第八話 誰から先に診るか
※戦場の負傷描写があります。助からない負傷者の描写を含みます。
医者が最も残酷になるのは、手術のときではありません。
誰を先に診るかを、決めるときです。
永禄元年、七月。
尾張はまだ、一つになっていない。
清洲を落とし、那古野を押さえ、それでも北には岩倉がある。織田伊勢守家の当主・織田信賢。同じ織田を名乗る、最後の目の上の瘤である。
その岩倉と、浮野で当たる。
――尾張統一の、最後の一戦だ。
出陣の三日前、俺は清洲の広間で兄に願い出た。
「兵を、二百お貸しいただきたい」
家老衆が、いっせいに眉をひそめた。
「勘十郎さま。戦場に医者が二百人も要りますまい」
「医者ではござらぬ。《《担ぐ者》》にござる」
俺は答えた。
「戦えぬ者で構い申さぬ。歳を食った者、片足の悪い者、力仕事しかできぬ者。むしろそういう者がよい。役目は三つ。担ぐ、湯を沸かす、布を煮る。それだけにござる」
「そのようなものに二百も」
「戦は勝ちまする」
俺は、その家老を遮った。
「兄上が勝たれる。それは疑っており申さぬ。……それがしが考えておるのは、《《勝った後に、何人残っているか》》にござる」
沈黙が落ちた。
上座の信長が、退屈そうに脇息に頬杖をついたまま言った。
「くれてやる。三百持って行け」
「兄上」
「ただし勘十郎」
信長の眼が、こちらを向いた。
「貴様も行け。後ろでな」
◆
浮野の野に、俺は「陣」を張った。
軍勢の後方、街道の脇。小高い木立の陰に、筵を三十枚敷き詰め、その周りを板囲いにする。
中央に竈を五つ。大鍋で湯を沸かし続ける。
布は前の晩からすべて煮て、乾かして、油紙に包んである。絹糸も同じ。小刀、鋏、鑷子、すべて煮てから焼酎の壺に沈めてある。
そして水。とにかく水だ。桶を四十、井戸から汲んで並べ、そのうち二十には塩と甘葛を溶いた。
「勘十郎さま。これは、なんと呼べばよろしゅうございましょう」
与一郎が、板囲いを見上げて聞いた。
――野戦病院、とは言えない。
俺は少し考えて、答えた。
「《《手当所》》だ。それでいい」
◆
だが、戦が始まる前に、最初の患者が担ぎ込まれた。
七月の尾張である。
朝から蒸し暑く、雲一つない。そこに、鎧を着せられた男たちが、何刻も炎天下に並んで待っている。
「勘十郎さま! 倒れました!」
運ばれてきたのは、二十代半ばの足軽だった。
俺は具足の紐を切って、まず胸を開けさせた。
――熱い。
掌を額に当て、次に脇の下に差し込む。異様に熱い。人の身体がこんな温度になっていいはずがない。
そして、俺の指が、決定的なものを掴んだ。
(――《《乾いている》》)
「汗が、ない」
「へ?」
「この暑さで、この者だけ汗をかいておらん」
俺は、男の顔を覗き込んだ。目が虚ろで、呼びかけても焦点が合わない。うわ言のように、何か意味の通らぬことを呟いている。
(意識が飛んでいる。汗が止まっている。身体が焼けている)
――熱射病だ。
暑さで倒れる者には、二通りある。
一つは、汗をかきすぎて水と塩を失い、ふらついて倒れる者。顔は青ざめ、汗びっしょりで、意識はある。日陰で休ませ、塩湯を飲ませれば戻る。
もう一つが、こちらだ。
身体を冷やす仕組みそのものが壊れる。汗が止まり、熱が逃げ場を失って、内側からじりじりと身体を煮る。
放置すれば、脳から先に壊れていく。
助かるかどうかは、《《どれだけ速く冷やせたか》》で決まる。それ以外にない。
「具足を全部剥げ! 小袖も! 裸にしろ!」
「勘十郎さま、往来にございますぞ」
「死ぬぞ! 剥げ!」
俺は自分で桶を掴み、男の頭から水をぶちまけた。
「扇げ! 陣笠でいい、四人がかりで扇ぎ続けろ! 脇の下と股に、濡らした布を挟め!」
水をかけ、風を送る。
濡れた身体から水が蒸発するとき、それは身体の熱を大量に奪って飛んでいく。ただ水に浸けるより、《《濡らして風を当てるほうが速い》》。
半刻。
男の身体から、じわりと汗が滲みはじめた。
それを見た瞬間、俺は息を吐いた。
――汗が戻れば、勝ちだ。
「……あ、あれ。おれ、何を」
「戻ったか。よし、寝ておれ。今日は戦うな」
「い、いや、しかし戦が」
「《《寝ておれ》》」
俺は立ち上がり、板囲いから飛び出して、前線に向かって怒鳴った。
「全軍に触れよ! 陣笠を脱いで日陰に入れ! 塩湯を飲め、水ではなく塩湯だ! 汗をかかなくなった者がおったら、《《そいつは戦えぬ、すぐ運べ》》!」
その日、浮野の暑気で運び込まれた者は、二十三人。
死んだ者は、いない。
◆
昼過ぎ、戦が始まった。
俺のいる場所からは、土煙と、遠い喊声しか見えない。
そして――堰を切ったように、負傷者が流れ込みはじめた。
最初の一人が担ぎ込まれ、次の三人が続き、それから止まらなくなった。
十人。二十人。四十人。
筵が埋まる。板囲いの外まで人が溢れる。呻き声、怒鳴り声、血の匂い。
「勘十郎さま! こっちを先に!」
「いや、こちらの方が!」
「先に運んだのはうちの組にござる!」
――ここだ。
俺は、両手を叩いて、大声を出した。
「《《全員、手を止めろ!》》」
場が、一瞬静まった。
「筵を三つに分ける。ここから先、《《運ばれてきた順に診るのはやめだ》》」
「な……」
「与一郎、赤い切れ端を持て。それから白いのを」
俺は、土の上に線を引いた。
「一つ目。《《すぐ手当てすれば助かる者》》。血が噴いている者、息ができぬ者。――赤い布をつけて、この筵へ。俺が診る」
「二つ目。《《しばらく待っても死なぬ者》》。骨が折れた者、深くとも血の止まっている者。――白い布をつけて、あちらの筵へ。水を飲ませて待たせろ」
そして俺は、木陰を指した。
言葉が、少しだけ喉に引っかかった。
「三つ目。……《《何をしても助からぬ者》》。あの木の下へ運べ」
誰も、何も言わなかった。
言葉の意味を、全員が理解していた。
「勘十郎さま」
与一郎が、掠れた声で聞いた。
「三つ目の方々は……手当てを、なさらぬのですか」
「しない」
俺は答えた。
「その一人に半刻かければ、赤い布の者が三人死ぬ」
「……」
「与一郎。よく聞け」
俺は少年の肩を掴んだ。
「これは、優しさではない。《《俺が選ぶのだ》》。俺が誰を助け、誰を助けぬかを決める。それを他の言い方で誤魔化す気はない」
――トリアージ。
三百年後、ナポレオンの軍医が戦場で確立し、以後あらゆる災害と戦場で使われることになる考え方だ。
その本質は、効率でも、合理でもない。
《《限られた手で、最も多くを生かすために、誰かを諦める》》。
ただそれだけの、残酷な算術である。
◆
それからの二刻を、俺は覚えていない。
覚えているのは、手の感触だけだ。
噴き出す血。指を突っ込んで血管を探し、煮た絹糸で括る。次。太腿を裂かれた男、圧迫、結紮、洗浄、閉じずに布を差し込む。次。
肩に矢が刺さったまま暴れる男。押さえつけ、鏃の返しを確かめ、押し込んでから抜く。次。
息のできぬ男。胸に穴が開いて、空気が吸い込まれている。俺は油紙を当て、三方だけを固定して、一辺を開けておいた。息を吸うときは塞がり、吐くときは逃げる。それだけで、男の顔に色が戻った。
次。次。次。
――その途中で、それは起きた。
「どけ! どかぬか下郎ども!」
馬蹄の音とともに、具足姿の武将が乗り込んできた。四十がらみ、立派な兜。侍大将だ。
左腕を押さえている。
「勘十郎さま、手当てを! 早う!」
俺は、手を止めずに、そちらをちらりと見た。
腕を押さえている。押さえられている。つまり、《《自分で押さえられる程度の血だ》》。歩けている。喋れている。声に張りがある。
「白だ。与一郎、白い布」
「なっ――」
武将の顔色が変わった。
「白とは何だ! わしを誰と心得る!」
「怪我人と心得申す」
俺は、手元の足軽の傷を洗いながら答えた。
「その傷では死に申さぬ。あちらの筵で待たれよ」
「わしはこの手の者どもとは違う! 禄も、家格も――」
「――《《血の出方が違わぬ》》」
俺は、初めて顔を上げた。
血まみれの手で、まっすぐにその武将を指した。
「この手当所では、身分で順は決めぬ。《《死にかけている順》》に決める。それがしがそう決めた」
「兄君に申し上げるぞ!」
「どうぞ」
俺は、また手元に視線を戻した。
「兄上がそれがしを罷免なさるまでは、それがしがここの主にござる。……与一郎、白い布」
武将は、真っ赤な顔で何か喚いたが、やがて、荒々しく白い筵のほうへ歩いていった。
――後で聞いた話だが、その日の夕方、彼が信長に訴え出たそうだ。
信長は最後まで黙って聞き、こう言ったという。
「では貴様は、《《死にかけておらなんだ》》のだな。重畳」
◆
夕方近く、俺は木陰へ行った。
三つ目の筵。何もしない場所。
そこには、五人が横たわっていた。
一人の若い男の前で、俺は膝をついた。
十七、八だろうか。腹を槍で貫かれている。押さえた手の隙間から、あってはならないものが覗いていた。
この時代、この傷は、必ず死ぬ。
麻酔がない。輸血ができない。腹を開けたところで、破れた腸を縫っても、腹の中に撒かれた汚れを洗い切ることはできない。数日、悶え苦しんで死ぬだけだ。
――四十年、俺はこういう腹を開け続けてきた。
現代なら助けられた。設備さえあれば。人手さえあれば。
だが、ここにはない。
「……い、痛い……おっ母」
「痛いか」
「痛い……痛い……」
俺は、竹筒の水を少しだけ含ませ、それから、汗と土で汚れた額を手で拭ってやった。
「痛みは、じきに薄れる」
「たす、けて」
「……ああ」
俺は嘘をつかなかった。だが本当のことも言わなかった。
代わりに、その手を握った。
「与一郎」
俺は、後ろに立っていた少年を呼んだ。
「はい」
「お前の役目を変える。ここに残れ」
「……え」
「三つ目の筵の者に、水をやれ。手を握れ。名を聞け。国と、親の名を聞いて、書き留めろ。……できるか」
与一郎の顔が、くしゃりと歪んだ。
「勘十郎さま。それは、手当てには……」
「なるとも」
俺は言った。
「与一郎。俺たちは、この者たちを助けられぬ。それは覆らん。……だが、《《一人で死なせるかどうか》》は、まだ俺たちが決められる」
「……」
「人を治すのが医者の仕事だ。だが、治せぬ人間の傍にいるのも、同じくらい医者の仕事だ。……頼む」
少年は、袖で乱暴に顔を拭った。
それから、俺の手からそっと竹筒を受け取り、若い男の枕元に膝をついた。
「……お名前を、教えてくださいませ」
その声が、思いのほかしっかりしていたので、俺は少し驚いた。
――こいつは、いい医者になる。
俺は立ち上がって、赤い筵のほうへ戻った。
まだ、生きている者がいる。
◆
浮野の戦は、織田の勝ちに終わった。
岩倉勢は崩れ、信賢は城へ逃げ込んだ。尾張の統一は、時間の問題になった。
そして数字が出た。
運び込まれた負傷者、二百七十一人。
三つ目の筵へ運ばれた者、十九人。うち十九人、死亡。
赤と白の筵の者、二百五十二人。うち、その日から十日のあいだに死んだ者――《《十四人》》。
俺は、その数字を三度数え直した。
これまでの戦であれば、傷を負って運ばれた者の三割から四割が、傷そのものか、その後の膿と熱で死んでいた。
それが、二百五十二人中、十四人。
膿んで死んだ者は、そのうち六人だけだった。
◆
陣払いの夜。
篝火の傍で、俺は信長に数字を書いた紙を渡した。
彼は、いつものように長いこと黙って眺めていた。
それから、紙を懐に押し込んで、こう言った。
「勘十郎。今日、俺は妙なものを見た」
「……何を」
「兵が、逃げなんだ」
俺は、顔を上げた。
「岩倉の右備が崩れかけたとき、うちの二番備が、槍を捨てずに踏みとどまった。……あれは、本来なら崩れる場面だ」
信長は、篝火を見つめたまま続けた。
「後で組頭に聞いた。なぜ引かなんだ、と。……そうしたらな」
彼は、かすかに笑った。
「《《後ろに勘十郎さまがおるゆえ、手負うても死なぬ》》。そう言うたわ」
――ああ。
俺は、腰から力が抜けそうになった。
俺が二年かけてやってきたことの意味を、たった今、兵のほうが先に理解していた。
「兄上」
「なんだ」
「それがしは、兵の命を惜しんでおるだけにござる。強くしようと思うたわけでは」
「知っておる」
信長は言った。
「だが結果として、貴様は俺の軍を強くした。……勘十郎。貴様の医術は、鉄砲より高くつくが、鉄砲より効くかもしれん」
彼は立ち上がり、暗い野の向こう――東の方角を見た。
駿河。遠江。三河。
今川治部大輔義元の、二万五千。
「次は、東だ」
◆
その夜、俺は手当所の隅で、油皿の灯りを頼りに筆を執った。
永禄元年 七月 浮野
傷病者二七一。うち死一九+一四。
暑気にて倒れし者二三。死者なし。
――筵を三つに分けたり。
三つ目の筵に置きし十九人の名、与一郎これを記す。
残り、二十四年。
筆を止めて、俺は隣の紙束を見た。
与一郎が書いた、十九人分の名前。
字は震えていて、ところどころ涙で滲んでいて、国名を間違えているものもあった。
だが、十九人分あった。
――誰も、一人では死ななかった。
俺は、その紙束を丁寧に折って、油紙に包んだ。
これは、俺のカルテより大事な書類だ。
東の空に、夏の星が出ていた。
あの空の下に、今川義元がいる。
――執刀まで、あと二十四年。
今回の中心はトリアージです。
負傷者を「すぐ手当てすれば助かる者」「待っても死なない者」「何をしても助からない者」に分け、一つ目から手をつける。生まれたのはナポレオン軍の軍医ドミニク・ジャン・ラレーの戦場で、現在も災害医療の基本になっています。
この考え方の本質は効率ではありません。限られた手で最も多くを生かすために、誰かを諦める——その一点です。勘十郎に「これは優しさではない、俺が選ぶのだ」と言わせたのは、そこを曖昧にしたくなかったためです。
前半の熱射病についても少し。暑さで倒れる人には二通りあり、汗をかいて水と塩を失って倒れる方(熱疲労)と、体温調節そのものが壊れて汗が止まり、体内から焼けていく方(熱射病)があります。後者は緊急事態で、助かるかどうかはほぼ「どれだけ速く冷やせたか」で決まります。作中の「濡らして風を当てる」方法は、水に浸けるより効率よく熱を奪えるため、現在も推奨される冷却法の一つです。汗が戻れば峠を越した——という判断も、実際の目安に近いものです。
そして与一郎に与えた役目について。
治せない人の傍らにいることも医療である、というのは、緩和ケアという分野が二十世紀後半に確立するまで、医学が正面から扱ってこなかった考え方でした。十五歳の少年には重すぎる役目ですが、彼にはいずれ、この物語の医術を継いでもらうつもりです。
次話、尾張はついに一つになります。そしてその先には、二万五千の今川が待っています。
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