第九話 大敗 二
二 一人
戦いは、昼を待たずに始まった。
ガクは正面に兵を並べた。
予定していた場所ではない。
もっと西。
もっと狭い場所だった。
「ここで止めます」
「ああ」
リュウはガクへ紐を流した。
朝より多く。
さらに多く。
ガクの命令が早くなる。
旗が次々に上がった。
乱れていた列が揃う。
遅れていた隊が前へ出る。
「放って」
矢が飛んだ。
丘を下りてきた敵の先頭へ降る。
人が倒れる。
馬が倒れる。
それでも、中央の旗は止まらなかった。
*
「来ます」
ガクが言った。
その目が、途中で止まった。
唇が腫れてきたリュウにも見えた。
コウガは馬上にいた。
その周りへ、紐が集まっている。
兵から。
将から。
その後ろからも。
太い束になって、一人へ集まっていた。
ガクの顔が固くなった。
「多いな」
リュウが言った。
「……はい」
返事が少し遅れた。
「もっといる?」
「お願いします」
「ああ」
さらに流した。
*
最初は止まった。
コウガ軍の先頭が押し返される。
槍が揃う。
前へ出た兵が戻される。
「押してます!」
声が上がった。
ガクはコウガを見ていた。
旗が右へ動く。
「右!」
こちらの兵が寄る。
コウガはその先へ行く。
「そこじゃない」
ガクが言った。
次の瞬間には、向きを変えていた。
「中央!」
兵が戻る。
その途中へ、コウガが入った。
ガクが見てから命令を出す。
旗手が振る。
兵が動く。
その間に、コウガは次へ行っていた。
*
一列崩れた。
二列目が支える。
そこも押された。
「ガクにもっとやる」
たらこ唇になったリュウが言った。
「お願いします」
紐を増やす。
ガクが命令を出す。
右を閉じる。
中央を下げる。
左を前へ。
どれも動いた。
どれも遅かった。
*
「バン殿が戻っています!」
川のほうに旗が見えた。
まだ遠い。
バンには、出る前に流した紐が残っている。
ガクが中央を見る。
また一列、下がった。
「バン殿の分を切ってください」
「いいの?」
「今はこちらが先です」
「ああ」
リュウは、バンへ流していた紐を切った。
戻った分をガクへ流す。
ガクの旗が動く。
中央が持ち直した。
その直後。
コウガの旗が、バンのほうへ向きを変えた。
ガクが息を止めた。
「……見えてる」
「何が?」
「紐です」
リュウもコウガを見る。
コウガは迷わず、弱くなったほうへ向かっていた。
*
遠くでバンの隊が押された。
「戻してやる?」
リュウが聞いた。
ガクは首を振った。
「まだ遠いです」
バンの旗が少しずつこちらへ下がってくる。
コウガが追う。
「難しいな」
リュウが言った。
今までなら、足りないところへ回せばよかった。
今は、それより先にコウガが動いた。
*
「全部、私へ」
ガクが言った。
「全部?」
「戦える分は」
「ああ」
前線へ回していた紐を集める。
ガクへ。
ガクへ。
ガクへ。
ガクの声が変わった。
「中央、三歩前へ。右は止まって。左だけ回して」
旗が上がる。
ほとんど間を置かず、次の旗が上がる。
兵が動く。
乱れていた列が揃った。
押されていた中央が止まる。
左から兵が回る。
敵が下がった。
リュウは頬をかいた。
いつの間にか、顔にいくつもニキビができていた。
「お」
その一つを気にしながら、リュウが声を出した。
コウガの旗が止まった。
*
ほんの少しだった。
コウガが馬を降りた。
「降りたぞ」
リュウが言った。
ガクは何も言わなかった。
コウガが前へ出た。
一人で。
槍の列へ入る。
遠くからでは、何をしているのかよく見えなかった。
ただ、コウガが通った場所から列が崩れた。
後ろから兵が詰める。
そこも崩れた。
「……何だあれ」
リュウが言った。
ガクへ流した紐は減っていない。
命令も届いている。
兵も動いている。
それでも、コウガが前へ進んでくる。
*
ガクが剣を抜いた。
「行くの?」
「はい」
「待て」
声がした。
バンだった。
いつの間にか、本隊の近くまで戻っている。
鎧が泥で汚れていた。
「俺が行く」
「ですが――」
「お前がここを離れたら、誰が動かす」
ガクが止まった。
バンがリュウのところまで来る。
「少し寄越せ」
「ああ」
今度は近い。
リュウはガクへ集めていた紐の一部を、バンへ流した。
バンが剣を握り直す。
「行ってくる」
前へ出た。
*
バンは強かった。
コウガ軍の兵が下がる。
バンがその中へ入る。
しばらく、二人のいる場所だけ前線が止まった。
それでも長くは続かなかった。
バンが下がる。
ガクが兵を寄せる。
コウガは別の場所へ入る。
そこを塞ぐ。
また動く。
右。
左。
中央。
ガクは次々に命令を出した。
「左を下げてください」
旗が動く。
「中央を前へ」
また動く。
「バン殿を右へ――」
ガクが戦場を見る。
まだ考えている。
次にどこを動かすか。
どこへ兵を足せば、コウガを止められるか。
リュウも戦場を見た。
倒れた旗。
下がってくる兵。
肩を貸されて歩く者。
その向こうでは、まだコウガが進んでいる。
「ガク」
「はい」
「帰ろう」
ガクがリュウを見た。
何も言わなかった。
もう一度、戦場を見る。
少しして、息を吐いた。
「……はい」
剣を収めた。
「退きます!」
声が戦場へ飛んだ。
*
兵を下げ始めると、すぐに列が乱れた。
前を向いていた兵が、西へ走り始める。
ガクはその間を馬で行き来していた。
「走らないで! 列を崩さないで!」
声を張る。
だが、後ろからコウガ軍が来る。
下がるのが遅ければ追いつかれる。
早すぎれば、残った兵が取り残される。
「また近づいてるぞ」
リュウが後ろを見ながら言った。
「分かっています」
「どこまで下がる?」
「次の城まで」
「遠くない?」
「遠いです」
リュウは前を見る。
道が続いている。
昨日まで、こちらが進んできた道だった。
今日は逆へ進んでいた。
*
「荷車を捨てます」
ハクヨウが言った。
「全部?」
「重いものからです」
道の脇へ荷が下ろされていく。
穀物。
鍋。
予備の槍。
東へ進むたびに増えたものだった。
今は、それを置いて戻っている。
「もったいないな」
リュウが言った。
「生きて戻れば、また集められます」
「ああ」
リュウも馬を進めた。
*
夕方が近づいた。
後ろから声が上がった。
兵が振り返る。
「見るな! 進んで!」
ガクが叫ぶ。
リュウは見た。
遠くに旗がある。
まだコウガが来ていた。
「しつこいな」
「追う側だからね」
シエンが言った。
その横を、敗走してきた兵が抜けていった。
*
バンが馬を寄せてきた。
「先に行け」
ガクが見る。
「何をするんですか」
「少し止める」
「駄目です」
「このままだと追いつかれる」
「別の隊を残します」
「俺が一番向いてるだろ」
ガクが黙った。
バンはリュウを見る。
「紐は切れ」
「弱くなるぞ」
「逃げるほうに使え」
リュウはバンを見る。
「あとで来る?」
「行け」
「来る?」
バンが顔をしかめた。
「来る」
「ああ」
リュウはバンへ流していた紐を切った。
その分をガクへ流す。
バンは剣を抜いた。
リュウは先へ行った。
*
日が暮れたころ。
城へ着いた。
門は閉めなかった。
後ろから来る者がいた。
一人。
三人。
十人。
まとまって戻る隊もあった。
剣をなくした者がいた。
馬をなくした者がいた。
肩を借りて歩く者もいた。
来るたびに、門のところで人数を数えた。
「今、どれくらい?」
リュウが聞いた。
ハクヨウが帳面を見る。
「千三百を少し超えました」
「出たときは?」
「二千六百ほどです」
「ああ」
リュウは道を見た。
*
暗くなっても、兵は戻ってきた。
五人。
二人。
しばらくして、一人。
リュウは門のそばに座っていた。
「バンは?」
「まだ」
ガクが答えた。
また誰かが来た。
リュウが立つ。
違った。
座る。
しばらくして、また立った。
違った。
「バンは?」
「まだです」
もう少しして。
「バン――」
「来たら言います」
ガクが言った。
「ああ」
リュウはまた座った。
*
夜が深くなった。
誰かが来るたび、リュウは立った。
バンではなかった。
火が小さくなった。
薪が足された。
また小さくなった。
それでも門は開いたままだった。
*
日が暮れるまでに、出発時の半分ほどが戻った。
夜のあいだにも、少し戻った。
翌朝まで待った。
残りは戻らなかった。
バンも、戻らなかった。




