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転生軍医、織田信勝 ―本能寺を消す処方箋―  作者: 東雲 諒杏
第一章 尾張診療録(第1話〜第12話)

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第八話 誰から先に診るか

※戦場の負傷描写があります。助からない負傷者の描写を含みます。


 医者が最も残酷になるのは、手術のときではありません。

 誰を先に診るかを、決めるときです。

 永禄元年、七月。


 尾張はまだ、一つになっていない。


 清洲を落とし、那古野を押さえ、それでも北には岩倉いわくらがある。織田伊勢守家の当主・織田信賢おだのぶかた。同じ織田を名乗る、最後の目の上のこぶである。


 その岩倉と、浮野うきので当たる。


 ――尾張統一の、最後の一戦だ。


 出陣の三日前、俺は清洲の広間で兄に願い出た。


「兵を、二百お貸しいただきたい」


 家老衆が、いっせいに眉をひそめた。


「勘十郎さま。戦場に医者が二百人も要りますまい」


「医者ではござらぬ。《《担ぐ者》》にござる」


 俺は答えた。


「戦えぬ者で構い申さぬ。歳を食った者、片足の悪い者、力仕事しかできぬ者。むしろそういう者がよい。役目は三つ。担ぐ、湯を沸かす、布を煮る。それだけにござる」


「そのようなものに二百も」


「戦は勝ちまする」


 俺は、その家老を遮った。


「兄上が勝たれる。それは疑っており申さぬ。……それがしが考えておるのは、《《勝った後に、何人残っているか》》にござる」


 沈黙が落ちた。


 上座の信長が、退屈そうに脇息きょうそくに頬杖をついたまま言った。


「くれてやる。三百持って行け」


「兄上」


「ただし勘十郎」


 信長の眼が、こちらを向いた。


「貴様も行け。後ろでな」


          ◆


 浮野の野に、俺は「陣」を張った。


 軍勢の後方、街道の脇。小高い木立の陰に、むしろを三十枚敷き詰め、その周りを板囲いにする。


 中央にかまどを五つ。大鍋で湯を沸かし続ける。


 布は前の晩からすべて煮て、乾かして、油紙に包んである。絹糸も同じ。小刀、はさみ鑷子せっし、すべて煮てから焼酎の壺に沈めてある。


 そして水。とにかく水だ。桶を四十、井戸から汲んで並べ、そのうち二十には塩と甘葛あまづらを溶いた。


「勘十郎さま。これは、なんと呼べばよろしゅうございましょう」


 与一郎が、板囲いを見上げて聞いた。


 ――野戦病院、とは言えない。


 俺は少し考えて、答えた。


「《《手当所てあてじょ》》だ。それでいい」


          ◆


 だが、戦が始まる前に、最初の患者が担ぎ込まれた。


 七月の尾張である。


 朝から蒸し暑く、雲一つない。そこに、よろいを着せられた男たちが、何刻も炎天下に並んで待っている。


「勘十郎さま! 倒れました!」


 運ばれてきたのは、二十代半ばの足軽だった。


 俺は具足の紐を切って、まず胸を開けさせた。


 ――熱い。


 掌を額に当て、次に脇の下に差し込む。異様に熱い。人の身体がこんな温度になっていいはずがない。


 そして、俺の指が、決定的なものを掴んだ。


(――《《乾いている》》)


「汗が、ない」


「へ?」


「この暑さで、この者だけ汗をかいておらん」


 俺は、男の顔を覗き込んだ。目が虚ろで、呼びかけても焦点が合わない。うわ言のように、何か意味の通らぬことを呟いている。


(意識が飛んでいる。汗が止まっている。身体が焼けている)


 ――熱射病だ。


 暑さで倒れる者には、二通りある。


 一つは、汗をかきすぎて水と塩を失い、ふらついて倒れる者。顔は青ざめ、汗びっしょりで、意識はある。日陰で休ませ、塩湯を飲ませれば戻る。


 もう一つが、こちらだ。


 身体を冷やす仕組みそのものが壊れる。汗が止まり、熱が逃げ場を失って、内側からじりじりと身体を煮る。


 放置すれば、脳から先に壊れていく。


 助かるかどうかは、《《どれだけ速く冷やせたか》》で決まる。それ以外にない。


「具足を全部剥げ! 小袖も! 裸にしろ!」


「勘十郎さま、往来にございますぞ」


「死ぬぞ! 剥げ!」


 俺は自分で桶を掴み、男の頭から水をぶちまけた。


「扇げ! 陣笠でいい、四人がかりで扇ぎ続けろ! 脇の下と股に、濡らした布を挟め!」


 水をかけ、風を送る。


 濡れた身体から水がじょう発するとき、それは身体の熱を大量に奪って飛んでいく。ただ水に浸けるより、《《濡らして風を当てるほうが速い》》。


 半刻。


 男の身体から、じわりと汗がにじみはじめた。


 それを見た瞬間、俺は息を吐いた。


 ――汗が戻れば、勝ちだ。


「……あ、あれ。おれ、何を」


「戻ったか。よし、寝ておれ。今日は戦うな」


「い、いや、しかし戦が」


「《《寝ておれ》》」


 俺は立ち上がり、板囲いから飛び出して、前線に向かって怒鳴った。


「全軍に触れよ! 陣笠を脱いで日陰に入れ! 塩湯を飲め、水ではなく塩湯だ! 汗をかかなくなった者がおったら、《《そいつは戦えぬ、すぐ運べ》》!」


 その日、浮野の暑気で運び込まれた者は、二十三人。


 死んだ者は、いない。


          ◆


 昼過ぎ、戦が始まった。


 俺のいる場所からは、土煙と、遠い喊声かんせいしか見えない。


 そして――せきを切ったように、負傷者が流れ込みはじめた。


 最初の一人が担ぎ込まれ、次の三人が続き、それから止まらなくなった。


 十人。二十人。四十人。


 筵が埋まる。板囲いの外まで人が溢れる。うめき声、怒鳴り声、血の匂い。


「勘十郎さま! こっちを先に!」


「いや、こちらの方が!」


「先に運んだのはうちの組にござる!」


 ――ここだ。


 俺は、両手を叩いて、大声を出した。


「《《全員、手を止めろ!》》」


 場が、一瞬静まった。


「筵を三つに分ける。ここから先、《《運ばれてきた順に診るのはやめだ》》」


「な……」


「与一郎、赤い切れ端を持て。それから白いのを」


 俺は、土の上に線を引いた。


「一つ目。《《すぐ手当てすれば助かる者》》。血が噴いている者、息ができぬ者。――赤い布をつけて、この筵へ。俺が診る」


「二つ目。《《しばらく待っても死なぬ者》》。骨が折れた者、深くとも血の止まっている者。――白い布をつけて、あちらの筵へ。水を飲ませて待たせろ」


 そして俺は、木陰を指した。


 言葉が、少しだけ喉に引っかかった。


「三つ目。……《《何をしても助からぬ者》》。あの木の下へ運べ」


 誰も、何も言わなかった。


 言葉の意味を、全員が理解していた。


「勘十郎さま」


 与一郎が、掠れた声で聞いた。


「三つ目の方々は……手当てを、なさらぬのですか」


「しない」


 俺は答えた。


「その一人に半刻かければ、赤い布の者が三人死ぬ」


「……」


「与一郎。よく聞け」


 俺は少年の肩を掴んだ。


「これは、優しさではない。《《俺が選ぶのだ》》。俺が誰を助け、誰を助けぬかを決める。それを他の言い方で誤魔化す気はない」


 ――トリアージ。


 三百年後、ナポレオンの軍医が戦場で確立し、以後あらゆる災害と戦場で使われることになる考え方だ。


 その本質は、効率でも、合理でもない。


 《《限られた手で、最も多くを生かすために、誰かを諦める》》。


 ただそれだけの、残酷な算術である。


          ◆


 それからの二刻を、俺は覚えていない。


 覚えているのは、手の感触だけだ。


 噴き出す血。指を突っ込んで血管を探し、煮た絹糸でくくる。次。太腿を裂かれた男、圧迫、結紮、洗浄、閉じずに布を差し込む。次。


 肩に矢が刺さったまま暴れる男。押さえつけ、やじりの返しを確かめ、押し込んでから抜く。次。


 息のできぬ男。胸に穴が開いて、空気が吸い込まれている。俺は油紙を当て、三方だけを固定して、一辺を開けておいた。息を吸うときは塞がり、吐くときは逃げる。それだけで、男の顔に色が戻った。


 次。次。次。


 ――その途中で、それは起きた。


「どけ! どかぬか下郎ども!」


 馬蹄の音とともに、具足姿の武将が乗り込んできた。四十がらみ、立派な兜。侍大将だ。


 左腕を押さえている。


「勘十郎さま、手当てを! 早う!」


 俺は、手を止めずに、そちらをちらりと見た。


 腕を押さえている。押さえられている。つまり、《《自分で押さえられる程度の血だ》》。歩けている。喋れている。声に張りがある。


「白だ。与一郎、白い布」


「なっ――」


 武将の顔色が変わった。


「白とは何だ! わしを誰と心得る!」


「怪我人と心得申す」


 俺は、手元の足軽の傷を洗いながら答えた。


「その傷では死に申さぬ。あちらの筵で待たれよ」


「わしはこの手の者どもとは違う! 禄も、家格も――」


「――《《血の出方が違わぬ》》」


 俺は、初めて顔を上げた。


 血まみれの手で、まっすぐにその武将を指した。


「この手当所では、身分で順は決めぬ。《《死にかけている順》》に決める。それがしがそう決めた」


「兄君に申し上げるぞ!」


「どうぞ」


 俺は、また手元に視線を戻した。


「兄上がそれがしを罷免なさるまでは、それがしがここのあるじにござる。……与一郎、白い布」


 武将は、真っ赤な顔で何かわめいたが、やがて、荒々しく白い筵のほうへ歩いていった。


 ――後で聞いた話だが、その日の夕方、彼が信長に訴え出たそうだ。


 信長は最後まで黙って聞き、こう言ったという。


「では貴様は、《《死にかけておらなんだ》》のだな。重畳ちょうじょう


          ◆


 夕方近く、俺は木陰へ行った。


 三つ目の筵。何もしない場所。


 そこには、五人が横たわっていた。


 一人の若い男の前で、俺は膝をついた。


 十七、八だろうか。腹を槍で貫かれている。押さえた手の隙間から、あってはならないものがのぞいていた。


 この時代、この傷は、必ず死ぬ。


 麻酔がない。輸血ができない。腹を開けたところで、破れた腸を縫っても、腹の中にかれた汚れを洗い切ることはできない。数日、もだえ苦しんで死ぬだけだ。


 ――四十年、俺はこういう腹を開け続けてきた。


 現代なら助けられた。設備さえあれば。人手さえあれば。


 だが、ここにはない。


「……い、痛い……おっ母」


「痛いか」


「痛い……痛い……」


 俺は、竹筒の水を少しだけ含ませ、それから、汗と土で汚れた額を手で拭ってやった。


「痛みは、じきに薄れる」


「たす、けて」


「……ああ」


 俺は嘘をつかなかった。だが本当のことも言わなかった。


 代わりに、その手を握った。


「与一郎」


 俺は、後ろに立っていた少年を呼んだ。


「はい」


「お前の役目を変える。ここに残れ」


「……え」


「三つ目の筵の者に、水をやれ。手を握れ。名を聞け。国と、親の名を聞いて、書き留めろ。……できるか」


 与一郎の顔が、くしゃりと歪んだ。


「勘十郎さま。それは、手当てには……」


「なるとも」


 俺は言った。


「与一郎。俺たちは、この者たちを助けられぬ。それはくつがえらん。……だが、《《一人で死なせるかどうか》》は、まだ俺たちが決められる」


「……」


「人を治すのが医者の仕事だ。だが、治せぬ人間の傍にいるのも、同じくらい医者の仕事だ。……頼む」


 少年は、袖で乱暴に顔を拭った。


 それから、俺の手からそっと竹筒を受け取り、若い男の枕元に膝をついた。


「……お名前を、教えてくださいませ」


 その声が、思いのほかしっかりしていたので、俺は少し驚いた。


 ――こいつは、いい医者になる。


 俺は立ち上がって、赤い筵のほうへ戻った。


 まだ、生きている者がいる。


          ◆


 浮野の戦は、織田の勝ちに終わった。


 岩倉勢は崩れ、信賢は城へ逃げ込んだ。尾張の統一は、時間の問題になった。


 そして数字が出た。


 運び込まれた負傷者、二百七十一人。


 三つ目の筵へ運ばれた者、十九人。うち十九人、死亡。


 赤と白の筵の者、二百五十二人。うち、その日から十日のあいだに死んだ者――《《十四人》》。


 俺は、その数字を三度数え直した。


 これまでの戦であれば、傷を負って運ばれた者の三割から四割が、傷そのものか、その後のうみと熱で死んでいた。


 それが、二百五十二人中、十四人。


 膿んで死んだ者は、そのうち六人だけだった。


          ◆


 陣払いの夜。


 篝火かがりびの傍で、俺は信長に数字を書いた紙を渡した。


 彼は、いつものように長いこと黙って眺めていた。


 それから、紙を懐に押し込んで、こう言った。


「勘十郎。今日、俺は妙なものを見た」


「……何を」


「兵が、逃げなんだ」


 俺は、顔を上げた。


「岩倉の右備みぎぞなえが崩れかけたとき、うちの二番備が、槍を捨てずに踏みとどまった。……あれは、本来なら崩れる場面だ」


 信長は、篝火を見つめたまま続けた。


「後で組頭に聞いた。なぜ引かなんだ、と。……そうしたらな」


 彼は、かすかに笑った。


「《《後ろに勘十郎さまがおるゆえ、手負うても死なぬ》》。そう言うたわ」


 ――ああ。


 俺は、腰から力が抜けそうになった。


 俺が二年かけてやってきたことの意味を、たった今、兵のほうが先に理解していた。


「兄上」


「なんだ」


「それがしは、兵の命を惜しんでおるだけにござる。強くしようと思うたわけでは」


「知っておる」


 信長は言った。


「だが結果として、貴様は俺の軍を強くした。……勘十郎。貴様の医術は、鉄砲より高くつくが、鉄砲より効くかもしれん」


 彼は立ち上がり、暗い野の向こう――東の方角を見た。


 駿河。遠江。三河。


 今川治部大輔義元の、二万五千。


「次は、東だ」


          ◆


 その夜、俺は手当所の隅で、油皿の灯りを頼りに筆を執った。


  永禄元年 七月 浮野

  傷病者二七一。うち死一九+一四。

  暑気にて倒れし者二三。死者なし。

  ――筵を三つに分けたり。

    三つ目の筵に置きし十九人の名、与一郎これを記す。

  残り、二十四年。


 筆を止めて、俺は隣の紙束を見た。


 与一郎が書いた、十九人分の名前。


 字は震えていて、ところどころ涙で滲んでいて、国名を間違えているものもあった。


 だが、十九人分あった。


 ――誰も、一人では死ななかった。


 俺は、その紙束を丁寧に折って、油紙に包んだ。


 これは、俺のカルテより大事な書類だ。


 東の空に、夏の星が出ていた。


 あの空の下に、今川義元がいる。


 ――執刀まで、あと二十四年。


今回の中心はトリアージです。


 負傷者を「すぐ手当てすれば助かる者」「待っても死なない者」「何をしても助からない者」に分け、一つ目から手をつける。生まれたのはナポレオン軍の軍医ドミニク・ジャン・ラレーの戦場で、現在も災害医療の基本になっています。


 この考え方の本質は効率ではありません。限られた手で最も多くを生かすために、誰かを諦める——その一点です。勘十郎に「これは優しさではない、俺が選ぶのだ」と言わせたのは、そこを曖昧にしたくなかったためです。


 前半の熱射病についても少し。暑さで倒れる人には二通りあり、汗をかいて水と塩を失って倒れる方(熱疲労)と、体温調節そのものが壊れて汗が止まり、体内から焼けていく方(熱射病)があります。後者は緊急事態で、助かるかどうかはほぼ「どれだけ速く冷やせたか」で決まります。作中の「濡らして風を当てる」方法は、水に浸けるより効率よく熱を奪えるため、現在も推奨される冷却法の一つです。汗が戻れば峠を越した——という判断も、実際の目安に近いものです。


 そして与一郎に与えた役目について。


 治せない人の傍らにいることも医療である、というのは、緩和ケアという分野が二十世紀後半に確立するまで、医学が正面から扱ってこなかった考え方でした。十五歳の少年には重すぎる役目ですが、彼にはいずれ、この物語の医術を継いでもらうつもりです。


 次話、尾張はついに一つになります。そしてその先には、二万五千の今川が待っています。


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