」
センリが入ってくる。
「西の斥候が戻りました」
「どうだった」
「敵が増えています。明日の朝には、さらに二隊が合流するかと」
「分かった」
コウガは立った。
「それと、センリ」
「はい」
「明日、ユラを故国へ送れ」
ユラがコウガを見る。
センリも固まった。
「私が、ですか」
「ああ」
「護衛なら、ほかの者でも」
「お前が行け」
「ですが、私はコウガ様のそばに」
「命令だ」
センリが黙った。
「……戻ってきてもよろしいですか」
「ユラを届けてから考えろ」
「すぐ戻れます」
「急いで戻る必要はない」
センリの顔が変わった。
「戻ります」
コウガは何も言わなかった。
「では、明朝出ます」
頭を下げ、外へ出る。
ユラはしばらく黙っていた。
「勝手に決めたね」
「ああ」
「私は帰るって言ってない」
「帰れ」
「あなたは?」
「残る」
ユラが立ち上がった。
コウガの前まで来る。
「一緒に帰りたかった」
「ああ」
「分かってる?」
「ああ」
「本当に?」
コウガは少し考えた。
「ああ」
ユラはそれ以上言わなかった。
*
翌朝。
ユラとセンリの馬が用意された。
護衛は十人だけだった。
センリが馬上から言う。
「必ず戻ります」
「ああ」
ユラは何も言わなかった。
馬が歩き出す。
少し進んだところで、一度だけ振り返った。
コウガはまだそこにいた。
ユラから細い紐が伸びている。
馬が遠ざかる。
コウガは地図へ目を戻した。
西から、敵が来ていた。
*
西から来た兵を、コウガは退けた。
昼には北からも来た。
それも退けた。
夕方、南の道が塞がった。
コウガが向かうと、敵は下がった。
戻ると、また塞がった。
夜には、手元の食料も尽きかけていた。
翌朝。
残っていた兵を集めた。
「何人いる」
「三百ほどです」
「動けるのは」
「二百」
コウガは南を見る。
細い道だけが残っていた。
「そこから帰れ」
兵たちが顔を上げた。
「コウガ様は」
「残る」
「なら我々も」
「いらない」
誰も動かなかった。
「故国へ帰れ」
「ですが」
「もういい」
コウガは周囲を見る。
荷はほとんどない。
食料もない。
旗だけが残っている。
「帰れ」
一人が頭を下げた。
それを見て、隣も下げる。
少しずつ列が動き始めた。
コウガへ伸びていた紐も、一緒に遠ざかっていった。
*
昼過ぎ。
リュウが来た。
バンもいた。
肩にはまだ布が巻かれている。
コウガは一人で旗の前に座っていた。
剣だけがそばにある。
リュウが馬を止めた。
かなり遠かった。
「さすがに離れすぎだろ」
「だって怖いから」
リュウは少しだけ馬を進めた。
「兵は?」
「帰した」
「そうか」
リュウは周りを見る。
「お前も帰ればいいだろ」
コウガが顔を上げた。
「お前まで言うのか」
「誰かにも言われたのか」
「ああ」
「じゃあ帰ればいいのに」
コウガは少し笑った。
「お前は簡単に言うな」
「帰るだけだろ」
「俺には違う」
リュウは黙った。
コウガが立つ。
「俺はお前より強い」
「ああ」
「今でも勝てる」
「たぶんな」
「バンにも勝った」
「見れば分かる」
コウガはリュウを見る。
「なら、なぜ俺が負けた」
リュウは少し考えた。
北を見る。
ガクの旗がある。
南にも兵がいる。
さらに遠くでは、別の領主の旗が動いていた。
「俺に聞くなよ」
「お前が勝ったんだろ」
「俺は、ほとんど何もしてない」
コウガはしばらくリュウを見た。
「そういうところが嫌いだ」
「そうか」
「ああ」
コウガは剣を取った。
バンが一歩前へ出る。
リュウが言った。
「コウガ」
「なんだ」
「本当に帰らないのか」
「ああ」
「故国は残ってる」
「知ってる」
「奥さんもいるんだろ」
コウガの目が少し動いた。
「ああ」
「なら」
「俺は帰れない」
それ以上は言わなかった。
剣を抜いた。
*
コウガは強かった。
正面から入った兵を退けた。
横から伸びた槍を払い、踏み込んだ相手を倒す。
バンが入る。
剣がぶつかった。
バンが下がる。
もう一度。
また下がる。
別の兵が横から入る。
コウガは振り向き、退けた。
その間に矢が飛んだ。
一本は払った。
もう一本が肩をかすめた。
正面の相手には勝った。
だが、正面だけではなかった。
左から槍が来る。
右から兵が回る。
遠くから矢が飛ぶ。
退けても、別の場所から来た。
傷が増えた。
肩。
脇腹。
脚。
血が地面へ落ちる。
膝をついた。
それでも剣を杖にして立った。
遠くへ、一本の紐が伸びていた。
細い。
昔から、ほとんど変わっていない。
ユラの紐だった。
コウガはそれを見た。
少しだけ笑った。
「帰れと言ったのにな」
誰にも聞こえない声だった。
また兵が来る。
コウガは剣を上げた。
*
日が落ちるころ。
旗が倒れた。
リュウはしばらく、その場所を見ていた。
バンが隣に立つ。
「勝ったな」
「俺は何もしてない」
「知ってる」
リュウは倒れた旗を見る。
「……強かったな」
「ああ」
しばらくして、リュウが言った。
「じゃあ、帰るか」
「どこへ」
リュウは少し考えた。
「とりあえず、みんなのところ」
歩き出した。
バンもついていった。
北から来た兵。
南から来た兵。
別の領主の兵。
それぞれの兵が、それぞれの旗の下へ戻っていく。
その中心に、リュウの旗はなかった。




