第十話 二本の紐 一
一 残った
朝になった。
バンは戻らなかった。
門の外には、昨日まで進んできた道が続いている。
リュウはまだそこを見ていた。
「行きます」
ガクが言った。
「もう?」
「もうです」
「バンは?」
「待てません」
リュウは道を見る。
誰も来ない。
「来るって言ったんだけどな」
「言いましたね」
「ああ」
ガクも一度だけ道を見た。
「だから、来たら追いつきます」
「そうか」
「はい」
門を出る準備が始まった。
*
残った兵を数え直した。
「千四百八十七です」
ハクヨウが言った。
「増えた?」
「夜の間に百人ほど戻りました」
「じゃあ半分より多いな」
「そうですね」
リュウは少し考えた。
「多いのか?」
「少ないです」
「ああ」
出たときは二千六百ほどいた。
戻らなかった者。
倒れた者。
捕まった者。
逃げた者。
どれがどれだけいるのかは、まだ分からない。
分かっているのは、今ここにいる人数だけだった。
「北の三百は?」
リュウが聞いた。
シエンが答える。
「進軍を止めた」
「止まった?」
「こっちが負けたって聞いたみたい」
「ああ」
「来るって言ってたんだけどね」
「来なくなったか」
「そうね」
リュウは少し黙った。
「そういうこともあるな」
「あるわね」
シエンもそれ以上は言わなかった。
*
城を出た。
昨日捨てなかった荷も、さらに減らした。
歩けない者は荷車へ乗せる。
そのぶん、荷を下ろす。
穀物。
武器。
鍋。
「また捨てるの?」
「またです」
ハクヨウが答えた。
「ずいぶん軽くなったな」
「軍もです」
「ああ」
ハクヨウは帳面へ目を戻した。
リュウは馬の上から兵を見る。
昨日までより、列が短い。
旗も少ない。
声も少なかった。
それでも西へ歩いている。
*
しばらく進んでから、リュウは後ろを振り返った。
紐が見えた。
いつもより少ない。
「あ」
リュウが言った。
「何?」
シエンが振り向く。
「減ってる」
「兵?」
「紐」
シエンも周囲を見る。
「そうね」
「結構減ったな」
「負けたから」
「ああ」
リュウはもう一度見る。
昨日まで自分へ伸びていた紐のいくつかがない。
細くなったものもある。
別の場所へ向いたものもある。
「でも」
「何?」
「まだあるな」
シエンも見る。
「あるわね」
千を超える兵が歩いている。
その多くから、まだリュウへ紐が伸びていた。
「負けたのに?」
「負けたわよ」
「じゃあ何で?」
「知らない」
「お前にも分からないのか」
「何でも分かると思わないで」
「ああ」
リュウはまた前を向いた。
*
昼前。
後ろで声が上がった。
「来ます!」
列がざわついた。
ガクが馬を止める。
「何人?」
「まだ分かりません!」
「旗は?」
「見えません!」
兵が武器を持つ。
リュウも後ろを見る。
道の向こうに、人影が見えた。
「コウガ?」
「違うと思います」
ガクが目を細める。
人影が増える。
一人。
十人。
さらにその後ろ。
歩いている者がいる。
肩を貸されている者がいる。
槍を杖にしている者もいた。
「あれ」
リュウが馬の上で身を起こした。
「バンだ」
先頭にいた。
鎧は昨日より汚れていた。
頭にも布を巻いている。
その後ろに、兵が続いていた。
五十。
百。
もっといた。
リュウは馬を進めた。
「遅い」
近くまで来て、最初に言った。
バンが顔をしかめる。
「来るって言っただろ」
「ああ」
「じゃあ待ってろ」
「待ったぞ」
「足りねえ」
「一晩待った」
「もう一晩だ」
「それは無理だって」
バンは後ろを向いた。
兵が次々に歩いてくる。
「何してた?」
リュウが聞く。
「拾ってた」
「何を?」
「人だよ」
「ああ」
バンは馬を降りた。
「散ってたやつ、道の外にもいた。動けるやつ集めて、動けないやつ担がせた」
「ずいぶんいるな」
「まだ後ろにもいる」
「そうか」
「ああ」
リュウはバンを見る。
それから、その後ろの兵を見る。
昨日、戻らなかった者たちだった。
戻らなかったのではなかった。
まだ戻っている途中だった。
*
列を止めて、戻ってきた兵を休ませた。
水が配られる。
傷を見てもらう者が座る。
その間にも、後ろから何人かずつ戻ってきた。
「増えたな」
ハクヨウが帳面を見る。
「百七十三人です」
「バンが?」
「連れて戻った数です」
「多いな」
「多いです」
リュウはバンを見る。
地面に座って水を飲んでいる。
その周りにも何人か兵がいた。
そのとき。
自分からバンへ、細いものが一本伸びているのが見えた。
昨日までなら、気づかなかったほど細い。
「……あれ?」
「何ですか」
隣にいたガクが聞いた。
「バンのところ」
ガクも見る。
「紐?」
「ああ」
糸のようだった。
それでも、確かにつながっている。
「切ったよな?」
「切りました」
「だよな」
リュウは立ち上がった。
「バン」
「何だ」
「ちょっと来い」
「今か?」
「今」
「疲れてんだけど」
「俺も昨日から待ってた」
「それ関係あるか?」
「ある」
「ねえよ」
バンは立った。
リュウは、その細い紐を見ていた。
*
「何を見るんだ?」
バンが来た。
「紐」
「またか」
「ああ」
「俺には見えねえぞ」
「知ってる」
「じゃあ呼ぶなよ」
「お前のだ」
バンが黙った。
ガクとシエンも近くへ来る。
「これ」
リュウが細い紐を指した。
「昨日、切ったよな?」
「切りました」
ガクが答える。
シエンが目を細めた。
「でも、これ、昨日のとは違うわね」
「ああ」
昨日までバンへ流していた紐は、もっと太かった。
今あるものは、糸のように細い。
「俺から出てるな」
リュウが言った。
「そうね」
「何だ、それ」
バンが聞く。
「知らん」
「知らんものを俺につなぐな」
「前からある」
「もっと嫌だな」
リュウは細い紐をつまんだ。
少し引く。
バンが身構えた。
「どう?」
「何もない」
「じゃあ何だ、これ」
「俺に聞くな」
リュウは紐を放した。
*
近くにいた兵を一人呼んだ。
「そこ立ってて」
「はい」
兵からリュウへ、太い紐が伸びている。
いつも見ていたものだった。
リュウはその端を指で挟む。
少しひねった。
「あ」
一本だった紐が、二つにほどけた。
太いもの。
その内側に撚り込まれていた、細いもの。
「二本……」
ガクが言った。
「ずっと?」
「たぶんね」
シエンが身を寄せる。
リュウは二本を少し離した。
「ひっ」
しゃっくりが出た。
兵は立ったままだった。
「どう?」
「何がでしょう」
「何か変わった?」
「いえ」
今度は太いほうを動かす。
「ひっ」
「どう?」
「何も」
細いほうを動かす。
「どう?」
「何も」
リュウがまた指を伸ばした。
「殿」
「ん?」
「遊んでません?」
「確認してる」
「さっきから何も起きてません」
「ああ」
リュウは手を止めた。
「じゃあ、どっちが何なんだ」
シエンが言った。
「それを見てる」
「遊んでたんじゃないのね」
「違う」
「ひっ」
説得力はあまりなかった。
*
「お前、ひっ、何でまだいる?」
しゃっくりの止まらないリュウが兵に聞いた。
「私ですか?」
「ああ。昨日、ひっ、負けただろ」
「はい」
「帰ろうとは思わなかった?」
兵は少し考えた。
「家は東です」
「じゃあ反対だな」
「そういう意味ではなくて」
兵が頭をかいた。
「まだ、殿についていこうと思っています」
「何で?」
「何でと言われても……」
しばらく考える。
「まだ、任せていいと思ってますから」
そのとき。
細い紐が、わずかに太くなった。
「お」
リュウが顔を近づける。
「今、太くなった」
「どっち?」
「細いほう」
ガクも見ていた。
「任せていい、と言ったときです」
「ああ」
リュウは兵を見る。
兵から自分へ。
細い紐が伸びている。
そして自分からバンへ伸びているものも、それと同じだった。
「これ、信じてるほうか」
シエンが少し考えた。
「信じるというより……任せる、かしら」
「ああ」
リュウは細い紐を見る。
「じゃあ、こっちは?」
隣にある太い一本を持ち上げた。
それはまだ、分からなかった。




